Tiny garden

例年よりも暑い夏(1)

 夏休み中の駅前通りは、思っていたより人出が多かった。
 雑踏の音に負けじと、街路樹の並木から蝉の声が響いてくる。じわじわと暑い空気を震わせている。
 私は待ち合わせ場所の駅ビル前まで辿り着くと、少しでも日差しを避けようと建物にくっつくようにして立った。晴れてよかった、と違う季節なら思うところだけど、この夏はもう少し雲が欲しい。真っ青な空に浮かぶ眩しい太陽が恨めしいくらいだった。
 今年の夏は特別なものになると決まっている。少なくとも今までにない夏が、私たちのところには来ていた。
 だから、かもしれない。朝のニュースで気象予報士のお姉さんが言った――今年の八月は、例年よりも更に暑い夏となるでしょう。しばらくは真夏日ではなく、酷暑日が続きそうです。
 思い出しながらふと見上げた街頭の温度計は、とうに三十度を超えていた。マラカスを振り回したような蝉の声がそこらじゅうに鳴り渡り、道行く人も汗を拭ったり、日傘を差したりと非常に暑そうだ。街中でこうなんだから、甲子園はもっと暑いんだろうな、と私は思う。
 そう思えば外に立っているのも平気だった。これからもっと暑い思いをするんだから、このくらい大したことない。
 それに今日は、耕太くんと待ち合わせだから。

 耕太くんは約束の時刻から、ほんの少し遅れてやってきた。
「悪い、遅れた」
 この暑い中を走ってきた耕太くんは、それだけ言うと私の目の前でしゃがみ込んでしまった。ふうふうと荒い呼吸の合間に、こめかみから顎まで汗が伝っている。
「大丈夫? 急がなくてもよかったのに」
 私は心配になって、耕太くんにハンカチを貸そうとした。それを手で制すると、彼はポケットからミニタオルを取り出す。まだ肩で息をしながら、だるそうな手つきで汗を拭く。
「雄太が」
 と、耕太くんがようやく、苦しそうに言った。
「あいつが……」
 一度、汗を吹き飛ばすように大きく息をしてから語を継ぐ。
「出がけにあれこれうるさかったんだ。もう出かけるっつってんのにどこ行くんだとか何しに行くんだとかしつこくて。それで遅れた。悪い」
「そうだったんだ」
 相変わらず、耕太くんと雄太くんはおうちでも仲がいいみたい。双子の兄弟っていいな。
「あんまり気にしなくてもいいよ。私、そんなに待ってないし」
 そう言ってみる。言ってみたところで、耕太くんはそれでも気にするんだろうな、と予想もしつつ。
 ただ、そんなに待ってないのは本当だった。耕太くんと一緒にお出かけするってことが嬉しくて、うきうきしていて、どのくらい待ったのかも忘れてしまった。だから気にしないでくれたらいいんだけどな。
「気にする」
 いかにも気に病んでいるような声で耕太くんは主張する。
「部活の後で疲れてんのに、更に暑い中立たせとくのとか最悪だろ」
「そこまでじゃないよ」
 私が苦笑いすると、すかさず仏頂面になった。
「今日は、ほら、あれだろ」
 あれ、が何を指しているのかは明言せず、ちょっと目を逸らしてみせる。
「だから遅刻はしたくなかったのに。ちょっとでも待たせたってだけで重罪だ」
 その気持ちは嬉しいけど、無理もして欲しくないのにな。こんな炎天下を駆け抜けてきたせいで、汗がなかなか引かないみたいだ。話を逸らす為にも私は切り出した。
「何か、冷たいものでも飲みに行こうか」
 それでも耕太くんは頑として、首を縦に振らなかった。
「いい。さっさと買い物行こう」
「でも、喉渇いてない?」
「平気」
 言うなり、耕太くんは駅前の通りを先に立って歩き出す。いくらも進まないうちにちらっと振り向いてきたから、私も急いで後を追った。
 すぐに隣に並んで、目当てのデパートへと向かう。

 今日の予定は、遠征の為の買い物をすることだ。
 と言ってもそれは目的の半分くらいで、残りの半分はまた別のところにある。
 初めて約束をして、初めて学校以外のところへ二人で出かける。私服姿を見る機会は部の打ち上げでもあったから初めてじゃないけど、今日の私はそういう時よりもちょっと張り切って、可愛くしてきたつもりだ。ちょうど部活の練習が午前中だけだったから、一度家に帰って、お昼ご飯を食べて、着替えもしてから出かけた。私の家と耕太くんの家はそれほど離れていないけど、あえて駅前で待ち合わせをしてみた。その方がそれっぽいかな、とお互いに話し合った上で。
 つまり今日の予定は、有体な言い方をすれば、デートだ。
 買い物をして、その後で何か冷たいものでも食べて、それから少しだけ二人で歩いてみたりして――初めてのデートとしてふさわしい、オーソドックスかつ堅実なスケジュールだと思う。
 並んで歩きながら、私は時々、隣を歩く耕太くんの姿を眺めた。白いシャツにカーゴパンツの耕太くんは、こうして見ると意外に手足ががっしりしている。普段ひょろりとして見えるのは制服を着ているからかな。耕太くんが野球をやっていた頃も見てみたかったな、と密かに思った。

