Tiny garden

Einsatz(2)

 週が替わると、俺たちの周囲は更に騒々しさを増した。
 我が校野球部の県大会初戦の当日。からっと晴れた夏空を、俺はまだ音楽室から眺めていた。陽射しがぎらぎらと強く、ティンパニのケトルが眩く光っている。
 試合は午後からとなっていて、吹奏楽部は午前中からリハーサルに励んでいる。昼休みを挟んで、午後から皆でバスに乗り込み、球場へと向かう予定だった。
 雄太たちはもう球場入りしている頃だろうか。音楽室から見えないグラウンドは、今は静まり返っている。放課後にいつも聞いていた、掛け声やバットがボールを打つ音はどこにもない。ここではない、立派なステージへといなくなってしまった。
 今朝、雄太とはほとんど話をしなかった。いつものように挨拶だけ。緊張なんて言葉とは無縁そうな雄太は、普段通りに明るく家を出て行った。何も変わらないように見えたけど、本当に変わってないのかどうかはわからない。

 先週家までやってきた髪の短い女の子は、あれきりどこでも見かけなかった。
 同じ学校にいて、どうやら同じ学年らしいから、校内で会うこともあるんじゃないかと思っていたのに、一度も会うことはなかった。廊下を歩く時、或いは放課後のグラウンドを覗く時、特に注意してみたつもりだったけど、目に付くところには現れなかった。もしかすると野球部の監督や、教師たちや、その他うるさい連中の目を盗んで、雄太と会っているのかもしれないなと思う。だから俺の目に付くようなところには現れないのかもしれない。
 あの子、一体誰だったんだろう。雄太にあんなことを言われてから、俺はますます既視感に囚われてしまった。確かに昔、会ったことがあったかもしれない。だけど実際にどこで会っていたのか、どんな関わりがあったのか、全然思い出せずにいる。
 雄太はちゃんと覚えていたんだろうか。だから、あの子との縁を大切に出来たのか。それであの子は、俺の知らない雄太を知っているんだろうか。――そう思うと不思議な気持ちになった。
 俺も雄太も少しずつ少しずつ変わってしまっていて、もう昔みたいに『テレパシー』は使えなくなった。今となっては、雄太のことをよく知っているのは俺じゃない、他の誰かなんだと思う。逆に俺のことをよく知っているのも、雄太とは違う、別の誰かになってしまうのかも――。
「耕太くん」
 ティンパニの、皮が張られた上面にふと影が落ちた。ポニーテールの形をした影。
 視線を上げると、内気そうな顔が傍に立ち、座ったままの俺を見下ろしていた。ぎこちなく笑っている。後ろ手に何か隠した様子を、俺はちょっと怪訝に思う。
 パートリーダーの彼女は、おずおずと聞き慣れた台詞を口にする。
「お昼ご飯、食べに行かない?」
「いいけど」
 俺は短く答えた。
 本音を言えば、今更いいも何もない。最近じゃ当たり前みたいになっている。二人で人目に付かないところへ行って、こっそり昼飯を食べること。いつの間にか習慣みたいになっているから、いちいち尋ねられるのも面倒だった。
「本当?」
 パートリーダー殿が安堵したように息をつく。その拍子、背後に隠した弁当袋がちらと見えた。子猫の模様のあれも、最近見慣れた柄だった。
「じゃあ、少し急いだ方がいいね。お昼休み短いから。食べたらすぐに移動だよ」
 内気そうに見えるくせに妙に仕切りたがりな彼女は、そんな風に俺を促す。
「わかった」
 俺も立ち上がり、ティンパニの傍を離れる。弁当を取りに行ったその足で、彼女と共に音楽室を出た。

