Tiny garden

辿り着いたふつうの朝

 家に帰ってから真っ先にしたのは、雑誌をしまうことだった。
 あのお姉さん雑誌を、机の引き出しの一番下に放り込んだ。
 もうしばらくは必要がないって気が付いたから。

 やらなくちゃいけないことはたくさんあった。勇気を出すとか。逃げないでちゃんと向き合うとか。好きな人を不安にさせないとか。好きな人に好きって、はっきり言ってあげるとか。言いたいから、言いたい時に言いたいことを素直に言う、とか。
 お姉さん雑誌に載っているモデルさんみたいにきれいになりたい。なりたいけど、その前にやらなくちゃいけないことがある。たくさんある。
 多分、私にはまだ早いんだ。桁違いに高いお洋服を奮発して買っちゃうのも、デート必勝メイクを真似てみるのも、まだ早い。高校生だから早い訳じゃなくて、きっとそういうのがもう似合うようになっている子もいるんだろうけど、とにかく私には早い。まだ先の話。それよりも。
 私は、木谷くんを好きになりたい。
 今でも好きだけど、もっともっと好きになりたい。
 好きな人の為なら何でも出来るくらい。勇気を出すのも逃げないで向き合うのも、好きな人の為だから出来たこと。好きな人を不安にさせずに正直に好きって言うのも、木谷くんの為になら出来ること。言いたいから素直になって言っちゃうのは、私の為に木谷くんにだけすること。だからもっともっと好きになる。木谷くんなら、そうなれる。だって一番最初に『好き』って思った時よりも、今が一番好きだもの。明日はもっと好きになってる。明後日はそれよりも更に。一週間後も一ヶ月後も一年後だって、その時の私は今までで一番、木谷くんが好きに決まってる。
 だから今のうちにやらなくちゃいけないことをする。たくさんするんだ。こそこそしないで学校でも、外でも二人で歩いて、手を繋いで、たまには腕も組んだりして。――それはまだちょっとやっぱり恥ずかしい、かな。でもいつかはする。多分する。少なくとも木谷くんがそうしたいって言ったら、嫌だって言わない。背の低さだって気にしない。
 木谷くんとたくさん、話もする。図書館や屋上だけじゃなくて、教室でもするし、廊下でもするし、つまりはどこでだって誰の目も気にせずに木谷くんと話をしようと思ってる。
 それから、いろんなところへ出かけよう。遊園地もいいし、水族館もいいし、もちろん図書館でも木谷くんの家でも、どこでもいい。どこへ行っても離れずに二人で過ごして、誰の目も誰の言うことも気にしないで、とにかく木谷くんのことだけを考えて、とことんその日を、デートを楽しむんだ。
 そういう風に普通の恋人らしいことを全部、照れずに、恥ずかしがらずに出来るようになったら。木谷くんを二度と不安にさせないようになれたら。やらなくちゃいけないことを全部やり終えたら、その時は――その時こそ、きれいになろう。あの雑誌を引っ張り出して、モデルさんみたいなお化粧とお洋服を身に着けて、大人になろう。
 もっとも、本当にきれいになれるかどうかなんてわからないけど。背丈からしてモデルさんとは違うから、上手くきれいになれないかもしれない。でも頑張る。頑張ったら何とかなるかもしれないし、頑張ってもどうしようもないかもしれないけど、その時はその時。このまま背が伸びなくてもいい。
 木谷くんの好みに合う女の子でいられたら、それでいい。
 だから、大人になるのもまだ先でいい。しばらくは今の私に出来ることをしようと思う。今の私でも出来ることって、たくさん、たくさんあるんだ。


 次の日の朝、木谷くんと通学路の途中で会った。
 電信柱の傍に立って、こっちを見ていた。私を探しているんだってすぐにわかった。視線が合って、少し気まずそうな顔が見えたから、私の方が先に笑ってみた。
 上手く笑えたかどうかはわからない。
 でも、木谷くんもぎこちなく笑い返してくれたから、大丈夫だった。

