Tiny garden

Einsatz(4)

 球場を後にして、バスで学校まで戻ってきたのは午後五時過ぎ。
 一般生徒は順次解散、下校らしいけど、俺たち吹奏楽部はもう少し居残って練習しなくちゃいけない。さすがにくたびれていたものの、不満も言ってられなかった。
 今日の応援だっていくつか反省材料がある。次の試合までに調整して、より万全にしておきたかった。次はもっともっといい演奏が出来るように。

 生徒玄関からティンパニを運び入れる。他のパートの連中はぞくぞくと校舎内に戻っていって、俺たちパーカスが一番最後だ。ティンパニなんて大物だから、いつものように手を借りなきゃ全部は運べない。
「移動の時だけは他の楽器が羨ましくなるよな」
 廊下に入って俺がぼやくと、先を行くポニーテールの頭が振り返る。おかしそうに笑われた。
「そうかもね。でも金管の子たちがね、スタンドは陽射しが強くて、辛かったって言ってたよ」
「それはこっちだって辛かった」
 同じことだ。俺は言い、彼女はまた笑った。ちらっとだけ振り向いて、楽しそうにしている。
 今が楽しいのも、同じだ。今は彼女と同じ気持ちだった。こうしてくだらないことを話すだけでも、彼女となら楽しかった。こんな時間も、部活でも、いろんなことを一緒に楽しんでいけたらいいなと思う。
 一緒にいたい。――そう言ってくれた彼女と、今は間違いなく同じ気持ちでいた。お互いの気持ちがぴたりと重なっているのに、はっきりさせずに回りくどい関係のままでいる理由なんてない。
 随分時間が掛かってしまったから、多分、彼女はやきもきしたことだろう。それも詫びなきゃいけないと思う。それから。
「後で、話があるんだけど」
 人気のない廊下に差し掛かった時、俺は、前を歩く背中にそう告げた。
 ポニーテールが揺れて、彼女がまた振り返る。西日の中、怪訝そうな顔が見える。
「話って? どんなこと?」
 昼休みの話の続き。
 だけど、そう言ったら彼女はまた慌てふためくだろう。俺だってこんな、ティンパニ運んでる最中に打ち明けるなんて、忙しないことはしたくない。放課後とは言え、誰が通り掛かるかわからないような廊下でなんて、言えるか。
 だから後で、だ。もうちょっと落ち着けるところで話す。練習が終わって、その帰り道で。
 腹を決めて、俺は帰りの約束をしようと思った。