 既に七月も終わりで、来月にはいよいよ甲子園への遠征が控えている。買い物というのはその日の為の旅行用品とかそういうもので、バッグを買うと言う耕太くんに付き合い、二人で売り場を巡ってみた。
 おあつらえ向きにデパートでは『夏休みアウトドア特集』なんて特設売り場もできていて、入り用のものを探すのに不便はなかった。
「何か、修学旅行に行くみたいだよな」
 売り物のドラムバッグをしげしげと眺めながら、耕太くんが言う。買い物の時もじっくりと吟味する辺り、いかにも耕太くんらしかった。
「似てるよね。持っていくものとか、学校行事でもあるもんね」
 私も頷く。
 甲子園に行って、野球部の応援をするこの夏は、今年の春に行った修学旅行と同じくらいどきどきして、楽しみな気分になれた。ただ遊びに行くわけじゃないところも修学旅行っぽい。
 修学旅行と決定的に違うのは、何日で終わるのかわからないという点だ。
 できるだけ長い夏になればいい。ずっとずっと終わらなければいい。私たちにとっても、甲子園は晴れの舞台。終わらない夏を願うのは野球部の子たちに限ったことじゃない。
「うちの親も張り切っちゃってんだ。俺、旅行鞄取られたし。あれ持ってくこれ持ってくって毎日大騒ぎで、鞄買いに行く余裕もないんだと」
 耕太くんのぼやきで、まだ会ったことのないお父さんお母さんの様子が想像できた。雄太くんのコンディション調整だってあるし、甲子園行きの準備だってあるし、きっと大わらわだろうな。
「まあ、新しいの買ってこいって金貰ったからいいんだけどな」
 そこだけは、耕太くんも嬉しそうに言った。
「思いっ切り安く上げてやるんだ。そして浮いた金でアイスを食う。計画的だろ」
「しっかりしてるね、耕太くん」
 呆れるというよりは、何だかおかしいくらいだった。
 以前と違って、耕太くんはすっかり明るくなったような気がする。それとも元からこういう子だったのかもしれないけど。
「美味いアイスの店を知ってる。昔、雄太とよく通った」
「ふうん。どんなお店?」
「ただの地味な喫茶店。でも高校生が入って浮くってこともねえし、美味いよ」
 耕太くんはそう言うと、私の方を見ずに軽く笑んだ。
「近くだから後で連れてってやる」
「……うん」
 私はその言葉にほっとする。
 約束はしていたけど、買い物の後はどこに寄るのかなって思ってたから。耕太くんがそうやってしっかり考えてくれていたのが頼もしいし、何だかすごく、嬉しい。本当に本物のデートみたいだ、なんてしみじみしてしまう。
 ぼんやり幸せを噛み締めてる私の横で、
「これにするかな」
 耕太くんは遂に、欲しいバッグを選び出したようだ。
 手に取ったのは夏空みたいな濃いブルーの、やや大きめのドラムバッグだった。スポーツブランドのロゴが控えめに描かれている。
「いいんじゃないかな。素敵だよ」
 私が言うと、耕太くんも顔を上げて、嬉しそうに笑う。
「そっか?」
「うん。たくさん入りそうでいいね」
「それならティンパニも入るといいのにな。運搬が楽になる」
「さすがにそれは無理だよ」
 冗談みたいな耕太くんの言葉に、思わず笑ってしまった。バッグに入れていけたら持ち運びは楽かもしれないけど、重いよ、きっと。
「でも、スネアなら入るかも」
「ドラムバッグって言うくらいだからな」
 耕太くんがつられるように笑って、ふと、目線が動いた。
 次の瞬間、笑みが消える。
 はっとした表情で、私の肩越しに遠くを見ていた。驚きと気まずさと、少しばかりのショックがごちゃ混ぜになった顔つき。何かを見つけたに違いなかった。
 どうしたんだろう、と振り向くまでもなかった。
「やっぱり! 耕太たちもここ来てたんだな」
 売り場の向こうから、聞き覚えのある声がここまで届いた。
「……雄太」
 耕太くんが呟いた時には、雄太くんはエスカレーターを降りて、こっちに歩き始めていた。
 照れたように笑う日焼けした顔は、耕太くんとはどうしても似ていない。隣にはショートカットのあの子もいて、手を振ったら笑顔で振り返してくれた。
「お前ら、何でいるんだよ」
 バッグの並ぶ棚の前までやってきた二人を、耕太くんは恨めしげに見る。
 ひょいと雄太くんが首を竦めた。
「何でって。買い物するったら駅前に出てくるしかねえだろ、こんな田舎じゃ。偶然じゃなくて必然だよ、これは」
「だからお前、出がけにしつこく行き先聞いてきたのか」
 耕太くんは溜息をつく。
 それで私も、耕太くんが今日の待ち合わせに少し遅れてきたことを思い出す。雄太くんがしきりに行き先を尋ねてきたからだって聞いてたけど……そういうことだったんだ。
「耕太も全っ然白状しないんだもんな」
 と、雄太くんが白い歯を見せる。
「行き先被ったら気まずいよなーと思って聞いてやったのに、何にも言わねえし。だったら鉢合わせしてもしょうがねえと思って来たら、本当にいるんだから、笑えるよな」
「笑えねえよ」
 すかさず耕太くんは言ったけど、雄太くんは笑ったし、隣にいるショートの彼女も笑った。私も悪いかなと思いつつ、笑ってしまった。
 一人、ぶすっとした顔の耕太くんが続ける。
「俺と会うのが嫌ならもっと遠く行けよな」
「俺は別に嫌じゃないし。必要以上に恥ずかしがってんのは耕太だろ?」
「……うるせえな」
 雄太くんの言葉には答えず、耕太くんは値札のついたドラムバッグを抱え直した。そして私に対して言ってくる。
「行こ。会計する」
「あ……うん。じゃあ二人とも、またね」
 私は雄太くんたちに挨拶をすると、レジへと向かう耕太くんを追い駆けた。

