Tiny garden

Einsatz(1)

 その日、急に現れたのは、見知らぬ女の子だった。
 夕飯時の少し前、外は日が暮れかけていて、他人の家まで押しかけてくるにしちゃいささか失礼なはずの時分だった。おまけにチャイムを鳴らしてきたのは、俺の全く知らない相手だ。
 髪の短い、少し神経質そうな顔立ちの女の子。背はやや低く、それに比例するように痩せていた。目が痛くなるほど真っ白なワンピースを着て、思い詰めた表情でうちの玄関先に現れた。
 俺は訝しく思いながら尋ねた。
「どちら様?」
 まるで覚えのない相手だ。まあ、十中八九目的はわかりきってる。既に追い返す心積もりで、一応確かめただけ。
 ショートカットの彼女は僅かにだけ残念そうな顔をした。理由は知らない。すぐにその表情も消え、硬い口調で告げてくる。
「あたし、雄太と同じ高校に通ってる者です。どうしても雄太に話したいことが用事があって、来ました。夜分遅く、ごめんなさい」
 うちの高校の子らしい。――見たことない顔だけどな。違う学年か? とりあえず雄太に用があるって時点でお呼びじゃない。多いんだ、大して仲良くもないくせに、追っかけ気分でこうして家まで押しかけてくる奴。腹立たしくてしょうがない。
 大体、雄太は見世物でもなんでもないんだ。こんな時間に訪ねてくるなんて、失礼だと思わないのか? さっき練習から帰ってきたばかりでくたくたの雄太に、こんな奴らの相手なんてさせられない。
「雄太は疲れてるんだけど。用って、明日じゃ駄目なの?」
 俺にとっては言い慣れた台詞だった。何度目になるか、自分でもわからない。憎まれ役になるのも慣れていた。知らない女の子を睨みつけるのだって、別に苦でもなかった。悪いのは俺じゃない。向こうだ。
 気まずそうな表情が、さっと彼女の顔に広がる。だけど、息を呑むのが聞こえた次の瞬間。
「雄太に聞いてみて貰えますか?」
 不意に、彼女はそう言った。
 真っ直ぐに俺を見据えて、こっちの視線にも動じずに。
「あたしのことは、文集を貸した者だって言えば通じるはずですから」
 妙に強気になった態度が気に障った。
「文集?」
 その言葉も引っ掛かった。言われてみると、覚えが――あった。
 何日か前、雄太が小学校の頃の文集を見たいと言い出した。脈絡もなく、急にだ。奴は文集をなくしてしまったらしく、俺に見せろと要求してきた。
 だけど俺は突っぱねた。そんなもの、今更見てどうしようって言うのやら。
 俺にとっては思い出すのも面倒な昔の話。小学校の頃なんて、振り返ることさえ嫌だった。あの頃、俺はまだ野球をやっていて、『将来の夢は野球選手』だなんてふざけたことを書いていたはずだった。自分の才能のなさも知らず、叶いようもない夢を見ていた頃なんて思い出したくもなかった。だから厳重にしまい込んで、簡単には出て来ないようにしておいた。雄太は読みたい読みたいとしつこかったけど、突っぱね続けたらそのうち諦めたように見えていた。
 だけどその実、諦めてなかったらしい。俺が見せたがらないと知るや、結局他の奴から――この子から文集を借りたって訳か。ピッチングの粘り強さをマウンドの外でも発揮することはないのに。雄太の奴、しつこさだけなら追っかけの連中ともいい勝負じゃないのか。
 俺はようやく合点がいって、ショートカットの彼女に告げた。
「ちょっと待ってろ。呼んでくる」
 踵を返す途中、視界の隅でその子が頷いたのが見えた。ふと、どこかで見たような顔だと思ったのは、その時だけだった。多分気のせいだろうけど。
 それに――悪いけど、別に信用したって訳じゃない。まだ俺は疑ってるんだ。文集の件、雄太が無理を言ったのかどうか知らないけど、返して貰うんなら学校でやればいい話じゃないのか。同じ学校に通ってるって言うんだし。わざわざ家まで押しかけてくる辺り、やっぱりおかしい。どうかしてるだろ。
 用心しろ、と言ってやるつもりで、俺は雄太の部屋のドアを叩いた。
「雄太」
「……何?」
 素早い返事の後で、のろのろとドアが開く。まだ着替えも済ませず、ユニフォーム姿でいた雄太の、くたびれた表情が覗いた。
「お前に客が来てる」
「客?」
「文集を貸した奴だって。知ってるか?」
 俺がそこまで言った時、雄太の顔がはっと強張った。
「マジで!」
 食いつくように問われて、驚く。
「あ? いや、マジだけど」
「ちょ、ちょっと待ってて!」
 言うが早いか、部屋のドアが音を立てて閉まった。何事かと眉を顰めていれば、ドアの向こうではがさごそと慌てた物音がしている。何やってんだ、あいつ。
 次にドアが開いたのは二分後。部屋から出てきた雄太は着替えを済ませていて、後は俺に見向きもせず、勢いよく玄関へ駆けていった。用心しろ、なんて声を掛けてやる暇もなかった。
「……何なんだ」
 ぼやく俺の傍で、閉め忘れられたドアがふらふらしている。そこから見えた部屋の中、脱ぎ散らかしたユニフォームがあちらこちらへ放られていた。

