ささやかな冬の儀式(3)

 念の為、医者にも診せておいた方がいいとアロイスは言った。
 その勧めに従い、マリエは翌日、ミランに城の侍医の診察を受けさせた。案の定というべきか、彼の見立てもアロイスと全く同じだった。
「声変わりの始まり、ということでしょうな」
 城にいるありとあらゆる子供たちに恐れられてきた侍医は、厳格そうな口調で診断を下した。
「病気ではありませんが、喉を労わるに越したことはありません。大人になり始める大事な時期ですからな」
 やはり、そういうことのようだ。
 病気ではないと断言されて、ひとまずマリエはほっとした。まだあどけない弟が大人になり始めたという事実には戸惑っているものの、それも喜ばしいことには違いない。むしろミラン自身が戸惑うこともあるだろうから、姉として冷静に受け止めたいと思っていた。

 診察が済むと、マリエとミランはカレルの元へ舞い戻った。
 ひとまず病気ではない旨を伝えると、カレルも安心したのか表情を和らげる。
「大事ないようで、まずは幸いであった」
「この度は大変ご心配をおかけしました」
 ミランはひざまずくと、かすれた声で言った。
 心配と一言では語れないほど、この度のことでは皆から気遣われた。カレルはもちろん、ルドミラにも、アロイスにも、近衛兵たちにも――きっとマリエが知る以上に、皆がミランの体調を案じてくれていたはずだ。
 これからは皆に感謝を返すべき時間だ。マリエもそう思い、まずは主に頭を下げた。
「この度のことでは一方ならぬご配慮を賜り、誠にありがとうございました」
「姉も弟も、揃って全く堅苦しいことだな」
 カレルは朗らかに笑い、それからミランに向かって告げる。
「お前に何事もなかったのであれば、それだけでよい。お前が壮健でいることこそが、皆への何よりの礼となる」
 するとミランは弾かれたように面を上げた。
 そして幼さの残る横顔に、真摯な表情を浮かべて頷く。
「ありがとうございます、殿下」

 マリエはその横顔をそっと眺めつつ、改めて弟の成長を噛み締めていた。
 初めて顔を合わせた時から、ミランは礼儀正しく聡明な少年だった。城へ上がってからも勤勉に働き、仕事の覚えも早く、マリエが手を焼くことは一切なかった。だがそんなミランも時々は歳相応の表情や態度を見せることがあり、姉としてはそんな弟がいとおしくもあった。
 だがそのミランが、大人になろうとしている。
 今でさえこれほど頼もしいのなら、大人になったミランはどれほど立派な青年になるのだろう。恐らくはカレルの近侍として何の不足もない存在になれるだろうし、その聡明さで国王となる主を見事に支えてもいけるはずだ。少なくとも弟について、マリエの中に不安はない。
 ただ、弟が少年期を過ぎ青年になる頃、マリエはもう傍にはいない。
 ミランの成長を見守っていられるのも今のうちだけだ。その思いが、今という時間の貴さをより強く実感させる。

 そしてミランよりもずっと早く、少年期を終えたカレルが言う。
「それにしても、声変わりとはめでたいことだな」
 ミランに対してかける言葉は柔らかく、労わろうとしているのがよく窺えた。
「お前も大人になるということだ。素晴らしいではないか」
 少し前のカレルなら、自分より年少の者にこんな言葉を贈ることもなかっただろう。
 実に立派な青年になられた――近頃ではマリエも惚れ惚れとするほどだ。
 だがカレルの気遣いに対し、ミランはどこか浮かぬ顔をする。
「はい……」
 眉尻を下げた面持ちは明らかに不安げだ。
 カレルもそれに気づいたようで、苦笑を浮かべて問いかける。
「どうした。何ぞ気がかりなことでもあるのか」
「い、いえ」
 姉によく似たと見えて、ミランは誤魔化しが下手だった。言いよどむそぶりにカレルは更に言葉を重ねる。
「こういった時の不安は得てして知識のないところに端を発する。その点、私はお前よりも早く声変わりを終えておる。わからぬことがあるなら申してみよ」
 年長者らしい堂々たる物言いに、マリエは別の人物の影を見た。

 恐らくはカレルも成長期を迎えた時、知識のなさから不安を覚えたことがあったのだろう。
 そこに手を差し伸べ、知識を与えることで不安から解き放ってくれた誰かがいたのだろう。
 その『誰か』は当然ながらマリエではなく、だがマリエには誰であるかたやすく見当がついていた。