「おはよう、木谷くん」
 声は意外にも震えなかった。
「おはよう、理緒」
 むしろ木谷くんの方が、少し緊張しているみたいだった。
 隣に並んで歩き出しながら、木谷くんは口元を押さえてぼやく。
「もっと自然に呼ぶつもりでいたんだけどな……」
「ううん、変じゃないよ、全然」
 と、私は思うけど。
 それはその、昨日呼ばれた時はびっくりしたけど。いきなりだったし、くっついてきた言葉もすごく、すごかったし。だけど嫌じゃないし、うれしかったし、ちっとも変じゃない。呼んで欲しい。
「先に了承を取った方がいいかなって、思ったりもしたんだ」
「了承って?」
「いや、だから、名前」
 真面目な顔で木谷くんがそんなことを言うから、おかしかった。
「聞かれたら、私、困ってたかも」
 私はそう思う。私なら、困ってしまったと思う。それで上手く答えられなくて、また臆病になって悩んで、悩んでいる間にまた木谷くんを不安にさせてたかもしれない。――でも最後には、きっと、いいよって言えてたと思う。
 見上げた先で、一つ、頷きがあった。
「うん。そうも思った。だからいきなり呼ぶことにした」
「そっか。木谷くん、わかってるね」
 わかってるんだ。私が、最後には嫌がらずにいいよって答えるだろうってことも、わかってたんじゃないかな。
 こういうのっていいな。恋人同士っぽい感じがして。

 私たちは通学路を歩いていく。他のたくさんの制服姿に混ざって、二人離れずに。
 歩くペースはぴたりと同じ。木谷くんが合わせてくれた
「昨日の夜、あんまり眠れなかった」
 木谷くんの呟くような声に、私はすぐに同調する。
「私も。いろいろ考えちゃって、寝つけなかったの」
「いろいろって?」
「それは……」
 雑誌とか。
 やらなくちゃいけないこととか。
 今の私に出来ることとか、今のうちにやっておきたいこと、とか。
 いろいろ。たくさん。全部、木谷くんのこと。
 でもそれを事細かに説明するのは骨が折れるし、何より途中で学校に着いちゃいそうだから、止めた。代わりに言った。
「木谷くんのことだよ」
 素直に答えたのに、瞬間、どうしてか困ったような顔をされた。
「ストレートに言うんだな」
「……変?」
「変じゃないけど……」
 木谷くんは一度言葉を止めて、苦笑いしてみせた。その後で言った。
「俺が変」
「え? 木谷くんが? どうして?」
 どこも変じゃないと思う。
 少なくとも私の目には、木谷くんがおかしいようには見えない。ちょっとだけ緊張気味で、でもいつものように穏やかで優しくて、私よりもぐんと背の高い木谷くんだ。
「理緒の方がよっぽど、普段通りにしてる気がする」
 私の名前を呼ぶ時、声がまだ緊張している。木谷くんは呼ぶだけで何だかくすぐったそうだ。私も同じように、呼ばれただけでくすぐったい。
「普段通り、かなあ」
 緊張は、木谷くんほどはしてない。でも浮ついてる自覚はある。そわそわしてる。はしゃぎたい気分になってる。普段通り、とは、違う気がする。
「普通じゃない?」
 聞かれて、答えた。
「えっと、多分。結構、普通」
「概ね普通?」
「そんな感じ」
 今日の私と木谷くんは、結構普通。概ね普段通り。
 でもこれがそのうちに、ただの普通、普段通りになっちゃうんだろうな、と思う。名前を呼ぶのも当たり前みたいになって、今の私がやらなくちゃと思っていることも皆、当たり前のことになってるんだろうな。
 そういう日も待ち遠しい。
 でも、今日も楽しみ。これから木谷くんと過ごす、学校の一日も。
「理緒、英語の宿題やってきた?」
「一応ね。木谷くんは?」
「俺も一応。でも、答え合わせさせてくれると助かる」
「うん、いいよ」
「ありがとう」
 前にもこんな会話をしたことがあった。思い出しながら、学校までの道を辿っていく。
 その途中でふと思った。

 ――そうだ。やらなくちゃいけないこと、やりたいことの中に一つ追加。
 私も、いつかそのうちに、木谷くんを名前で呼んでみよう。
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