沈黙を越えて、重なる
沈黙が続いた。息をすることさえためらわれるような、長い長い静かな時間。
もしかすると、私が感じていたほどには長くなかったのかもしれない。ただ、私は待つのが辛かった。自分が発した言葉がどんな風に木谷くんに届いたか、その反応を知りたくてしょうがなかった。ちゃんと届いているのか、聞こえたのかだけでも知りたかった。
木谷くんはずっと、私を抱き締めたままでいた。
額を私の肩に押しつけるようにして、ぎゅっと抱いていてくれた。
あれから身動ぎ一つしていない。呼吸さえ聞こえない。ただ静かにそこにいて、私の背を、身体を支えてくれていた。
触れている背中が熱い。
私は立ち尽くしていた。
酷く暑いのに足が震えて、立っているのがやっとだった。他には何も出来ずに、苦しい息を必死で殺している。胸の中にある気持ちがいっぱいになって溢れ出して、何もかもを押し流してしまいそうで、苦しかった。
恐さもなく、不安もなく、逃げたい気持ちはとうにどこかへ行ってしまった。あるのはこれから何が起こるのか、知りたい。その気持ちだけ。
ほんの弾みで『言ってしまった』言葉じゃなくて、私は自分の意思で木谷くんに想いを告げた。予感に衝き動かされていた。私と木谷くんの気持ちは、きっと同じ。だから恐れることはないし、不安に思うこともない。木谷くんから逃げる必要だってない。
ちゃんと向き合おうと思っている。
木谷くんの気持ちに。木谷くんと全く同じはずの、私自身の気持ちに。
どれくらい経っただろう、不意に木谷くんが、私の肩を押した。優しく、床に座らせてくれた。震える足は意外にもすんなりと折り畳まれて、私はぺたんと腰を下ろす。
顔を上げる前に、今度は正面から勢いよく抱き寄せられた。前髪と額が木谷くんの胸にぶつかる。私はもがくように手を伸ばして、彼の腕に掴まった。
木谷くんの声が頭上でした。
「ごめん」
どうしてか、そんな言葉が降ってきた。
謝られるようなこと、何もないよ。どうして? ――上げた視線の先で、木谷くんが唇を引き結んでいる。辛そうな表情に見えて、余計に思った。木谷くんが謝ることは何もないのに、謝らなくてもいいのに。
でも、彼は言う。
「やっぱり、言わせちゃったな」
そう呟いて眉根を寄せる。
「並川さんの気持ちは、すごくうれしい。でも……俺は、嫌なんだ。気が付けばいつも、並川さんに辛い思いをさせてる」
私はじっと、木谷くんの言葉を追い駆ける。そこに含まれた気持ちを、自分の気持ちと重ねていく。
私だって、木谷くんに辛い思いをさせた。今も、させてる。
「無理に言わせたくないって思ってたはずなのに。言って貰わなくてもわかってるはずだったのに。気が付いたら、並川さんに無理をさせてる。言いたくないようなことまで言わせてるから」
苦しげに言葉を零す木谷くんに、胸が鈍く痛んだ。
感じた痛みはそのまま反論の言葉になる。
「違うよ。違うの、木谷くん」
かぶりを振ると、彼の顔が怪訝そうに変わる。その表情を、今度は笑顔に変えたかった。木谷くんには辛い思いを、もうさせたくない。
言いたいことはたくさんあった。きっかけにも偶然にも頼らずに、告げたかった。全部、言いたいんだ、私。
胸の中にあるもの、溢れているもの全部。
だから、唇を動かす。
「言わせてるなんてこと、ないよ。私、言いたくて言ったんだもん。木谷くんに言いたかったから、ようやく言えたの、言えたんだよ。木谷くんのこと好きだって、ちゃんと言えたの。無理なんかしてない、辛くなんかない。言いたかったの。言えて、すごく、うれしかったの!」
うれしい、うれしい。とってもうれしい。
ずっと言いたかったのにどうしても言えなかったことを、言葉に出来るのって本当にうれしい。
「好き。好きだよ、木谷くん」
だから言う。全部言う。何もかも包み隠さずに言う。
「私、ずっと好きだったの。木谷くんのこと――ずっとずっと前から好きだったんだ。あの日、図書館で、木谷くんに本を取って貰った日、あの日よりも前から好きだったの」
いつから、なんて覚えてない。ふと気付いた時には好きになってた。私よりもぐんと背が高くて、いつでも極めて冷静で、それでいてとても優しい木谷くんのことを、好きになった。
ずっと、言えないと思ってた。一度は言えたのに、もう二度と言えないかもしれないって思ってた。そのくらい臆病で、恐がりで、どうしようもない私だったのに、そういう心を乗り越えることが出来た。うれしい。乗り越えられるくらいに木谷くんのこと、すごくすごく好きになれた。うれしい!
