Tiny garden

スイッチ

 普通なら、何かが変わって然るべきだと思う。
 曲がりなりにもあんなことがあった訳だし――いや、別にロマンチックでもドラマチックでもなかったけどね。相手は後輩だし、日頃からとかく生意気な奴だし。でもそうだとしても普通なら、どこか変わってたっておかしくはないんだ。
 なのに氷見と来たら、あれから何にも変化なし。私の前でも平然としている。本当に、何にもなかったみたいに。

「長嶺先輩、こんにちは」
 放課後、演劇部の部室に現れた氷見は、ちらと控えめにだけ笑った。計算づくとも見える礼儀正しさを憎らしく思いつつ、私も会釈を返す。
「こんにちは」
「今日も冷えますね」
 いつものように声はいい。
 氷見は後ろ手でドアを閉めると、二人用にしては広すぎる部室が廊下から切り離される。隔離されたような室内は近頃、やけに居心地が悪かった。
 奴よりも先に来て、ルーズリーフを広げていた私は、ペンを回しながら氷見の動向をチェックしていた。
 やっぱり氷見は普通にしている。羽織っていたコートを脱ぎ、丁寧に畳んで、空いている机の上に置く。私の視線に気付いているのかいないのか、こちらを気にするそぶりはない。無造作に椅子を引き、私と向かい合わせに座る。その態度はどう見ても、普通。
「調子、どうですか」
 氷見に尋ねられ、私は眉を顰める。
「え?」
「スランプ、治ったのかなと思って」
 その時の笑いには悪意も皮肉も混ざっていなくて、きっと氷見は純粋な気遣いとして言ってくれたんだろうと思う。
 だけど私は、手にしていたペンをその眼鏡に叩きつけてやりたい衝動に駆られた。――誰のせいだよ、誰の!

 あの日以来、私は酷いスランプに悩まされている。氷見に言わせたい台詞どころか、文章一つ書くのさえままならない。お蔭でルーズリーフは真っ白なまま、ペンはすっかりおもちゃと化している。
 だって、あの日の氷見の言葉が本当なら、今まで通りの台詞なんて書けないもの。甘い甘い蜂蜜漬けの台詞も、それを言われる対象が自分となれば胃がもたれる。くどくて、重くて、気恥ずかしい。まして氷見のあの凶器みたいな声が、私の書いた甘すぎる台詞を私自身に言うんだとなれば、居た堪れない。自分の為になんて、一体どんな台詞を書けるって言うんだろう。
 今までは、他人事だからよかった。氷見が甘い台詞を捧げる相手は架空の人だった。どこかのきれいなお姫様か、どこかの素敵な令嬢か。自由にイメージを膨らませられる赤の他人だからよかった。
 あの声に私じゃ釣り合わない。私はお姫様でもなければ令嬢でもないし、それらを演じる力もないんだもの。台詞を生むのが私の仕事、それなら氷見の相手が私であるのは場違いだ。
 それに別に、氷見のことが好きだって訳じゃないし。声はもちろん好きだけど、中身は生意気すぎるし、年下だ。そりゃあ後輩として嫌ってるなんてこともないけど、異性としては好みじゃない。私はアラン・リックマンみたいな人が好きなんだから。いや、声だけじゃなくてね!
 ――とにかく。あれから私は何にも書けずに、ひたすら氷見の出方を窺っている。こっちからあの日のことを切り出すのも気が引けて、平静を装いながら氷見を見ていた。それを知ってか知らずか、氷見はあの日のことをすっかり忘れてしまったようなそぶりでいた。

