Tiny garden

Einsatz(3)

 県大会初日、第一回戦の第三試合は屋根のない地元球場で行われた。
 午後になっても一向に和らがない陽射しは、古いコンクリートの観客席にもがんがんと照りつけている。暑い。マレットを持つ手が滑りそうになる。七月の猛暑の日、大音量で演奏を続ける俺たちはいっそ酔狂なんじゃないかと思う。
 だけどそれほど悪い気はしない。この騒がしさ、賑々しさ。空に向かって放たれる数々の音とリズム。汗を掻いていることも、喉が渇いていることもちっとも気にならない。ひたすらこの大音量の中へ身を置いていたくなる。ずっとティンパニを叩き続けたくなる。嫌なことも憂鬱なことも、頭を悩ませていることも、何も考えずに済むから。ひたすら演奏に没頭していればいいんだ。
 応援歌を奏でる『吹奏楽部』という装置の、一つの部品になる。この暑い中、一張羅を着てやたら張り切る顧問の指揮に合わせて、スイッチを切り替えるようにたくさんの曲を演奏していく。ヒッティングマーチにチャンステーマ、校歌のマーチングアレンジにスタンダードナンバー。楽譜は全部叩き込まれてる、いつでも、どれでもどんと来いだ。本当にジュークボックスにでもなった気分でいた。

 雄太の調子はまずまずだった。立ち上がりで少しつまずいて、ランナーを背負う場面もあったものの、初回から相手のスコアボードにゼロを並べる力投ぶり。奪三振数もこのまま行けば二桁行くだろう。もちろん、完投してくれるだろう。味方の地道な得点にも支えられ、終盤、完封勝利への期待が俄かに高まり出した。
 俺は確信していた。証拠なんてないけど――いや、そもそも要らないんだ。とにかく信じてる、雄太たちは勝つ。必ず勝つ。今日はまだ第一回戦、目標への通過点に過ぎない。雄太の目指すところは、行き着くところはどこか、俺は知ってる。そこまでは必ず辿り着けるって信じているんだ。そしてきっと、その先へも行ける。雄太は必ず行ってくれる。俺はその姿を、観客席でティンパニを叩きながら見守っている。何もせず、ただ応援だけして、後はぼんやり見ているだけだ。
 狭い球場はほぼ満杯だった。どこかの局のテレビクルーの姿も見えた。ぎちぎちに混み合う場内、息が詰まりそうな人いきれの中で、皆が雄太を見つめている。雄太が目指すところへと、一歩を踏み出すその瞬間を、今か今かと注視している。皆に見つめられながらも自分の投球を続ける雄太は、毎日家で顔を合わせている双子の弟じゃなく、全く別人のように思えた。
 こんな大勢の人間に見つめられながら、マウンドに立つってのは、一体どんな気分なんだろう。――ふと思った。
 俺は、雄太が味わっている今の気分を知らない。悪い気はしないんだろうか。息が詰まったりしないんだろうか。プレッシャーはないんだろうか。全く、わからない。
 あのグラウンドに立って、そこから見上げるスタンドはどんな風に映るんだろう。皆の視線が集まっていることがわかるだろうか。皆が息を詰めて見守っていることが、ちゃんと伝わってくるんだろうか。皆の歓声や、声援や、俺たちの演奏は聴こえているんだろうか。
 もしも、と今でも思うことがある。もしも、俺にもうちょっとでも才能があって、雄太ほどではなくても何とか野球を続けていけたら、俺もあの場に立てたのかもしれない。グラウンドのどこかのポジションで、スタンドを見上げることが出来たのかもしれない。どんな気持ちになるものか、知ってみたかった。
 叶わない夢だってことはわかってる。俺に、本当に野球の才能がなかったってことも、十分過ぎるくらいわかってる。だけど無性に羨ましくなった。違う道を進んだ雄太が、今、俺には手の届きそうもないところへ辿り着こうとしている現実に。
 雄太が太い腕を振り上げる。ワインドアップから、投げる。終盤に入っても球速も、変化球の切れも衰えない。歓声が上がる。
 俺は観客席からそれを見守る。顔も見えないこの距離から、皆に見つめられている弟をとても羨ましく思いながら、それでも一心にその活躍を願っている。俺に出来ることはもうそのくらいしかない。
 雄太のことは信じてる。だから、こんなに遠くにいる俺が、何かしてやる必要ももうないんだ。

