Tiny garden

好奇心は誰を殺すのか(1)

 貰ったチョコレートを全て食べ終えるより早く、とうとう三月が来てしまった。
 流れ落ちる滝を目前にした急流みたいに、仕事はいきなりスピードを上げて忙しくなってきた。それならそれで仕事に没頭してしまえればいいのに、もやもやとした悩み事は常に頭の中にあり、ふと何かが一段落した拍子に、休憩で一息ついて気が緩んだ瞬間に、あるいは勤務を終えて自分の部屋へ戻ってネクタイを解いたタイミングでたちまち浮上してくるから困る。
 その悩みというのだって、結局はただの恋わずらいだ。

 客観的に見ても、いい大人がする恋わずらいなんてみっともないことこの上ない。
 俺だってこの歳になってまで恋愛のあれやこれやで悩むなんて思っていなかった。ましてや片想いの時以上に、両想いになってからの方が苦しいなんて予想もつかなかった。幸せなのに苦しくて、言いたいことが言えなくて、郁子さんを大切に大切に守りたいと思っているのに一方ではめちゃくちゃにしてやりたいなんて爛れた考えも持ち始めていて、彼女が笑いかけてくれる度に罪悪感が募って仕方がない。
 どうせなら、と言うといかにも見栄を張っているようでしかないが、俺だって模範的な恋人でありたいのだ。
 せっかく郁子さんが、俺を好きになってくれたんだから。
 彼女は年上の人だし、本人が言うように『久し振りに』恋愛している状況でもあるらしい。俺にとっては兼ねてから憧れていた、ずっと片想いしていた人でもある。そういう人と恋をするのに、みっともないところを見せて幻滅されるのは嫌だった。
 それに、彼女の望んでいないことはしたくない。
 ――でも。そこでふと、考える。
 じゃあ彼女の望む恋愛って一体どんなものだろう。
 郁子さんは俺と、どんなふうにいたいと思ってくれているんだろう。
 そういうのって聞いてもいいものなんだろうか。いや、よくないよな。普通『俺とどんな恋がしたい?』なんて男が尋ねたらまず引かれる。何言ってんだこいつ、って思われる。そうじゃなくても恋愛って言葉で語るものじゃないみたいな風潮があって、べらべら喋ったり質問攻めにしたり議論を戦わせたりするのは品がないように思われている。何度恋愛をしても、いろんな人を好きになっても、そのケースごとに正しい答えが違っていて過去の経験なんて生かせやしない。恋愛、ってひとくくりにするのさえ間違ってて、本当は毎回違う現象に遭遇しているんじゃないかって気さえする。俺たちはこの訳のわからない現象に取りつかれたが最後、衝き動かされて、気持ちの落ち着くこともないまま生涯を過ごすことになる。つくづくままならない。
 でも俺は、わからないなりに知りたいと思っている。
 郁子さんのことも、恋愛という大変に面倒でややこしい現象についても。
 彼女を大切にしていく為に、どうすればいいのかということも。

 そうこうしている間にも仕事は立て込んでくる。
 年度の変わり目、決算期がやってくる。

「……課長、お先に失礼します」
 郁子さんが退勤の挨拶に来たから、俺は仕事の手を止めた。
 顔を上げると、既に帰り支度を済ませた彼女が俺の席のすぐ前まで来ていた。まだ机と向き合う俺を見下ろし、ピンクベージュの唇を微笑ませる。さっきまで数字とにらめっこしていた目にも馴染む、優しい色合いだった。
「星名さん、お疲れ様です」
 つられるみたいに俺も笑んだ。
 経理課の他の課員は既に退勤していて、ここにいるのは俺と星名さんの二人だけだった。だからと言って気を抜くつもりはないが、それでも少しばかり親しみを込めて言い添える。
「もう遅いですから、気をつけて帰ってくださいね」
 時刻は既に午後九時を過ぎていた。皆がいないのも当然だ。郁子さんだってもう少し早く帰ってもらってもよかったのだが、率先して手伝うといってくれたからお言葉に甘えてしまった。
 こんなに遅くなったんだから送って帰りたいのもやまやまだったが、あいにくと俺にはまだいくらか仕事が残っている。これを片づけないと明日の業務に響くので、やっつけてから帰りたかった。
 郁子さんは俺の言葉に素直に頷いた。その後で形のきれいな眉を顰める。
「課長はまだお帰りにならないんですか?」
 答えを既にわかった上で尋ねた、というのがはっきり窺える問いだった。
 俺は彼女の気持ちが嬉しくて、ちょっと笑いながら応じる。
「残念ですが。これを片づけないと、明日また忙しくなりそうですから」
「そうですか……。あんまり無理しないでくださいね」
 気遣わしげな顔つきの郁子さんが、じっと俺を見下ろしている。
 白い蛍光灯の光を背負い、郁子さんの顔は影が差したように暗く、寂しそうに映った。こうやって上から見つめられるのも新鮮だな、などと場違いなことも思ってしまう。憂いを含んだ彼女の顔もきれいだ、心配そうにさせているのは他でもない俺のせいだから、罪悪感もあるものの。
「最近、どこか元気がないみたいですし……」
 郁子さんがそう言って、俺は内心うろたえる。
「そ、んなことないですよ。普通ですって」
 間抜けなことに、声が裏返った。
 いかにも怪しい態度に思われたことだろう。郁子さんが小首を傾げる。
「そうですか? たまに、何だか疲れてるような顔をしてるから」
「まあ、それは……こういう時期ですからね」
 俺はなるべく平然として答えたつもりだった。それが成功したかどうかはさておき、郁子さんは思いのほか俺のことをよく見ているようだ。そういうのはもちろん、嬉しかったりもするのだが。