「ありがとうございます」
 礼を述べつつ、ミランが迷うように睫毛を伏せる。
「ミラン、殿下がそう仰っているのですから」
 すかさずマリエが口添えすれば、しばしの思案の後、意を決したように唇を開いた。
「じ、実は……大人になるのがほんの少し、不安なのでございます」
 ためらいがちに打ち明けられた本心に、カレルはすかさず顎を引く。
「そうか。しかし、かように思うのは決しておかしなことではない」
 おかしなことではない。その言葉を聞いたマリエも、内心で同意を寄せた。
 ましてやミランは早く一人前になることを、成長することを強いられている立場だ。いかに気概に満ち溢れていても、時にはその重圧に押しつぶされそうになることもあるだろう。
 身体の成長と共に、そういった周囲からの期待も敏感に察したのかもしれない――マリエはそう思ったのだが。
「案ずるな。これからお前の身体は急速に成長するだろうが、心は決して生き急ぐ必要などない」
 カレルの温かな言葉に対し、ミランは気まずげにかぶりを振る。
「お、お言葉ですが、私が不安なのは身体の方でございます」
「何と、そうか」
 それにはカレルも驚いたようだ。目を瞠った後、一層気遣わしげにしてみせた。
「ならば尚のこと私が力になろう。姉の前で言いにくいのであれば、マリエには席を外させる」
 マリエとしては弟の悩みを知りたい気持ちはありつつも、命じられれば従うつもりでいた。少年の身体の変化について、自分が役立てるところはまるでない。
 だがその提案にも、ミランは首を横に振る。
「姉は既に知っておりますから。平気でございます」
「そうなのか」
 カレルが応じながら視線を向けてきたが、マリエには何のことかわからない。
 既に知っているとは、どういうことだろう。
「その――」
 カレルとマリエ、二人にじっと見守られながら、ミランは言いにくそうに切り出す。
「私が、私の父に似てしまうのではないかと、そのことが気がかりで……」
「ふむ。お前の父に似ると、何がまずい?」
 尋ねられれば声を落とし、
「私の父は、脚が毛むくじゃらなのでございます」
 さも由々しき事態であるというように、まだ十歳の少年は続けた。
「特に脛など、まるで熊の毛皮のようでございまして――私が大人になれば必ず似るだろうと言われておりまして、それで……」
 そして言い終わるか終わらぬうちに、廊下で誰かが盛大に吹き出すのがマリエの耳にしっかり聞こえた。

 少年の心は繊細だ。
 誰もが大人になることを望むわけではなく、成長することに希望だけ持てるわけでもない。
 ただマリエにとってミランの悩みは想像を絶するものだった。そんなことで、とは言いにくく、しかしこればかりはいかんともしがたい。ここでマリエが気休めを言ったところで、今はまだ子供らしくつるつるした脛のミランが、いつか現実を思い知る日が来ないとも言えまい。

 笑いを堪えきれなくなったのか、廊下から誰かが走り去る足音がした。
 しかし幸いにも、カレルはまるで笑わなかった。
「今の話はまことか、マリエ」
 それどころか、真顔でマリエに水を向けてくる。
 だが尋ねられたところで答えにくいというのが本音だった。いかに忠心篤いマリエでも、父の身体について主に打ち明ける気にはなれない。
 カレルもそんな娘心は察したようだ。やがてミランに向き直り、こう言った。
「わかるぞ、ミラン。私も同じことを思っていた」
「殿下……」
 ミランが驚きに息を呑む。
 その黒い瞳にカレルは凛々しく笑いかけ、語を継いだ。
「父上は髯を生やしているであろう? 私も大人になればあんなふうに髯まみれになるのかと、不安に思ったこともあった。だが見てみろ、私の顔を」
 確かに、国王フランツは立派な髯を蓄えている。
 それが国王の威厳を一層際立たせているのも事実だったが、現在十九歳のカレルには髯がなく、その顔は実になめらかな輪郭をしている。例えばアロイスのように毎日剃る必要もないようだった。
「もしかすれば、私には髯が生えにくいのかもしれぬ」
 カレルはあくまでも真面目な助言のように語る。
「つまり、男に生まれたからといって必ずしも父親に似るというわけではない。あまり気に病まず、どっしりと構えているがよいぞ、ミラン」
 そしてミランもまた、主の言葉を真面目に受け取ったようだ。
「そうであればよいと、私も願っております」
 あどけなさの残る顔にようやく微笑が差し、改めて主に頭を下げた。
「何だか希望が湧いて参りました。殿下、本当にありがとうございました」
「うむ」
 カレルも何やら満足げだ。自らの助言がミランを慰めたことに、心から安堵しているようだ。

 娘として、マリエは父に複雑な同情を覚えたが――しかし目の前で満足そうにしている二人に対し、わざわざ無粋なことを言うつもりもなかった。
 ミランの面差しはどちらかと言えば母親似だが、青年期を迎える頃はどんな姿でいるか、今は誰にもわかるまい。
 カレルとて、この先の数年で髯が生えぬとも限らないのだから。

 個々の胸中はさておくとして、かくしてミランに対する養生の命は取り下げられた。
「これでお前も雪遊びができるな」
 そうカレルが告げたので、ミランは少年らしく笑んだ。
「はい。殿下が作られた雪うさぎ、私も拝見しとうございました」
 マリエが教えたあの日以降、ミランはカレルが作る雪うさぎを見たいと切望していた。だが咳をし始めたので、それが治るまでは雪遊びどころか窓辺に寄ることさえ禁じられていた。そうこうしているうちにカレルが作った雪のうさぎは溶けてしまい、今は窓辺を賑わすものもない。
 だが冬はまだ半ば、そのうちにまた雪が降るだろう。
「次に雪が降ったら、またいくらでも作ってやろう」
 カレルは得意そうに言ってから、いいことを思いついた時のように青い瞳を光らせた。
「何なら皆で作るというのもよいな。この窓辺に三羽のうさぎを並べるというのはどうだ」
「それはきっと楽しゅうございますね!」
 ミランも珍しく弾んだ声を上げる。
 それから二人はよく似た輝く表情でマリエを見て――その視線を受けて、マリエは戸惑った。
「わ……わたくしも、でございますか?」
「無論だ。三羽と言ったであろう」
 カレルは揺るぎない口調で繰り返す。
「作り方なら先日教えたはずだ。忘れたと申すなら、何度でも教えてやる」
 もちろん忘れてなどいない。
 冬の日の新しい、よい思い出を、忘れられるはずがない。
「……ではご相伴にあずかります、殿下」
 マリエは少しはにかみながら、幸せな思いで頷いた。