 人目を避けることにも慣れつつあった。校舎の隅、閉鎖された屋上へと続く非常階段、その途中で、いつも弁当を食べている。高い位置にある窓から射し込む太陽光線を避けて、陰になった辺りに座る。何も言わなくてもふたりで、並んで。
 遠くの方で誰かのはしゃぐような声や、笑い声が聞こえる。ここは静かだ。校舎から切り取られたような空間。
 気が付けば、ここにふたりでいることが当たり前になっていた。約束もしないし、毎回同じように誘いの言葉を掛けられる。断る理由もないから、一緒にいる。そんな回りくどい関係が続いている。
「耕太くん、マカロニサラダ食べる?」
 ポニーテールを揺らして、隣にいる彼女が尋ねてくる。弁当箱の他にもう一つ、いつも小さな容器を持参している。その中に入っているのは、一人前にしちゃ多めのおかずが一品。日替わりで違うメニューだ。
「食べる」
 俺もいつの間にか、遠慮することを止めていた。そうやって持ってきて貰うことも当たり前になりつつある。果たして、そのもう一品が誰の手によって作られたものか、尋ねたことはなかったけど。
「あ、耕太くんのお弁当、今日はちょっとパワフルだね」
 彼女の方も少しずつ、俺に対する態度が変わってきた。こうして身を乗り出して弁当箱を覗いてくるくらい、間に置く距離が近くなっていた。ちょっと前までは話すらまともにしなかった相手とは思えない。
「まあな。うちの母さんが縁起担いだ」
「だから揚げ物たくさんなんだね」
「今時、試合に勝つからカツ弁当なんて、古臭いよな」
「そうかな、私、楽しいと思うけど」
 隣で笑う顔が楽しそうだ。こんなにたくさん笑う奴だったって知らなかった。今まではパートリーダーの顔しか見てこなかったから、違う顔を目にする度、不思議な気持ちになる。
 いつか、こいつが俺の隣にいるようになるんだろうか。雄太じゃなくて、こいつの方が俺のことをよく知っているようになってしまうんだろうか。今でも話をするだけなら、雄太よりも余程一緒にいる。けど、雄太の代わりに他の誰かが隣にいる毎日なんて、ちっとも想像出来なかった。
 そりゃ、兄弟がいつまでも一緒にいるなんてことも、ないだろうとわかっているけど。現にもう、進む道からして別々になっている。
「お前の家、マカロニサラダにみかんの缶詰入れるんだな」
 早速サラダを分けて貰いながら、俺は言った。
 途端、隣では驚きの声が上がる。
「えっ、耕太くんのお家では入れてないの?」
「入れてない。ハムときゅうりだけ」
「そうだったんだ……口に合うかな?」
「多分平気」
 気を遣われるのも面倒だから、すぐに一口食べてみた。美味かった。うちの母さんの作るものよりも、マヨネーズが控えめで優しい味をしていた。
「美味いよ」
 正直に言ってやった。すぐに、安堵の溜息が聞こえてくる。
「よかった……。みかん、邪魔じゃない?」
「うん。普通に美味い」
「じゃあ次も入れてきていいかな。私、みかんが好きなんだ」
 彼女はそう言うけど、次の機会なんてあるんだろうか。――いや、あるか。このままの関係を続けていれば。約束もせず、毎日回りくどい会話を繰り返して、何も変わらないように続けていけば。
 だけどそういう訳にもいかないんだ。
 俺はまだ、あの時の返事をしてない。
「食うか?」
 豚カツを指差して俺が尋ねると、一瞬迷った顔をしつつ、すぐに彼女は頷いた。
「うん、いただきます」
 それで俺は、カツを一切れ箸でつまんで、彼女の弁当箱の蓋に置いてやった。彼女がうれしそうに食べ始める顔を眺める。
 ふと思いついて、その後で切り出してみた。
「お前さ」
「なあに?」
 彼女がこっちを向く。ポニーテールの髪が揺れる。
「俺と付き合いたいとか思ってる?」
 一瞬、非常階段が嫌な静まり方をした。
 奇妙に凍りついた空気は、だけどすぐに打ち払われた。彼女がカツを落としかけて、慌てて弁当の蓋で受け止めたからだ。セーフだった。
「え、ええっと、あの、それって……」
 たちまち赤くなった顔が、ぼそぼそと言葉を紡ぐ。
「この間の返事、ってこと、なの?」
 あまりにも真っ赤になっているから、こっちの方が居た堪れなくなる。俺は目を逸らして、答えた。
「まあ、そういうこと」
 ちょっと違うけど。本当は、普通に返事だけ出来ればよかった。でも、いろいろ考え始めたら止まらなくなった。雄太以外の誰かに傍にいて貰うってことは、つまり今の俺たちの状況に、そいつまで巻き込む羽目になるってことだ。