 元気がないのも当然だろう。
 俺にはここのところ、ずっと悩みが――いちいち言うのも情けなくて恥ずかしいが誤魔化してもしょうがない、例の、恋わずらいをしているからだ。
 その悩みはふとした時に顔を出してきてしばらくの間つきまとう。例えば今みたいに、恋わずらいの当の相手である郁子さんと、何でもない会話を交わしているような時でさえ。
 悩むくらいならいっそ、彼女に全部打ち明けてみるのもいいのかもしれない。彼女が俺に気を遣わないよう、望まないことはしなくていいと重々念を押した上で。だがそれをするには時間が足りなかった。繁忙期に入ってからというもの、俺たちは休日を休養と月曜以降の多忙な日々の支度に浪費しなくてはならず、二人で会う時間を確保することすら難しくなっていた。
 恋わずらいとか、衝動とか、罪悪感とかはさて置いてもだ。俺はとにかく郁子さんが好きだし、いろいろ悩むことも堪えていることもあれどまずは彼女と一緒にいたかった。休日を彼女の為に使えないのは何だかんだで耐え難い。それはもう、恋する人間なら当たり前の感覚だ。
 だからせめて帰りくらいは一緒に、と俺も考えなくはなかったし、郁子さんももしかしたらそういうつもりで俺に声をかけてくれたのかもしれない。だがそれを叶えるには、彼女をあと小一時間会社に留めなければいけないわけだ。彼女だって疲れているのにそんなことはさせられない。

