Tiny garden

幸せな日の終わり

「帰り、送っていってもいい?」
 木谷くんにそう聞かれたから、私はすぐに頷いた。
「うん。お願いしてもいいの?」
「もちろん」
 同じように木谷くんも顎を引く。それから、少し笑う。
「今日はもうちょっと、一緒にいたいんだ」
 私も。本当に思う。もうちょっと一緒にいられたらよかったのに。
 こんなに楽しくて、うれしくて、幸せな日は今までにもなかった。初めてだった。終わってしまうのがもったいない。
 でも、門限があるから、今日はこれでおしまい。
 明日は月曜、木谷くんとは学校で会える。だから寂しくはない。今日のことを思い出して、照れてしまうことはあるかもしれないけど――もう大丈夫。私、ちゃんと言えるようになったから。素直に言えるから。

 木谷くんが好き。その言葉を口に出来ただけで、驚くほど気持ちが軽くなった。
 それだけじゃなく、目が覚めたみたいにいろんなことが変わった。木谷くんが笑っている。私もずっと、笑っている。二人で幸せな気持ちになってる。他愛ないことを言い合って、顔を見合わせてくすくす笑ってる。それから何も言わずに手を繋いで、帰り道を歩いてる。
 もう、誰かに見られたら、なんて思わない。誰に見られてもいい。ちゃんと言うもん、言えるもん。木谷くんが好きだって胸を張って言うから。たとえそれがうちのお母さんでも、クラスの子だって言える。好きだから一緒にいるんだって、言える。
 これからはたくさん言うんだ。木谷くんが不安がらないように、幸せな気持ちでいられるように、私も今の気持ちを忘れないように、たくさん言う。そうすれば、ずっと一緒にいられるよね。
 ずっと、楽しい気持ちでいられるはず。