「調子、よくないです」
 私は多少の皮肉を込めて、氷見に向かって言ってやった。お前のせいだよ、と言外に匂わせつつ。まあ、どうせ反応しないんだろうけど。
「長嶺先輩でもそういうこと、あるんですね」
 案の定、氷見の答えは他人事のようだった。冷たくはない、むしろ優しいくらいの物言いだったけど、よもや自分に要因があるだなんて思ってもみません、なんて調子。
 思わず、溜息が出る。
 まさかあの日のこと、忘れたなんて言いたい訳じゃないでしょう。頼みもしないのにあんな真似されて、こっちはなかったことになんて出来ないんだけど。ええもう、覚えてますよはっきりしっかり鮮明に。いっそ忘れたいくらいだけどね。
 あの日の氷見は、別人みたいに大人びて見えた。声だけじゃなく、表情も仕種も全て色っぽかった。でも今の氷見は普段通り、ただの生意気な後輩にしか見えないから、もしかすると本当に別人なのかもしれない。その違いと来たら、まるでスイッチが切り替わったみたいだ。こんな調子を続けられたら、あの日のことを忘れられない私が馬鹿みたいだ。何とも拍子抜けしてしまう。
「私でもって、どういう意味?」
 頬杖をついて尋ねれば、氷見はちょっと笑ってみせた。
「俺、長嶺先輩はスランプと無縁の人だと思ってました」
「何でそう思うの?」
「何ででしょうかね。何となく、長嶺先輩の頭脳は枯れない泉みたいだって、そんな気がするんです」
 励ましのつもりだろうか。らしくもない気障な台詞に聞こえた。
 氷見の声にそう言われると、理由もなくどきっとしてしまう。この声は、好きだった。
 でも、あいにくとからっからに干からびてます。もう何も出てこない。きっと氷見のせいでね。
「私、もう何も書けないかも」
 投げやりな気持ちになって、私はぼやく。
 途端に氷見が、強くかぶりを振った。
「そんなこと言わないでください。先輩らしくないです」
 らしくないってね。私の何を知ってるって言うんだろう。
 少なくとも私、あんなことされて平然としていられるほど面の皮が厚い訳じゃない。氷見はそうは思ってないかもしれないけど。一応、むちゃくちゃ動揺してるんだから。今でもだ。
「氷見からすれば、いいことなんじゃないの?」
 自然と口調がきつくなる。優しくする余裕もなかった。
「前から言ってたじゃない、私の書く台詞が気に入らないって。時代錯誤だとか、どうだとか。氷見にとっては私のスランプも願ったり叶ったりでしょ?」
 私はレンズの奥にある、氷見の双眸を睨みつける。それはいつも冷静に私を見ていた。動じてみせることなんてほとんどない。本心のまるで見えない眼。
 何かを演じているのかもしれない、と時々思う。氷見の今の態度はあえて演ぜられたものなのかもしれない。まるで掴み切れないからそう思ってしまう。どこからどこまでがそうなのかも、はっきりしないけど。
「そうですね」
 あくまでも平然と、氷見は私の問いを肯定した。ちょっと腹が立った。
「長嶺先輩の書くものは古典的すぎますし、歯の浮くような台詞ばかりでどうかと思っていました。しかも遊び半分で俺に読み上げさせようとするから、常々うんざりしていたところです」
 しかも遠慮もせずによく言う。後輩のくせに。
「ああそう」
 私が思い切り顔を顰めると、氷見は宥めすかすように笑みかけてきた。
「でも、嫌いな訳じゃないんですよ、先輩」
「そこまで言われて、そんな言い分信じられると思う?」
「まあ、そうでしょうけどね。信じてもらえたらうれしいです」
 無理。絶対無理。私は黙ってかぶりを振った。
「信じてください、先輩」
 氷見が語気を強める。その声も実によく響いて、僅かに心が揺さぶられた。こんな声で言われなければ、手厳しく撥ね付けてやるところなのに。
「俺、本当は、もっとシンプルな芝居をやりたかったんです」
「シンプル?」
「そうです。何でもないような人間が主人公の、ごく日常的な劇。どこにでもいそうな、ありふれた人間の役を演じてみたいって思っているんです」
 少し熱っぽい口調で、氷見はそう語った。その言葉も演技かどうか、わかったものではないけど。
「そういう役柄に、長嶺先輩の台詞は合わないだろうなと考えてました」
「まあね、そうだろうね」
 むかついていることを悟られないよう、私は慎重に首を竦めた。自分の書くものを面と向かって否定されるのは、そりゃあ気分のよくないことだ。ましてその相手が氷見なら、余計にそう。
「でも、ある時、思ったんです」
 と、氷見は言い、微かな笑声を立てる。
「どこにでもいるような、平凡な人間でも、人生のある局面では歯の浮くような台詞を吐いたり、飾り立てた言葉を口にすることもあるんじゃないだろうかって。長嶺先輩の書く台詞は気障ですけど、その気障さに頼らなければならない時もあるのかもしれないって」
 私は、ぽかんとしていた。
 珍しいこともあるものだ。氷見が、私の書いたものを肯定している。
「いや、むしろ」
 氷見はやや早口で、自ら語を継いだ。
「先輩がそれを望むなら、俺はいくらでも言いますよ。気障ったらしい台詞でも、甘すぎる言葉でも」
 レンズ越しの眼差しがこちらを向く。射抜くように強い。表情は穏やかなのに視線は妙に鋭くて、私は目のやり場に困った。
「望むならって……私はいつも、望んでたじゃない。氷見に読んでほしい台詞があるって。氷見の声に合う台詞を、ホンを書いてあげるからって」
 俯きつつ、そう答える。だけどすかさず、氷見の声が低く聞こえた。
「そういう意味じゃないです」
 二人で使うには広すぎる部室に、凛と響く。
 じゃあ、どういう意味? 聞き返してやろうかと思ったけど、何となく口を噤んだ。今の空気がやけに気まずいものに思えた。
 もしかすると、何も変わってない、なんてことはないんだろうか。
 急に静かになった室内に、氷見の呟きが溶け込んだ。
「あの時の先輩は可愛かった。上手く、殺せてたはずだった。あのまま落としてしまえると思ったのに」
 がらりとトーンの変わった声。
「だけど結果的に、声だけで殺せるなんてことはなかった。ちっとも、そうならなかった。先輩が言ったのにな、俺の声なら人を殺せるって。なのに先輩はしぶとく生きてる」
 それは蜂蜜を溶かしたように、甘く、ゆっくり掻き消えた。