「――耕太くん」
 隣で、ふと声がした。声援の隙間から聞こえたのは、スネアドラムを叩いていた彼女の言葉。俺を呼んだ時、視界の隅でちらとポニーテールが揺れた。
「雄太くんたち、すごいね」
 彼女もそう言って、グラウンドにいるナインを称える。俺は息をつきながら頷く。
「そうだよな」
「うれしいよね。こんなにすごい人たちのこと、応援出来るなんて」
 視線を動かすと、彼女は笑っていた。笑顔でグラウンドを見下ろしていた。見つめているのはもちろん、マウンドにいる雄太の姿だろう。けど、話し掛けているのはすぐ隣にいる俺だ。騒がしい場内で、その声はきっと俺にしか聞こえていない。
「ずっと応援し続けたいな。この先もずっと、夏の間中、ずっと」
 夏の間中ずっと――その願いは、多分叶うだろう。雄太たちが甲子園まで辿り着けたら、そして一試合でも長く戦い続けることが出来たら叶う。
「雄太なら大丈夫だ。雄太たちがきっと、皆を甲子園まで連れてってくれる」
 俺はそう、応じた。絶対に信じていた。黙っていても雄太は頑張ってくれる。必ず勝って、勝ち進んでくれるだろう。
「うん」
 隣の彼女が顎を引く。ポニーテールがまた揺れた。
「でも、耕太くん。私たちも一緒に行くんだよ。だから私たちももっともっと頑張らないと」
 こっちを振り向いた、彼女はやっぱり笑っていた。
 狭い観客席の隣、目が合ってぎくりとする。周りは相変わらず騒がしいのに、ここだけが違う場所みたいだ。空間が切り取られたみたいに、他の音が何もかも遠くなる。
「頑張るって、俺たちが何を?」
 尋ねた俺の声も、
「応援、頑張るの」
 答えた彼女の声も、いやにはっきりと聞こえた。
「だって私たちも一緒に行くんだもん。雄太くんたちの行くところへ、一緒に。私たちの応援も、雄太くんたちに負けないくらい頑張らなきゃいけないよね」
 目の前にある表情が眩しく思えた。
「せっかくの晴れの舞台でしょ? 一試合一試合、最高の演奏をしなきゃ。最高の応援をしなきゃって思うの。負けないくらいにいい演奏で応援し続けたいんだ」
 その言葉に、俺は少しの間呆気に取られていた。
 考えもしなかった。今の今まで、俺は『一緒に行く』なんて思いもしなかった。この先、いつまでも雄太に『連れてって貰う』ものだと思っていた。俺とは別の、遠く華やかな世界にいる雄太が、のんびり怠けている俺を黙っていても甲子園へ連れて行ってくれるもんだと思っていた。
 でも、彼女の感覚は違った。一緒に行く気なんだ。雄太たちの活躍が他人事なんかじゃなく、ここが俺たちにとっても立派なステージになるんだって、思っているんだ。
 吹奏楽部の連中、皆がそう思ってるのかもしれない。俺が気付かなかっただけで、本当は、現実はそういうものなのかもしれない。俺たちの演奏は酔狂なだけじゃなく、野球部の連中と一緒に行く為のものなんだって。連中の背中を押して、スタンドの空気を引っ張って、勢いに乗せてどこまでもどこまでも一緒に進んでいく為のものだって――。
 俺も、行けるんだろうか。手の届かないと思っていたその場所に。雄太と一緒に行けるんだろうか。ボールもバットも手放した俺が、今はマレットを握り締めて、それでも辿り着けるのか。
 行きたい、と思う。絶対に辿り着きたい。雄太と道は違っても、テレパシーはもう利かなくても、声さえ届かないほど遠くなっても、せめてその姿を応援し続けられるところまで行きたかった。
「頑張らなきゃな」
 いつの間にか、言葉にしていた。
「一緒に行くんだもんな、皆で」
 ここはステージだ。俺たちにとっても、晴れの舞台だ。雄太たち野球部が向かう、辿り着く先のどこでも、応援する俺たちにとってのステージになる。
 そんなところで無様な演奏なんかしてられない。最高の演奏、最高の応援をしなくちゃいけないんだ。

