Tiny garden

セクシーボイス

 氷見の声が好き過ぎる。
 私の夢は、氷見に世界最高の名台詞を用意することだった。

 彼は、たった二人しかいない演劇部の看板俳優だ。見た目は男の子にしてはやや可愛い系で、眼鏡の似合う、おりこうさんの顔立ちだった。
 だけど声はすごい。変声期を過ぎた男の人の声、しかも大層男前の声をしている。低くて、甘くて、少しかすれたような話し方で、私は氷見の声が好きだった。どんな台詞を言わせても、氷見の声ならしっくりきた。私の用意した台詞を読み上げる氷見の声を聞く度、無性にぞくぞくして、胸が高鳴って堪らなかった。
 私は、この演劇部の専属作家だ。――もっとも二人きりの部活で、専属も何もないものだけど。三年生の先輩たちが揃って引退してしまった年明け後、残っているのは二年生の私と、一年生の氷見だけだった。
 今は二人きりだから、私は氷見の為に台本を書き、台詞を用意する。氷見の声で聴いてみたい、言わせたい台詞はたくさんある。私は彼の声が好きだった。演技中の彼の声を聞くと、何だかとても素晴らしい瞬間に居合わせているような気がした。
 氷見はきっと、いい役者さんになる。声で女の子たちを殺せるような、素敵な俳優さんになれる。私は脚本家になって、氷見の為に、世界最高の名台詞を捧げたい。こんな片田舎の高校の、小さな小さな演劇部にいて、何て大それた夢だと思うだろうか。でも本心だった。氷見にはそれだけの資質があると思ったし、私は氷見の為なら努力したいと心から思った。

 だけど、本人の反応は冷たい。
「声で人が殺せるんですか」
 素っ気ない口調でそれとなく抗議の意思を示す氷見。後輩なのに、時々生意気だった。
「殺せるんだよ、氷見の声は、女の子相手ならね」
 私が思いっ切り頷いてあげると、やれやれ、とでも言いたげにかぶりを振る。眼鏡の奥の瞳が、呆れたようにこちらを見た。
「長嶺先輩の言うことは、たまにぶっ飛んでるんですよね」
「そんなことないったら。私は真面目に言ってるの」
「どうだか」
 生意気な一年生が嘆息する。そのため息混じりの声もぞくぞくするほど素敵なのに、どうしてか本人はそれをわかっていない。私の言葉を聞き入れずに、胡散臭そうな目で見てくる。
「絶対だってば。近い将来、『声殺しの氷見』って呼ばれるようになるよ」
「止めてくださいよ、そんな物騒な二つ名」
 本当に嫌そうな顔を氷見がしたので、私は渋々口を噤んだ。
 我が演劇部の看板俳優は、何かとわがままでノリが悪い。演劇部に入ったからには演技をやりたいんだろうけど、先輩方の前ではとにかく一歩引いた、地味な役ばかりをやりたがった。声だけじゃなく演技力もそこそこあるのに、去年の文化祭でも宛がわれたのは町人A役とガヤの声だけ。心底もったいないと思った。
 先輩方が引退してしまってからは、寂しい二人きりの部活動。だけどそうなったからにはこれまで目立てなかった氷見にもいろいろやらせてみようと、短いシーンを書いたり、台詞を読み上げさせてみたりしてるんだけど、……氷見の反応はひたすら淡々としていて、冷たい。
「ね、短いの書いてみたんだけど、ちょっとやってみてくれない」
 そう言って、私はルーズリーフに書き留めたワンシーンを差し出す。放課後の部室は二人で過ごすには広過ぎて、紙が空を切る音さえよく響いた。だけど静かな方が、氷見の声がよりはっきり聞こえるからいい。
 氷見は眉を顰めながらルーズリーフを受け取る。そして眼鏡のレンズ越しに内容を確かめて、途端にうんざりした表情になった。
「何ですか、これ」
「だから、脚本。氷見の為に書き下ろしたんだよ」
「そりゃわかってますよ。そうじゃなくてこの中身……」
 何か言いかけて、すぐに氷見は口を閉ざした。私は笑みを噛み殺しながら促す。
「読み上げてみてよ」
「嫌です。お断り」
「せっかく書いたのに。ね、お願い。ちょこっとだけでいいから!」
「――先輩」