「不安、本当はあったんだ」
 手を繋いで歩きながら、木谷くんが小声で言った。
 足元から伸びる影も手を繋いでいる。背の高い影と低い影。しっかり繋がれた手は、やっぱり継ぎ目が見えない。一つの影みたいに溶け合って、くっついて、ちょっとやそっとじゃ離れそうにない影。でこぼこしているけど、ちゃんと一枚の影だ。
「並川さんに無理させてないかって、気になってた」
 木谷くんは優しい。だからそういうことも気にしてくれていたのかな。ちっとも気付けなかった自分が少し悔しい。
「俺たち、付き合ってたけど」
 そう口にする時、木谷くんはためらうようにしてみせた。横顔が夕陽の色で、真っ赤だ。
「付き合うってこと……はっきり、口にしたことはなかったから。付き合おうとか、そういう風に言ったことはなかった、よな? 俺は並川さんに話しかけたり、寄り道に誘ったりもしたけど、もしかしたらそれも無理させてたんじゃないかって、心配してた」
 無理なんてしてなかった。
 でも、無理じゃないって言ったこともなかった気がする。
 私は臆病過ぎて、木谷くんを安心させられる言葉さえ、長い間口に出来ずにいた。素直になればよかっただけなのにね。短い言葉なのに、言えなかった。
 彼女、なのに。私、木谷くんの恋人なのに。
「並川さん、優しいから」
 そんな風に、木谷くんは続ける。私よりも優しい人が、慎重に言葉を選びながら続ける。
「俺に合わせてくれてるだけなのかもしれない、そんな風に思ったこともあった。だけど、どうやったら並川さんの本音を聞き出せるのかわからなくて……」
 困ったような笑みが、口元に浮かんでいた。
「俺、やり方下手だっただろ? 何やっても余計にプレッシャー掛けただけだったよな」
「ううん」
 私は首を横に振る。私の動きに合わせて、影も動いたみたいだった。
「木谷くんのお蔭だよ。私が、ちゃんと言えるようになったの」
 当たり前だけど、一人じゃ出来なかった。今みたいに笑ってはいられなかった。木谷くんがいたから、私は今、すごく楽しい気持ちでいる。
 確かに、お互い器用じゃなかった。いろんなこと、上手じゃなかったかもしれない。私の態度が木谷くんに、木谷くんの言葉が私に、それぞれプレッシャーを掛けてたこともあったと思う。
 だけどそういうのも全部、必要なものだったとも思う。何もかも無駄じゃない、私たちにとって大切なものだった。何もかもを乗り越えてきたから今の私たちがあるんだ。そして乗り越えられたのはもちろん、好きって思いがあったから。
「今度からはたくさん言うから」
 繋いだ手の温度が、ゆっくりと変化していく。
 木谷くんの手は大きくて、繋いで貰うとすごく安心出来た。このままどこまでも歩いていきたくなる。胸がどきどきして仕方がないのに、そのどきどきが私を衝き動かして、遠くへ遠くへ向かわせていくようで――離したくなくなる。
「私、もう、木谷くんを不安にさせない」
 させたくない。絶対に。
 だって、好きだもん。好きな人を不安にさせちゃいけない。好きな人が幸せそうにしているのが、一番幸せなことだ。
「俺も」
 ぎゅっと、繋いだ手に力が込められた。
 隣を歩く木谷くんが、私を見下ろし笑っていた。
「俺も、並川さんを不安にさせない。辛い思いもさせない」
「私だってそうだよ。木谷くんのこと、幸せにする」
「じゃあ俺も、幸せにする」
 真似をするみたいに、木谷くんが同じことを繰り返す。何だかおかしい、他愛のないやり取り。
 時々顔を見合わせて、二人揃って笑う。
「次はいつ、来てくれる?」
「……いつでもいいの?」
「いつでも。毎週、空いてるから」
 木谷くんの言葉に、私は考えながら答える。
「私も、いつでもいいよ」
 正直に言えば、いつでも会いたいくらいだから。学校でも会ってるのに、不思議なくらい会いたい。一緒にいたい。
「それとも、今度はどこか行く?」
 不意に、木谷くんが言ってきた。
 ちらと見た顔は、やっぱり楽しそうにしていた。
「並川さんに行きたいところがあるなら、連れてってあげるよ」
「行きたいところ……かあ。うん、ちょっと考えてみる」
 いくら木谷くんがいいって言っても、毎週お邪魔するのはさすがに悪い。どこか、外へ遊びに行くのもいいかもしれない。二人で楽しめるようなところへ行って、更に楽しい、幸せな思いをするのもいい。
「もっと、デートっぽいところとか」
「デートっぽいところって、どこ?」
 木谷くんも私も、デートという言葉を、楽に口に出来ていた。本当のことだから。
「例えばだけど、遊園地とかじゃないかな」
「遊園地かあ、たまにはいいね」
 二人一緒なら、どこへ行っても楽しそう。遊園地っていうのもいいかな。観覧車乗ったり、コーヒーカップ乗ったり、ジェットコースター乗ったり――想像してみると、確かにすごくデートっぽい。
 デートっぽいことが、似合うようになれたかな、私たちも。
「後は、水族館とか、動物園とか、図書館とか……いや、図書館だといつもと変わらないか」
 難しい顔をして、木谷くんはしばらく考え込んでいた。だけどその後で首を竦めて、呟くように言った。
「並川さんの好きなところでいいよ。俺は、並川さんがいてくれればどこでもいい」
 でも、私もそうだよ。私だって木谷くんがいてくれたら、どこでもいい。一緒にいられたらそれだけでいい。
「とりあえず、またプリンを作ってくるね」
 私が言うと、返ってきたのは照れ笑い。
「うん。……あれ、すごく美味しかった」

 私の家の前まで着いても、お互いに離れがたかった。
 とっくに手を離しているのに、まだじんわりと温かい。首をぐんと伸ばして、木谷くんと視線を交わしても、別れの挨拶の言葉はなかなか出てこなかった。
「明日も会えるのにな」
 木谷くんが苦笑いを浮かべている。
「何だか、寂しくてしょうがない。並川さんと明日まで会えないなんて」
「うん、私も」
 私も同じ気持ち。明日まで木谷くんに会えないなんて。あと十四時間以上も会えないなんてすごく寂しい。
「今日は何だか、帰ってきたくなかったな」
 思わずそう呟いたら、木谷くんはちょっと驚いたような顔をして、私を見た。それからおかしそうに笑った。
「帰さない訳にはいかないだろ?」
「わかってるけど、でも」
「……並川さん」
 木谷くんは私を呼んで、そっと頬に触れてきた。さっきまで繋いでいた温かい手は、だけど触れただけですぐに離れてしまう。
「じゃあ、また明日」
 彼が踵を返す。
 ――直前に、言われた。
「大好きだ、理緒」

 はっきりと、何を言われたのか気付くのに、かなりの時間を要した。
 気付いた時にはもう、木谷くんの背中は道の向こうへ遠ざかっていた。だから、この上なく赤くなった顔と、どうしていいのかわからない時の顔は、見られずに済んだ、と思う。
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