 声で殺せるなんてことなかった。殺される、なんてこと、なかった。
 確かにそうだった。殺されかけた私はちゃんと生きているし、比喩の範囲内で考えたとしても――殺されたのは作家としての私だけだ。その他の部分は変わりなく、ここにある。私自身の心は殺されることもなかった。
 冷静でいるつもりはなかった。今でも動揺しているし、あの日以来氷見のことが癪に障るくらい気になっている。それは当然の事だと思う。
 でも、変わりかけた関係を強引に切り替えてしまったのは、私の方だったのかもしれない。変わっていないように思って、本当に何も変えずに来てしまった。変えたいのか、変えたくないのかの判断もつかないうちから、口を噤んで、元に戻ろうと努めてきたように思う。
 氷見はどうなんだろう。その本心は、どこにあるんだろう。ここ数日見せつけられてきた『普段通りの』氷見は、演技なんだろうか、それとも本当の顔?

 今、見つめていてもわからない。
 眼鏡越しの視線は鋭く、痛いくらいだった。表情はまだ平静に見えた。でも、次の言葉に迷っているようでもあった。
 冬の部室は肌寒い。空気が澄んでいて、眼差しを遮るものがないみたいだった。そこに大量に溶け込んだ甘さもまるごと凍りついていて、新しく何かを溶かし込むには、一度凍りついたものを粉々に打ち崩さなくてはならないだろう。私が何か、きっかけになる言葉を口にすれば、きっとあっさり崩れてしまうだろう。
 氷見は何も言わない。私の反応を待っているのかもしれない。平然と、冷静なそぶりで。その実、内心を明かさないままで。だから奴が、あの日のことをどう思っているのかはまだわからない。忘れてしまっている訳ではないことだけ、確かだった。
 スイッチは私の手に委ねられたようだ。あの日のことを凍らせたまま、閉じ込めておくのも。はっきりと何かを変えてしまう為に、一度打ち崩してしまうのも、私が選ぶべきことだった。