 私の頼みにも氷見はにこりともせず、手にしたルーズリーフを突っ返そうとしてきた。
「最近の先輩は、こういう路線ばっかりですよね」
「こういう路線って?」
「鼻につく、気障な台詞ばかりってことです。非現実的だし、第一俺のキャラじゃない」
「気障だっていいでしょ。だって氷見に言わせてみたいんだもん」
 だって、氷見の声には甘い甘い台詞の方が似合うんだ。絶対にそう。王子様が紆余曲折を経てお姫様とめぐりあえて、そうして万感の思いで口にする愛の言葉のような、蜂蜜漬けの台詞が似合うんだから。
 きっと誰もがそう思うはず。あの声で、甘い台詞を囁かれてみたい。あの声で口説かれたら簡単に篭絡されちゃうに違いないもの。――あ、そうなると案外、悪役とかもいいかもしれない。美貌と智略とで次々と女性を落としていく傾国の青年、なんてのはどうだろう。現状だとどうしても一人芝居にせざるを得ないんだけど、それでも氷見の声なら映えるだろう。ようし、次はそれで行こうっと。
 そんなことを熱心に考えていたら、
「先輩、長嶺先輩」
 いきなり目の前で手を振られて、ぎょっとする。
 見れば氷見が、気遣わしげに私の顔を覗き込んでいた。
「ん、んん? 何か言った、氷見」
「何ぼうっとしてるんですか。さっきから呼び掛けてるのに、なかなか返事をしないし」
「ちょっと、考え事をね」
「どうせまたろくでもない考え事ですよね」
 ああもう、生意気なんだから。でもこの声で言われると怒るに怒れない。つい口元が緩んでしまう。
「とにかくね、氷見。ちょっと試しに読み上げてみてよ」
 私は返されそうになっているルーズリーフを受け取らず、氷見に向かって言ってみた。
 たちまち氷見の顔がしかめっ面になる。
「嫌ですってば。読んで欲しいならもうちょっとまともな本書いてくださいよ」
「何をう。私の書くものにケチつける気?」
「まともになってくれるまでは毎日、そのつもりです。声殺しなんて言われても、こっちは実感も何もあったもんじゃないですし」
 笑いを含まない声で言った氷見は、事実毎日のように部に顔を出していた。私が脚本を書いている最中でも、部室に来て私の作業を見守ったり、一人で発声練習に励んでいたりしていた。二人しかいない部だから、別に毎日通わなくてもいいんだよと言ったら、『先輩に駄目出しする人間がいなくちゃやばいですからね』と言い返された。生意気。
 でも、悪い子じゃないんだ。それはわかってる。それに練習熱心だし、演劇への熱意だってちゃんと持っている。声はもちろん素晴らしくいい。ただ、地味で普遍的な役柄と台詞ばかりを好んでるってだけで――だから私は、氷見の要望と自分の欲求の間で折り合いをつけつつ、氷見の声のよさを生かした台詞を書けるようになりたいと思うんだ。大抵、欲求の方が若干勝ってしまうって、気障な台詞になってしまうんだけど。
「ちょっとでいいから読んでみて。おかしかったら、それはもう没にするから」
 欲求の方に強く背を押されて、私は更に促した。
「本当ですか? まあそう言っても、先輩の書くものなんていつも同じですけどね」
「いつも素晴らしくロマンチックでしょ?」
「いつも素晴らしく非現実的で気障過ぎるんです」
 可愛くないことを言いながらも、氷見は眼鏡の奥の眼差しをふと和らげた。ちらと微かに笑って、こう語を継ぐ。
「じゃあ、条件付きでならやってみてもいいですよ」
「条件って?」
 何だろう。ジュース奢れとかかな。まあそのくらいなら先輩だし、やってあげなくもない。そう思い掛けた私に、氷見は答えた。
「先輩が、相手役をやってくれるならです」
「え……わ、私が!?」
 すぐに声を上げてしまった。
 だって私は、本書き専門だ。これまでモブか、照明や大道具の手伝いくらいで、演技はほとんどやってこなかった。いきなり相手をやれと言われても困る。
 私の驚きように、氷見がまた笑った。おかしそうに。
「そんなにびっくりしなくてもいいんじゃないですか。演劇部員なんだから」