 その時、とん、と足音が響いた。
 すぐ傍の階段から、女子生徒が一人降りてきた。線の細い、小柄な子。
 髪の短いその子は、廊下に足を踏み入れてすぐ、俺たちの存在に気付いた。こちらを見て、はっとしたように歩みを止める。
 俺は咄嗟に反応に困った。ややこしいタイミングだ。約束を口にしようとした決意は萎んでしまい、だけど現れたショートの彼女にも、何を言っていいのかわからない。むしろ何か言うべきなのかどうかも、わからない。
「耕太くん?」
 パートリーダー殿が、黙ったまま突っ立っている俺を見て、不思議そうな声を発する。それにどう答えていいのかもわからない。
 ショートカットの子は俺を見て、ぎこちない笑みを浮かべた。
「この間はごめん」
 この間訪ねてきた時と変わらない、硬い口調で言う。
 一瞬言葉に詰まった俺は、
「いや、こっちこそ……」
 と答えかけて、やっぱり言葉に詰まった。
 こっちこそ、って何だ。悪かったとでも言うつもりなのか。まだ素性もはっきりしてない相手なのに。
 多分、わかってるけど――雄太にとっては大事な子なんだろうって、薄々察してはいるけど、だけど紹介された訳でもないし、まだわからない。むしろ、思い出せない。雄太が『覚えてる?』と聞いてきた、この子のことをちっとも思い出せずにいる。
 その顔、見覚えがあるような気もする。ついこの間の記憶とごちゃ混ぜになった、曖昧な既視感が頭の中に巣食ってる。でも明確にはわからなくて、何だか悔しい思いだった。
 何と続けようか迷った挙句、俺はそこで口を噤んだ。
 ショートの彼女は視線を落とした。少し間を置き、躊躇いがちにこう言った。
「雄太、勝って良かったね」
「ああ」
 短く答えた。知らない相手と話すのは得意じゃない。
 でも雄太のこともあるし、俺は迷いながら切り出してみる。
「何か伝言あるなら、伝えてやろうか? 雄太に」
「ううん、いい。自分で言うから。ありがとう」
 かぶりを振ると、短い髪がひらひら揺れた。それから彼女は、さっきよりは柔らかくなった表情で続けた。
「耕太は、あたしのこと覚えてない?」
 本人から尋ねられるのも気まずい。嘘はつけないから、正直に言うしかない。
「悪い。覚えてねえや」
「そっか、やっぱり」
 さして傷ついた様子もなく、その子は笑った。今度はにっこり、明るい表情をしていた。
「あたしは、覚えてるよ。雄太と耕太のこと、覚えてたよ。二人が一緒に野球やってた頃のこともちゃんと覚えてる。あの頃のこと全部覚えてる」
 静かな廊下に硬質な声が響く。
「だから今日は、昔に戻ったみたいでうれしかった」
 満面の笑みを向けられて、やや戸惑う。
 昔に戻ったとは思えない。俺はもう野球をやっていないし、雄太は一人で続けている。ずっと俺の隣にいると思っていた雄太は、もう違う道を歩き始めている。俺の隣には、雄太じゃない奴がいる。俺は彼女と肩を並べて、スタンドで雄太の応援をするようになった。
 何もかもが変わった。昔に戻ってしまうことはないだろう。俺は違うルートを辿って、雄太の向かうところへ行くことになる。隣り合うこともなく肩を並べることもなく、だけど一緒に。他の、大勢の連中と一緒に。
 短い髪のその子も、本当はわかっているのかもしれない。黙っている俺に、やがて眉尻を下げてこう言ってきた。
「耕太も、吹奏楽頑張ってね」
 その言い方、ついでみたいだな、と思う。
 ――昔からそうだった。俺はついでで、その子が本当に応援したいのは雄太の方だって、知っていた。雄太との間に差をつけられるのは嫌いだったけど、その子にだけはそうされてもいいと思っていた。雄太の方を特別扱いしてくれてもちっとも構わなかった。どうしてかって、それは――。
 華奢で小柄な姿が、立ち止まったままの俺たちとティンパニの前を通り過ぎていく。
 その背中を、ふと呼び止めた。
「お前さあ」
 ショートのその子がこっちを向いた。
「兄ちゃんが野球やってなかったか。俺と、雄太と同じチームで、お前がいつも応援に来てて」
 俺の言葉にその子が笑った。子どもっぽい笑い方をしていた。その顔にはしっかりと覚えがあった。
「ようやく思い出してくれた?」
 そう言い残して、軽快な足音が遠ざかっていく。短い髪がひらひらするのを、しばらく黙って見送った。