 深く息を吸い込む。舞台に立つ時よりもきっと、緊張する一瞬。
「私、のこと……」
 慎重に発した言葉で、私は、凍りついた空気を打ち崩した。
「私のこと、――殺してみたいと思った?」
 物騒な台詞だと、眉を顰められるかと思った。
 だけど氷見は薄く笑って、ちらと自虐的な色を閃かせる。
「そりゃあね。殺せたもんだと思ってた」
 粉々に砕かれた甘い空気が、ゆっくりと溶け出し、混ざり合っていく。あの日の出来事を思い出させる。
 架空のお姫様や令嬢ではなく、私へと向けられた蜂蜜漬けの台詞たち。その後に続いた、アドリブめいた氷見の言葉。生意気にも名前を呼ばれたこと。触れられたこと、くちづけられたこと。
 全部覚えていた。映画のワンシーンのように鮮明に、思い出せた。
「それなのに」
 氷見が溜息をつく。
「先輩があまりにも変わらないから。何事もなかったように接してくるから、ちょっと自信失くした。俺の声だけじゃ駄目なんだな。ちっとも殺せない」
 吐息混じりの声は眩暈がするほど魅惑的なトーンで聞こえてくる。氷見の声は好き。でも、氷見自身のことはどうなのか、わからない。
「氷見だって、普通にしてたじゃないの」
 言い訳がましく私が応じれば、すかさず生意気な口調が返ってきた。
「そりゃあ、俺はデリカシーってものを弁えてるんで。先輩と違ってね」
「何それ、私にデリカシーがないって言いたいの?」
「ない。あの時は黙って口説かれてたくせに、結局日が変わったら全部忘れたような顔をして。もうちょっと引き摺ってくれたってよかったのに」
 引き摺ってるよ、十分。こっちだって動揺しなかった訳じゃないし、冷静でいたつもりもなかった。
 ただ単に、殺されなかっただけだ。
 氷見の声だけじゃ足りなかった。こんなに好きな声なのに、決定的に足りなかった。あの時、私が先へ踏み込む為の原動力にはなり得なかった。
「スランプ、早く克服してくれないかな」
 少し焦れた様子で、氷見が私を急き立てる。
「教えて欲しいんだよ。どんな台詞を言えばいいのか。どんな言葉を口にすれば、先輩のことを殺してしまえるのか。俺に教えて」
 そう言うと氷見はきゅっと唇を結んで、いつになく苛立たしげな表情を見せた。演技にしてはやや性急なタイミングだった。もう少し間を置かなければ、余裕のない男にしか見えない。
 でもそれを言うなら私の方だって、端から余裕なんてなかった。余裕のない氷見には読み取れなかったのかもしれないけど、私だって心底平然としていた訳ではないし、動揺だってしていた。あの時不覚を取って、黙って口説かれてたこと自体が証明している。
 あとは、覚悟の問題かもしれない。スイッチは相変わらず私の手にある。氷見の声で、私の作り出した台詞が読み上げられた時、私はそれを受け止める覚悟を持っていられるだろうか――多分、無理。
「そんなこと言われたってね」
 私は頭を抱えたくなった。そりゃ、氷見の声で毎日毎日理想の台詞が聞けたなら、きっと楽しい日々になるだろう。けど、それも全て自分宛ての台詞だと考えたら、さすがに二の足を踏んでしまう。氷見の声が口説くのは、出来れば私以外の人であってほしかった。私は観客としてそれを見ていたかったんだ、あくまでも。
「ちょっとくらいなら待ってやってもいいけど。先輩のことだ、どうせ他に好きな奴なんていないんだろ?」
 氷見に言われて、一瞬返答に窮した。待たせるってことは、いつかは覚悟を決めなきゃいけないってことだ。待たせることなんて、私が、していいんだろうか。氷見のこと、好きかどうかもわからないのに。この関係を変えるべきかどうかも決めかねているのに。
 好きな人は、まあ、確かにいないけど。――スクリーンの外にはね。
「その……私、アラン・リックマンが好きなんだ」
 とっさに答えた名前を聞いて、氷見が顔を顰める。
「オヤジ趣味?」
「うるさいな、いいでしょどうだって」
 私も顔を顰め返した。オヤジって言うな。魅惑のベルベットボイスなんだから。
「声のいい、包容力のある人が好きなの」
「じゃあ俺は、声の方はクリアしてる?」
 もう一度、今度はより踏み込んだ内容で問われた。
 私は再び答えに詰まり、氷見の甘い声から、蜂蜜漬けの言葉を貰う。
「包容力もそのうち、身につける。だから真剣に考えて欲しい。先輩の書く世界最高の台詞が欲しいんだ。俺に、ください」

 ああどうしよう、参った。これが演技だったなら最高に痺れるシーンなのに。自分に向けられたものだとわかると、居心地が悪くて堪らなくなる。氷見の声に見合うようなお姫様でも令嬢でもない自分が、恨めしくなる。
 だけど決定権は既に、私にある。私たちを変えてしまうスイッチは、私の手の中にだけあるようだ。あとはそこまで、私自身が辿り着けるかどうか。踏み込んでしまえるかどうか。
 世界最高の台詞を、氷見の為に、それから私の為に書き上げることが出来るだろうか。

 甘い声に酔わされて、ぐらぐらしていた。頭が熱い。空気は既に蜂蜜が溶け込んで、重く、息苦しく圧し掛かっている。
 それでも考えなきゃいけなかった。氷見の気持ちと、私の気持ちを。全て殺されることは出来なかったのに、撥ねつけることも出来ない私自身の迷いを、躊躇いを。考えた上で、答えなければいけなかった。
 答えるべき台詞は――どれ、なんだろう。
「……考えさせて」
 結局、私はそう答えた。半ば逃げの台詞であったことは、否定しない。
「いいですよ。その代わり、ちゃんと考えてください」
 氷見もそれはお見通しのようだ。身を引き、姿勢を正してから、すぐにきつく、念を押すように言われた。後輩の口調に戻っていたせいで、やっぱり生意気に聞こえた。可愛くない奴。
 でも、嫌いじゃない。好きでもないけど。声は好きだけど。まだわからない。
 私、氷見をどうしたいんだろう。どう思ってるんだろう。
「もう、残り一年しか一緒にいられないんですから」
 氷見に言われて、まだ一年もあるじゃないのと思ってしまう時点で、私の覚悟の程が知れる。一年も気まずいままではいられないし、一年もあるからこそ、もしかすると唯一になってしまうかもしれない後輩との距離を、真剣に考えなくちゃいけない。せっかくなら、楽しい残り一年にしたいところだ。どうやって?
「考えとく」
 ぼんやり、私は呟いた。
 手の中にあるスイッチを、切り替える覚悟がつかない。
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