 それから三十分近く、雄太とショートカットの彼女は玄関先で話し込んでいたみたいだ。
 余計なお世話と知りつつも、俺は気が気じゃなかった。雄太がしつこく言い寄られていたらまずいな、とか、あの子が文集を貸したことにかこつけて何か言ってくるんじゃないか、とか、よくない方向にばかり考えていた。甲子園出場が懸かった県大会は来週に迫っている。こんな時に雄太をくたびれさせるような奴がいたら、俺が遠ざけてやらなくちゃと思っていた。
 だけど、違う予感もあった。何となくだけど、そういう相手じゃないような気がした。じゃあ何者なのか、そこまでは知らない。雄太のことだからって、俺が何でも知ってる訳じゃないし。雄太にだってそりゃ、俺の知らない付き合いってもんもあるだろう。
 結局俺は、あの子が帰るまでの三十分間、玄関へは近付こうともせず、ただぼんやりと考え込んでいた。あの子は何者なんだろう、追い払わなくて本当によかったのかと、ひたすらそんなことばかりを考えていた。そのくせ二人の様子を窺うことも、会話に聞き耳を立てることさえ出来なかった。

 やがて、雄太が部屋に戻ってきた。
 さっき出て行った時とは対照的に、足を引き摺るようにして、のろのろ帰ってきやがった。俺が部屋の前に突っ立っているのを見ると、何やらぎこちなく笑った。
「何やってんの、耕太」
「別に」
 俺は首を竦めてから、何でもない調子を装いつつ尋ねた。
「文集、借りたのか? さっきの子に」
「うん。後で見るだろ? 耕太の作文もなかなか傑作だったよ」
「要らねえよ」
 能天気な口調で言われて、俺は思わず顔を顰めた。心配させといて何だよ、その態度。
 雄太は機嫌がいいらしい。浮かれた様子で続けた。
「いや、人の縁ってのは大切にしないと駄目だよな。お蔭で文集借りれたしさあ。耕太、覚えてる? さっきの子のこと」
 覚えてる? 何を?
「誰だっけ?」
 まるで心当たりがなくて、俺は聞き返した。そういえばあの顔はどこかで見たような気もしたけど、はっきりと覚えている訳でもなかった。単にデジャヴって奴かもしれない。小学校も同じ、高校も同じっていうならどっかで顔を合わせてたのかもしれないし。――俺にはどうでもいいことだ。
「え、覚えてねえの!」
 雄太は驚いたように声を立てた。俺に覚えがないことを咎めるような言い方で、少しむっとした。
「知らねえって。誰だよ、あいつ」
「いや、別にいいんだけどさ。そっか、耕太は忘れちゃったのか」
「何なんだよ」
 そこまで言っておきながら、肝心の答えは言わない雄太。思わせぶりな態度がむかつく。俺は仕返しのつもりで言い返した。
「さっきの子、お前の彼女?」
 冷やかしてやろうと思っただけだった。前に、似たようなことを雄太にも聞かれたことがあったっけ、なんて思いながら。
 だけど雄太はその時、笑わなかった。
 日焼けした顔に不似合いな、妙に考え込むような顔をして、それから唇だけで笑ってみせた。
「違うよ」
 珍しく静かに答えて、更に続ける。
「彼女とか作ってる暇、ある訳ないじゃん。ただでさえ忙しい時期だし。それに俺、監督に釘刺されてるし」
「釘?」
 俺が尋ねると、雄太はちらと自嘲めいた表情をひらめかせた。
「『身辺には気を付けろ』だって。今が大事な時期だから、やばいことして貰っちゃ困るってことだろ。酷いよなあ、俺だって健全な男子高校生なのに」
 口調は軽かった。いつもみたいに、冗談として言おうとしたつもりらしかった。だけどそれが冗談にはなり切れなかったことを、俺はすぐに察してしまった。
 俺も近いことは言われたっけな。ついこの間、うちの学校の養護教諭に――『大体ね、君は雄太くんのお兄さんでしょう。雄太くんがあんなに頑張ってる時に、君は何をやってるの』――思い出しただけで、嫌な気分になる。
 つまり俺たちは度合いこそ違えど、見られてる、訳だ。周りにいるいろいろな連中から。そして雄太の方はそれが、冗談さえ言えなくなるようなところまで来ているのかもしれない。試合前の緊張感を更にぎりぎりと締め上げるように。
「心配すんなって」
 雄太が、俺の肩を叩いた。
「俺、耕太の先は越さねえから。例のポニテの子と、頑張って上手くやりなよ」
 俺が返事に迷っている間に、雄太はさっと部屋に飛び込んで、ドアを強く閉めてしまった。
 結局、何の言葉も掛けてやれなかったし、さっきの子が誰だったのかも教えては貰えなかった。

 いつから、だったかな。
 雄太のことが、昔ほどわからないようになったのは。
 お互いに秘密を持つようになって、知らないことも自然と増えた。双子だから何でもわかってる、知ってるなんて時期はとうに過ぎた。今じゃ雄太のことなんて、額面通りの情報しか持ち合わせてない。雄太が辛いと思っていることも、悩んでいるらしいことも、まるでわからなくなった。
 昔はもっとたくさん知っていた。それこそ誰かさんが言っていたような『双子のテレパシー』みたいなものがあったようにも思えた。あの頃、二人で一緒に野球をやっていた頃、雄太は俺に秘密を作らなかった。何もかも話してくれた。野球のことも、テストの成績も、好きな女の子の名前だって照れもせず打ち明けてきた。雄太は馬鹿正直でわかり易い奴だったから、秘密を作ることが出来なかっただけかもしれない。
 俺だって本当はそうしていたかった。他でもない雄太に、秘密を作るべきじゃないと子ども心にもわかっていた。だけど或る日、大きな秘密が出来てしまった。――野球を辞めたくなったその理由を、俺は雄太に言えなかった。
 だから先に秘密を持つようになったのは俺の方で、雄太が俺に隠し事をしてたからって、文句を言う筋合いもない。
 でも、苦々しく思う。こんな時、掛けてやる言葉すら見つからないようになってしまったんだ。
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