 やがて、廊下に静けさが戻ってくる。
 視界の隅、すぐ隣でポニーテールが揺れた。忘れていた訳じゃないけど、俺は慌ててそっちに向き直る。怪訝な顔をした彼女に告げた。
「ごめんな、待たせて」
「ううん。勝手に待ってただけだから」
 彼女は言って、ちょっと笑う。
「昔のことを知ってる友達って、いいね」
 そうだな。あんまり悪い気はしない。むしろようやく合点がいって、すっきりした。
 雄太の奴、そういうことだったのか。初めから素直に言ってくれればいいものを、あいつでも気恥ずかしく思うこと、あるのかもな。
「あの子、雄太の初恋の相手なんだ」
 愉快な気分になって、俺は彼女にバラしてやった。さすがに驚いたか、彼女が目を丸くする。
「そうなんだ」
「リトルリーグにいた頃、いつも応援に来てた。雄太専属の応援だったけどな」
 懐かしい。本当に昔の話だ。俺も雄太も、お互いに秘密を作っていなかった頃の話。
「昔はそういうことでも気軽に話してたんだ。ずっと一緒にいたからさ。何をするのも一緒で、隣にいるのはいつも雄太だった」
 昔の話をすんなり打ち明けられたのが不思議だった。前に、体育館で話した時もそうだったけど、彼女にはどうしてかすんなり話せた。
 じっと目を瞠って聴いていてくれる彼女になら、くすんだ記憶も息苦しい思い出も、全て打ち明けられるような気がした。
「でも、先に距離を置き始めたのは俺の方だ。野球を続けるのが辛くなって、一緒にいるのをやめた。それなのに、自分からやめたくせに、野球を続けていられる雄太が羨ましくて、どうしようもなくなることがあった」
 才能がない。その現実を受け止めるので精一杯だった。劣等感をどうにかやり過ごせたかと思えば、今度は周りから差を付けられるようになった。近付いてくる連中が皆、俺を通して雄太を見ているような気がした。誰もが俺を見ずに、雄太のことしか見ていないように思えた。
「やっと見つけた居場所が、吹奏楽だった。俺にはそれしかないって思ってた。雄太が隣にいなくなって、周りも皆、雄太のことしか見てないような気がして、俺のところに残ったものなんて何もなかったから、これだけしかないんだって、ずっと思ってた。けど――」
 だけど、違った。
 他のものも、手に入れようと思えば手に入るんだってこと、ようやくわかった。もちろんその為には頑張らないといけないけど。めちゃくちゃ緊張することをこなして、はっきり言葉にしないといけないけど。でも、手に入れられる。今、すごく必要だと思っているものを、俺は手に入れたいんだ。
「長らく待たせて、悪かったな」
 俺は言い、目の前にいる彼女がきょとんとする間に語を継いだ。
「お前のこと、必要なんだ。他の奴のことなんてどうでもいいから、隣にいて欲しい。お前にも、他の奴があれこれ言おうとどうでもいいって思ってて欲しい。俺も同じように思ってたんだ、一緒に部活やったり、弁当食ったり、くだらないこと話したりしたいって。いろんな楽しいことを、これからはお前と一緒にやりたいって思うんだ」
 途中で息が苦しくなって、呼吸を挟んだ。もう一言、これは一番肝心なことだ。言葉にしなくちゃ始まらない。
「好きなんだ。お前のこと、誰よりも一番好きだ」
 思った以上に楽には言えなかった。それでも、躊躇わずには言えた。必要なことだから、ちゃんと言えた。
 彼女はしばらくの間、呆然としていた。
 ぽかんと口を半開きにして、瞬きもせずに固まっていた。見下ろす顔がみるみる赤らんでいったのは、三十秒は経ったかという頃だった。
「え……そ、それって、この間の返事、だよね?」
「何か違う意味に聞こえんのか」
 こんなにも直球で言ってやったのに、わかってないとは何事だ。真剣になった俺が間抜けみたいだ。
「う、ううん、わかる。わかったよ」
 激しくかぶりを振る彼女。ポニーテールもそれに合わせてぶんぶんと揺れた。真っ赤な顔がやがて、泣き笑いの表情に変わる。
「ありがとう、でもごめん、私、うれしくて……」
「泣くなよ」
 呆然としたり赤くなったり、笑ったり泣いたりと忙しい奴。俺は呆れて溜息をついた。見てるこっちの方が居た堪れなくなる。
「そうだね、甲子園行くまでは泣けないよね」
 目まで赤くした彼女が、もう一度かぶりを振った。その後でふっと、はにかむ表情を見せる。
「けど、耕太くん」
「今度は何だよ」
「贅沢言うみたいだけど、部活の後にして欲しかったな。これから練習なのに、手につかなくなっちゃうよ」
「……あ」
 そういえば、初めはそのつもりだったっけ。勢いに任せて言ってみたものの、タイミングはまずかったかもしれない。ただでさえティンパニ放ったらかしで部の連中を待たせてるところだったし……。
「頑張らなきゃな」
 まるで他人事みたいに言った俺を、頬に手を当てた彼女が軽く、睨んだ。
「耕太くんの意地悪」
 意地悪って言うけど、俺だって状況は同じなんだけどな。練習に集中出来るかどうか怪しいもんだ。まあ、何でも一緒にっていう願望には添ってる。
 とりあえず、顔が赤くなるのは何とかして欲しい。早く引け、俺の熱。こんなところまで一緒だなんて、気恥ずかしくて本当に居た堪れない。
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