「帰ったら、メールください」
 業務連絡みたいな何気ない口調で、俺はそっと彼女に告げた。
 郁子さんがすかさず笑んだ。
「わかりました。必ずメールします」
 忙しい時期だからこそ、俺たちはメールを有効活用していた。朝晩はもちろんのこと、会えない休日にもメールで近況報告しては、よくある恋人同士みたいにふざけたことを言いあったり、励ましあったりしていた。俺が郁子さんの顔が見たいと催促すれば、彼女はいつぞやの旅行の時と同じように自撮りの可愛い笑顔画像を送ってくれて、会えない寂しさを紛らわすこともできた。
 こうして見ると俺たちの関係は順調以外の何物でもない。悩む必要だってないように思えるのに。
「じゃあ……」
 どことなく曖昧な挨拶の後、郁子さんは俺に向かって頭を下げた。
 そしてそのまま踵を返し、経理課を出て行こうと――するのかと思いきや、俺の机を回り込むようにしてこちらへ再び近づいてきた。椅子に腰かけた俺の傍らに立ち、屈み込んで耳元に顔を寄せる。
 彼女と接近したことにどきっとしたのも束の間、
「今週末は、暇?」
 こっそり囁きかけられた内容にも、訳もなく心臓が跳ねた。
 郁子さんの声は十分に静かで、きっとこの室内に他の誰かがいたところで聞かれる心配はなかっただろう。
 だが俺は沈黙した。壁と扉一枚を隔てた廊下に人の気配がないことを確かめてから、戸惑いつつ答えた。
「暇だけど……」
 こちらも同じように、ひそひそ声で。
 すると郁子さんは至近距離から俺の目を覗き込んできた。そうやって自ら顔を近づけておきながら、目が合うとどうしてか恥ずかしがってみせるのが最近の彼女だった。おかげで俺は胸がざわめいてしょうがない。ここはまだ職場なのに。
 こういう会話だって、職場で交わすのは何と言うか、背徳的じゃないだろうか。
「よかったら、うちにご飯を食べに来ない?」
 郁子さんは声を潜めたままでそう続けた。俺が無言で目を瞠ると、今度はやや咎めるような苦笑を浮かべてみせる。
「失礼かもしれないけど、泰治くん、最近ちゃんとご飯食べてないんじゃないかって気がして。ここのところ、お昼はずっとおにぎりでしょう?」
 彼女は本当に俺をよく見ているらしい。
 忙しくなってくるといろいろと手抜きになるのは誰だってそうだろう。俺の場合はそれが食生活に顕著に現れる。朝は卵かけご飯と味噌汁、昼は持参したおにぎり、夜は丼にご飯と千切りキャベツを盛り、その上に焼いた肉なり出来合いの惣菜コロッケなり、それすら用意する余裕がない時には缶詰の魚なりを乗せて済ませる。自炊派を名乗るのもおこがましい手抜きっぷりだった。
 これまでにも何度か、郁子さんから『またお弁当作ってこようか?』という申し出は貰っていた。だが経理課が忙しいということは、郁子さんも忙しいということだ。ただでさえ仕事面でも支えてもらっているのに、プライベートでまで迷惑はかけたくない。それでずっと遠慮し続けてきた。
「それは嬉しいけどさ」
 郁子さんの心配はもちろん嬉しい。だが俺からすれば別の心配もあるわけで、即座にお言葉に甘えるわけにもいかない。
「郁子さんだって休みの日はゆっくりしたいだろ? いいよ、迷惑かけたくない」
 囁き返すように答えると、郁子さんはくすぐったかったのか一瞬首を竦めた。それから笑みを零す。
「迷惑じゃないよ」
 吐息混じりの声が可愛い。
「それに、最近会ってなかったから……駄目?」
 更にねだるように言われてしまえば、こっちだって心がぐらぐら揺れる。こういう時の郁子さんの誘い方は上手いと思う。俺の為にじゃなくて、自分がそうして欲しいんだっていう誘いだから、無下にできない。
 ただ俺からすれば、そうやって誘われるとあらぬ期待まで抱いてしまうから厄介だった。
 郁子さんの物言いがまた意味深なんだ。ご飯以外にも何かあるんじゃないかって思わせる辺りが。いや、正確には郁子さんにだって他の理由くらいあるだろう。問題はそれが俺の考えているものよりも若干マイルドというか、低刺激というか、とにかくそんな感じだって点だ。
 俺は相変わらず、この人への恋わずらいの真っ最中だっていうのに。
「考えておくよ」
 即答はせず、俺は曖昧な答えに終始した。
 でも結局は、彼女の誘いに乗ってしまうことだろう。俺は郁子さんが好きで、いつでも会いたい傍にいたいと思っている。そして彼女の作るご飯もまた、美味しくて彼女と同様に魅力的だった。
 あとはもう少し、落ち着いた恋ができたらいい。
 きっかけのキスからもわかるように、俺は時々衝動的な行動をやらかしては後から悔やむような性格だ。郁子さんがそういう男を好みだとはあまり思えないので、慎まなくてはならない。大体、二十九にもなって鼻息も荒い男女交際なんてみっともない。大人なんだからもっと穏やかな恋をすればいいのに。
 頭では、わかっているつもりなのにな。
「お願いね」
 郁子さんは念を押すみたいに強く、そう言った。
 それから俺の肩にそっと、小さな手を置いた。荒れていない細い指先と控えめな光沢の浮かぶ爪が視界の隅に映ったのも一瞬のことで、次の瞬間、頬に触れた柔らかくも冷たい感触に意識が吹っ飛んだ。
「お仕事、頑張って」
 そう言い残し、郁子さんは素早く俺の傍を離れる。こつこつと足音を立てて、思いのほか急ぎ気味に経理課を出ていく。
 振り返らなかったのは恥ずかしかったからだろうか。
 廊下の向こうに遠ざかっていく足音が随分と慌てていたのは、彼女までうろたえていたから、かもしれない。
 どちらにしても確かめようなんてない。それに俺は腰が抜けたような気分になっていて、しばらく唇が触れた後の頬を手で押さえたまま椅子の上で呆けていた。やがてそれすら耐えられなくなり、自分の机に突っ伏してしまう。
「……びっくりした……!」
 思わず声も出た。

 今、経理課に俺しかいなくて本当によかった。
 大人の恋なんて程遠い、耳まで真っ赤になって蹲っているみっともない姿を、衆目に晒さずに済んだんだから。
 それにしても郁子さんという人は、俺を殺しにかかっているんじゃないかというくらい思わせぶりで困る。
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