 不意に、ひときわ大きな歓声と拍手が沸き起こった。
 八回の表が終わり、雄太がマウンドから降りる。守備に就いていたナインがベンチへと引き上げる。皆が温かい拍手で迎える。
 顧問が片手でネクタイを直した。八回の裏、我が校の攻撃。俺たちの演奏も出番だ。
「応援、頑張ろうね」
 譜面台のねじを留め、隣で彼女がそう言った。俺は掌をタオルで拭いてから答える。
「ああ」
 雄太がマウンドに立つ時、どんな気分を味わってるのかわからない。けど、俺がティンパニを叩いて、皆の出す音と一つになって、青空の下で酔狂なくらいの大音量で演奏している時の気分を、雄太は知らないだろう。誰かの為に、ひたすらに演奏し続けるのは、すごく気持ちがいいんだ。
 いつまでもこの大音量の中へ身を置いていたくなる。ずっとティンパニを叩き続けたくなる。夏が終わらないように、俺も頑張らなきゃいけない。雄太と一緒に、行くんだ。甲子園まで。

 相手チームのスコアボードに、ゼロが九つ並んだ。
 九回の表もきっちりと投げ抜いて、雄太は完封した。我が校の勝利だ。
 狭い球場を揺らす歓声の中で、俺はまだ冷静だった。だって今日の勝利は目標までの一歩にしか過ぎない。雄太たちが辿り着くべきところはもう決まっているんだ。それまでは浮かれたりしない。努力を続けることにする。
 それに、まだやることもあった。――勝利を称える、校歌の演奏が先だ。俺は精一杯、ティンパニを叩いた。最高の演奏をしようと努めた。暮れ始めた空の下で、雄太たちに負けないくらい、懸命に。
「やった、やったあ」
 校歌の演奏が終わると、一列に並んでいたナインが駆け寄ってきて、観客席の前で一礼。それを見て、隣でパートリーダー殿が飛び跳ねた。
 ポニーテールが元気よく跳ね回るのを横目で見て、俺は困った。彼女があんまり喜ぶものだから、冷静でいるのが難しい。俺も本当はめちゃくちゃうれしいんだけど、浮かれるは格好悪い。今はまだ通過点だ。
 でも家に帰って雄太の顔を見たら、ちょっとははしゃぐかもしれない。
「あ、耕太くん。雄太くんだよ!」
 隣ではしゃぐ声が上がって、俺は彼女の指し示す方向を見た。
 グラウンドの雄太が、フェンス越しに観客席を見ていた。帽子を取って、それを軽く振る。観客席の一部――うちの高校の制服の集団が、わあっと沸いた。雄太はブラスバンドの中にいる俺じゃなくて、他の誰かの方を見ていた。
 何気なく視線の先を追う。手を振り返す女子生徒がたくさんいて、雄太が誰を見ているのかわからない。案外、あいつら全員に振ったつもりだったのかもしれない。
 だけど、その時見つけた。
 一人だけ、はしゃぎもせず飛び跳ねもせず、真っ直ぐに立ったまま、だけどメガホンを振り返したショートカットの女の子を。

 あいつだ、と思った。この間家に来た、痩せて小柄な女の子。神経質そうな顔をしていたあの子をようやく見つけた。校内ではおとなしくしていたのか、一度も見つからなかった彼女が、今は俺の目に留まった。横顔が静かに、だけどうれしそうに笑っていた。
 視線を戻す。グラウンドの雄太も、同じように笑っていた。静かに、でもとびきりうれしそうに。はしゃぐことなく帽子を振って、それからゆっくり引き上げていく。
 ショートの彼女は、去っていく雄太をずっと見つめていた。すぐに見えなくなったけど、それからもずっとグラウンドを見つめ続けていた。身動ぎもせず、メガホンを抱きかかえて、じっと。

 俺は唇を結んだ。訳もなく、気持ちが逸った。無性に胸が苦しくなったけど、今、ここではどうしようもないとわかっていた。
 それにしても雄太の奴、俺の方は見向きもしなかった。多分、お互い様だけど。
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