 結局、耕太くんは濃いブルーのドラムバッグを買った。
 その他に旅行用のタオルとか、ポーチとか、歯ブラシなんかを買い込んだ。
 買い物の間中、耕太くんは雄太くんたちが気になる様子で、ちらちら視線を向けていた。雄太くんの方も時々こっちを見て、たまに手を振ってきたりしていたけど、耕太くんは気まずそうにしたまま、笑い返しもしなかった。
「次は絶対、駅前以外で買い物しよう」
 耕太くんが言い聞かせるように呟いて、私はまた笑いたくなる。失礼だから、何とか堪えていたけど。
 確かにこの街はちょっと田舎だけど、買い物をする場所が駅前しかない訳でもなかった。郊外には大きなショッピングセンターもあるし、かばん屋さんだっていくつかある。駅前はいろいろと便利だけど、ここじゃなくちゃいけないって理由はなかった。
 だからもしかすると、双子のテレパシーなのかな、なんて思った。耕太くんと雄太くんの行き先が同じだったのは、二人が双子だからなのかもしれない。
 それと、もしかしなくても、雄太くんたちもデートだったんだろうな。耕太くんの気まずさもわかる。

 雄太くんたちよりも先に買い物を終え、私と耕太くんはデパートを出た。
 外へ出た途端、夏の熱気が押し寄せてくる。デパートの中は涼しすぎるほどだったのに、外は熱風とむわっとする湿り気と蝉の声に溢れていて、やっぱり涼しい方がいいなと思えてしまう。歩き出す足も重く感じられた。
「気を取り直して、アイス食べに行くか」
 溜息まじりに耕太くんは言う。
「そんなに遠くない。歩けるか?」
「うん、大丈夫」
 私は大きく頷いた。冷たいものが欲しくなってきた頃だった。耕太くんだってきっとそう。待ち合わせの時には全力で走ってきてくれてたくらいだから。
「そのお店のアイスって、何がおすすめ?」
「コーヒーが平気ならモカ。バニラも美味い」
「へえ。どっちもいいなあ」
「あと、フロートもいける。俺はいつもソーダフロートにしてる」
「美味しそう! 私もそれにしようかな」
 想像しただけで喉が渇いてきた。楽しみ。
 駅前通りを歩きながら、私と耕太くんは話をする。暑さもものともせず、いつもと同じように。
「昔は、駅前で買い物した後は必ず寄ってたんだ、その店」
「そうなんだ。思い出のお店なんだね」
「まあな、テイクアウトもやってるから、プールの帰りとかにも雄太と二人で買いに行ったりしてた。夏と言えばあの店のアイスって感じなんだよな」
 耕太くんの思い出の中にはいつも雄太くんがいる。やっぱり、ちょっと羨ましい。
 でも、思い出のお店に連れて行って貰える私も、幸せだと思う。彼女の特権かな、なんて言ってみたりして。
 口にはできないけど。恥ずかしくて。
「ほら、あの店」
 通りの向かい側を、不意に耕太君が指し示した。
 レンガ造りの品のいい喫茶店が、ひっそり静かに佇んでいた。ガラス戸には『氷』ののぼりが掛けられていて、急に涼しげな印象を受ける。

 夏と言えばこのお店、そんな感じが確かにした。
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