「だって……私、演技なんてほとんど出来ないよ?」
「いいんですよ、どうせ名演技なんて期待してません」
 と言って氷見は皮肉っぽく首を竦めた。
「ただ、こういう台詞は相手がいることを想定した方がやり易いものですから。先輩は黙って、聞いていてくれるだけでいいんです」
「それならまあ……いいけど」
 私は腑に落ちないままで頷く。そんなもんかなあ。いつもは相手がいなくてもちゃんと――嫌々ながらも、どんな役でもこなせる氷見なんだけどな。
 でも、考えようによってはいい機会かもしれない。これまでは第三者として聴いてきた氷見の声を、直に向けられる側として聴いてみるチャンス。実際に台詞を言って貰えば、いろいろ気付けることもあるかもしれない。

 二人で使うには広過ぎる、演劇部の部室。
 その窓際に、私と氷見は向かい合って立つ。間の距離は三十センチほど。氷見の方が少しだけ背が高く、私の目を覗き込んでくる。
 真剣な顔。真一文字に結ばれた唇。思案するように、眼鏡の奥の瞳がちらちらと動く。眼鏡のフレームが冬の曇り空の下、鈍く光を放っていた。
 氷見は、こんな時、何を考えているんだろう。役に入り込もうとしながら、どんなことを思うんだろう。想定された『相手』のことを思うんだろうか。その声でどう殺してしまおうか、考えを巡らせることはあるんだろうか。
 私は、氷見の声が好きだ。大好きだ。だけど氷見の顔をこんな風に間近で見つめたことはなかった。どうしてか、妙に緊張した。観客のいない舞台で、私に与えられた役柄はただ存在しているだけの、台詞もない『相手役』なのに。どうしてこんなにぞくぞくして、胸を高鳴らせているんだろう。もうすぐ氷見の声が間近で聴けるから? それとも。
「――ようやく、時が訪れた」
 氷見が唇を解いた。ゆっくりと、私が用意した台詞を口にした。
「玻璃細工の姫。私はあなたに、この胸中を打ち明ける為にここまでやってきたのだ。全ては、この時の為に」
 ああ、やっぱりいい声。甘い甘い、蜂蜜漬けの台詞がよく似合う。本当に素敵で、誰もを魅了してやまない王子様の声だ。
 もっとも、お姫様役の方はぱっとしないけど――こればかりはしょうがないか。むしろ傍でこんなにロマンチックな声を聴ける役得を、存分に堪能しておくとしよう。
「あなたの為ならばどんな困難も乗り越えてこられた。あなたに胸の内を伝えるまでは、決して挫けるつもりもなかった。あなたが我が心にあればこそ、あなたの微笑みが我が胸に、明かりを灯してくれたからこそ」
 ここはもう少し甘めの台詞でもよかったかな。言葉の使い方がまだまだ未熟だ。反省しなくちゃ。
 でも氷見は、やっぱりすごい。私の用意した台詞を心を込めて演じてくれている。そこにどんな意味と、どんな心情を忍ばせているのかをちゃんと考えて演じてくれる。まるで全ての言葉が氷見のものになってしまったみたいだ。氷見の声が、私の心にあった台詞たちを掬い取ってくれたみたいだ。
「――でも、どんな言葉を重ねても、あなたを想う気持ちは表し切れそうにない」
 あれ? こんな台詞、書いたっけ。
 私が瞬きをする間にも、氷見は眼鏡越しにじっと私を見下ろしながら、言葉を続ける。
「俺があなたをどれだけ想っているか。それは単に甘いだけの言葉や、気障ったらしい台詞ばかりじゃ伝え切れそうにないんだ」
 違うよ、氷見、王子様の一人称は『私』だってば。というかこんな台詞は書いてないよね……アドリブ? それにしては何か変だ。
「あんたは俺の声が、人を殺せる声だと言った」
 氷見は微かに笑んで、続けた。私の用意していない台詞を。
「なら、その言葉が本当か、確かめさせて貰うよ。本当に、あんたを殺せるかどうか」
「え……?」
 思わず私が声を漏らした時、ひやりと冷たい何かが、私の首筋に触れた。
 氷見の、手だ。私の髪を避けて、そっと首筋に触れてくる。冷たい手。冬の寒さのせいか、氷見の指先は冷たくて、身体中がぞわっとした。