「先に言っておきたいんだけどさ」
 息を吸い込んで、ゆっくり吐きながら俺は言った。
「俺なんかと付き合ったら大変だぞ。ろくな目に遭わないと思う」
 ただでさえ周りの連中からじろじろ見られてて、うるさく言われてるんだ。その上俺の場合は、俺が何かやってるから目を付けられてるって訳でもない。全部、吾妻雄太の兄だから。むしろ、吾妻雄太の『出来の悪い』兄だから。
「多分、俺と一緒にいるところを見られたら、口うるさい連中があれこれ言ってくる。お前まで何か言われるかもしれない。そういうのには、巻き込みたくねえし」
 言いながら横目で隣を見る。彼女は唇を結び、ポニーテールの頭がしょぼんと項垂れていた。俺も次の言葉に迷う。
「あ、別に、お前のことが嫌いだって訳じゃねえからな。ほら、後で嫌な気分にさせるのも悪いし。だから……先に言っとこうと思って」
 それでもいいって言ってくれたら、きっとうれしいに違いない。でもそんな奇特な奴、そうそういるはずがない。
「今だけだとは思うんだけどさ。今は雄太が大事な時期だから、皆が神経尖らせてるだけなのかもしれねえけど。けどそんなんだから、普通に付き合うとか出来ないと思うんだ。結局こういう風に、こそこそしてるくらいで。そんなのは嫌だろ?」
 誰かに見つかったら、あれこれ言われるだろう。雄太と比べて不真面目だとか、雄太が頑張ってるのに俺は遊んでるだけか、とか。それだけなら言われ慣れてるけど、彼女までそう言われるのは悪い気がした。彼女だって、嫌じゃないはずがない。
「……嫌じゃない」
 ぼそっと、声がした。
 うっかり空耳かと思って、聞き逃すところだった。すぐ隣で零れ落ちた言葉は、直後、更に強さを増して聞こえてきた。
「私、嫌じゃないよ」
 結んだ髪の端っこが振り子みたいに大きく振れて、彼女が顔を上げた。意外にも明るい表情で俺の方を見る。日陰にいるのにちっとも暗くはない。
「全然、嫌じゃない。私、誰に何を言われたって平気だし、それにね、こうして耕太くんと話せるだけでもいいの」
 さばさばした口調で続ける彼女に、今度は俺の方が声を失う。
 まさかと思うけど、奇特な奴が本当にいたのか。まさか。
「本当のこと言うとね、私、付き合うとかってまだよくわからないの。絶対にそうしたいって訳じゃなくて、ただ、耕太くんと一緒にいたいんだ」
 そう言って、彼女ははにかんだ。
「耕太くんと話したい。本当に、それだけなんだ。耕太くんと、部活のこととか、野球のこととか、雄太くんのこととか、耕太くん自身のこととか話が出来て、いろんな楽しいことを一緒に楽しめたらそれだけでいいって思ってる」
 彼女はそこまで語った後で、小さく溜息をついた。そして、顔を真っ赤にしながら照れたように笑い声を立てる。
「だから、気にしないで……って私が言うのも変かもしれないけど。私は耕太くんの気持ちが一番大切だから、耕太くんが決めたこと、尊重する」
 肩の動きに合わせて、高く結んだ髪も揺れていた。
 俺も、頭がぐらぐらしてきた。目の前の彼女が、何だか妙に可愛いと思った。おかしいな、こんなに可愛い子だったっけ。よく話すようになって、知らないはずがないのに改めて思う。彼女は結構可愛い。その上、むちゃくちゃ奇特だ。多少はそうだろうと思ってたけど、本当にものすごく奇特だった。
 よかった。思ってた通り、うれしい。
「あの、さ」
 ようやく声が出せるようになって、俺はかさかさの声で言った。
「それで……結局、この間の返事だけど」
 今更の本題。前置きが長過ぎる。おまけにあれこれ言ったところで、彼女の気持ちは変わらなかった。あと、俺の気持ちもほとんど変わらなかった。結局、そういうことだ。
 躊躇ったのはほんの少しの間だけ。やがて視線を上げ、
「俺は――」
 言い掛けた時、不意に彼女がはっと顔を強張らせた。
「耕太くん、時間!」
「時間?」
「昼休み、もう残り少ないよ。早く食べちゃわないと!」
 腕時計を見た彼女は、静かな非常階段に声を響かせた。
 宙に浮いた俺の言葉はそのまま戻らずに、弁当と一緒に飲み込んでしまう羽目になった。

 タイミング外した。今日の試合の前には、と思ってたのに。
 雄太の先は越せなかった――いや、別に意識してた訳じゃないけど。
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