「もちろん、今も好きだよ」
言う。今までの分も取り返せるように、言う。
「今は、今までで一番好き。これ以上ないくらいに好き。何回でも言うから、これからは、たくさん言うから! 木谷くんのこと好き、大好き!」
私の声は静かな部屋で響いた。壁を打って、跳ね返って、耳の中でも鳴っていた。だけど不思議と恥ずかしさはなくて、ひたすらにうれしかった。
自分の気持ちを素直に口に出来るって、こんなに幸せなことだったんだ。
木谷くんはその時、きゅっと表情を歪めた。
笑おうとしたのか、泣きそうになってしまったのかはわからない。すぐにきつく抱き締められて、顔が見えなくなってしまった。代わりに心臓の音が聞こえてきた。
「ありがとう」
と、木谷くんは言った。
深い溜息が後に続いて、
「俺も好きだ。並川さんが」
ほとんど吐息に近い言葉は、すぐに笑い声に変わった。
「俺だって好きだった。ずっと前から――いつからかわからないけど、並川さんが好きだったんだ」
びっくりするほど楽しそうに、木谷くんが続ける。こんな風に明るい声を聞くのは、もしかすると初めてかもしれない。うきうきしていて、弾んでいて、幸せそうな声だった。
「でも、俺も今が一番好きだ。並川さんのこと、大好きだ!」
「うん、私も!」
私も浮かれたくなった。木谷くんの胸にしがみついたまま、同じように声を上げる。
木谷くんの手が、私の頭を撫でるのがわかった。大きくて温かい手。こうして抱き締められると、小さな私は木谷くんに全部包まれてしまったみたいだ。
「並川さんがいてくれたら、俺は、本当にそれだけでいい」
弾む声が言う。
「私も、木谷くんだけでいい」
弾んでしまう声で、答える。
「他には何も要らない、こうして一緒にいられたら」
「うん、いるよ、一緒にいるよ」
ぴったり重なり合えるくらい、同じ気持ちでいる。だから一緒にいない理由なんてない。
一緒にいようよ。これからもずっと。誰よりも好きな人と一緒にいられるって、何よりもうれしいし、幸せなことだと思う。
「並川さん」
今度は囁く声で名前を呼ばれた。
「……なあに、木谷くん」
問い返すと、また笑う声に戻った。
「呼んでみただけ」
「それだけ? 変な、木谷くん」
呼んでみただけ、なんて。何だか木谷くんらしくない物言い。でも嫌じゃないから、私も呼び返してみる。
「ね、木谷くん」
「……何?」
さっきまで、頭上で聞こえていたはずの声が、耳元で聞こえた。それだけなのに妙に、どきっとした。
「えっと……CD、貸してくれてありがとう。今日、持って来たよ」
「うん」
「優しくて、いい曲だった。歌詞はわからなかったけど……好きになった」
「うん」
木谷くんの答えは短いのに、聞こえる度に身体が震えた。声が好き。ううん、全部好き。
大きな手が、頬に触れた。
ゆっくりと上を向かされる。目が合う。同じタイミングで瞬きをする。
「並川さん」
今度はごく優しく呼ばれて、息が止まりそうになった。
「な……何?」
すると木谷くんは、一度気まずそうに視線を外した。それから、恐る恐ると言った様子で切り出してくる。
「俺、さっき、並川さんの他には何も要らないって言ったけど……」
「う、うん」
「プリンは、食べたい」
告げられた言葉に、私は一瞬ぼうっとした。その後で笑いを堪えなくちゃいけなくなった。
木谷くんが恥ずかしそうに笑っている。真っ赤な頬で、でもやっぱりうれしそうに。
「せっかく作ってきて貰ったから。食べたい」
「うん、いいよ」
私が頷いた途端、お互いに笑いが止まらなくなった。
床に落ちていたスプーンを拾って、二人で、私の持ってきたプリンを食べた。
木谷くんは美味しいと言ってくれて、私はその日、ずっと笑っていた。