 いつの間にか、氷見の顔も近づいていた。額がくっつきそうなほど近い。眼鏡のフレームの鈍い輝きが、驚くほど傍にあった。レンズの向こう側の真剣な眼差しも。
「――映子」
 氷見が私の名前を呼んだ。お姫様のじゃなく、私の名前を。普段も一度として呼んだことがなかった、先輩であるはずの私の名前を。
「好きだ、映子」
 私に対して、そう言った。
 冷たい手が首からゆっくりと這い上がり、頬を伝って、耳に触れる。髪を掬い、耳に掛けるようにした後で、氷見はそっと唇を寄せてきた。
「愛してる」
 その間、私は何の身動きも取れなかった。全身がぞくぞくして、震え上がりたいくらいなのに、身震い一つ出来なかった。ぼうっとする頭に氷見の手の冷たさは心地良い。あの声が耳元で響いている。シンプルで飾らない、だけど嘘みたいな愛の言葉を。
 きっと喜ぶべき瞬間だ。氷見の声が氷見の言葉で愛を伝えようとしている。私はたった一人、それを間近で聴く権利を得ている。
 なのにちっとも喜べなかった。はしゃげなかった。心臓がどきどきし過ぎて、逃げたくて、苦しくて堪らなかった。いつもみたいにうっとりと聴き入ることが出来たらよかったのに、何も出来なかった。ただ、されるがままでいた。
「無抵抗だな」
 氷見の声が笑う。柔らかいものが耳たぶに触れる。上げようとした声は詰まって、そして次の瞬間、柔らかいものが私の唇に重なった。
 冷たい、乾いた唇。――氷見の声はそこで途切れて、その時逆に、私は自分を取り戻した。ようやく、正気に返った。
 何されたのか、わかった。しかも氷見に。声が好きで、だけど生意気だとばかり思っていた後輩に。
「な……にを!」
 身を引いて、引き攣る声で怒鳴る。自覚したくなかったけど、声も足も震えてしまった。
 これは、何なの。流されてしまった私が悪いの? でも同意の上じゃない。というか、同意を求められてすらいなかった。さっきのは……告白? 本気で? 氷見のアドリブのような悪ふざけじゃなくて? 本当は私をからかおうとして――。
「何って、別に難しいことじゃないと思うけど」
 氷見は笑っていた。少し赤い頬で、でも私よりもずっと落ち着いていた。
「俺の声で本当に殺せるかどうか、試してみたかったんだ。多分、あんたの飾り立てた言葉より、単純な言葉の方が効果的だと思ってさ。けど、どうやら」
 ちらと眼鏡の奥、瞳が細められる。おりこうさんの顔はしていなかった。
「上手く殺されかけたみたいだな。可愛かったよ、先輩」
 ――こいつ、やっぱり悪役だ。それも性質の悪い、素人じゃ手に負えないタイプの悪役。
 私は悔しくて堪らず、歯噛みした。恥ずかしさと後悔で頬が熱くて、ここから逃げ出したくてしょうがなかった。流されていいようにされた挙句、まるで見下されてからかわれてるんだから当たり前だ。
 だけど何とか踏み止まって、悔し紛れに言ってやった。
「み、見てなさい。それならこっちは、この次、もっと恥ずかしい台詞を言わせてやるんだから。あんたが読み上げるのも抵抗あるくらい甘々でロマンチックな台詞を用意してやる!」
 すると氷見は首を竦めて、いつものあのいい声で、私に向かって言ってきた。
「別にいいけど。どんな台詞を持ってきたって、口説く相手は先輩一人って決まってるんだから」
 つまり、私は私が口説かれる為の台詞を、自分で用意することになるって? そんな馬鹿な。
「世界最高の名台詞でお願いしますね、長嶺先輩」
 生意気そうな後輩の口調で言った氷見を、私は恨めしい思いで睨みつける。危うく殺されかけた、『声殺しの氷見』の微笑みを。
 私に、氷見の為の世界最高の名台詞、書けるだろうか。口説かれる覚悟が出来ないうちは多分、無理だ。あの声でもう一度、愛の言葉を囁かれたら、次こそ確実に殺されてしまうもの。
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