Tiny garden

好奇心は誰を殺すのか(2)

 その週末、俺はろくに迷いもせず郁子さんの部屋へお邪魔した。

 夕方くらいに来て欲しい、と彼女は言っていた。
 だから以前のように一緒に買い出しに行くつもりなのかと思いきや、彼女の部屋の前に立った瞬間、食欲をそそるものすごくいい匂いを感じ取った。つい首を傾げてしまう。今日はもう、買い物を済ませてしまっているんだろうか。
 インターフォンを鳴らすと、確かめもせずに玄関のドアが開く。春らしい淡いピンクのセーターの上にギンガムチェックのエプロンを着けた郁子さんが、俺を見て嬉しそうに微笑む。
「いらっしゃい。ちょうどご飯できたところなの」
「本当に? 準備早いね」
 俺が感心すると、彼女はそれを気にするみたいに聞き返してきた。
「まだお腹空いてない?」
「いや、空いてる。ちゃんと空かしてきた」
 郁子さんのご飯が食べられると楽しみにしていたから、昼飯は軽くで済ませておいた。こちらのお腹の準備はばっちりだ。ただ、俺が来る時間を見計らって支度をしてくれるとは思っていなかった。
「よかった。じゃあ上がって」
 彼女がにこにこと俺を促すので、俺も急いでその言葉に従う。

 郁子さんの部屋に上がったのは、それこそあの日、二人で鍋をした時以来のことだった。
 もしかするともう来ることはないんじゃないかと、一旦は思った。
 だが俺たちは無事に和解することができたし、雨降って地固まるの言葉通り、以前よりもいい感じだ。郁子さんの気持ちもようやくわかるようになってきた。もうそこら辺で誰と遭遇しても、『彼氏です』って紹介してもらえる間柄にもなれただろう。
 なのにそうなったらなったで、相応の悩みも生まれるのが厄介だ。
 現にたった今、見覚えのある彼女の部屋の内装を眺めた途端、あの時のやり取りがまざまざと蘇ってきた。既に過去の話だし、郁子さんもあの時のことは間違いだったと言ってくれた。だからお互い気まずく思う必要もないはずだった。
 でも気がつけば、あの時のことを考えないように、考えないようにと念じている俺がいる。
 どうしても意識してしまう、っていうのはあるよな。それはしょうがない。郁子さんだって同じ失敗はしないだろうからもうあんなことを言われる心配もない。
 なければないで、俺としては少々複雑だ。
「どうぞ座って。今、ご飯持ってくるから」
 郁子さんは猫脚テーブルの上にごちそうを並べ始める。
 今日のメインディッシュは鶏の唐揚げで、レタスを飾った大皿の上に盛られた唐揚げは衣硬めでいい揚げ色をしていた。いつもは木の匂いがする彼女の部屋は、現在は唐揚げの匂いで溢れ返っており、キッチンでは換気扇がごうごうと音を立てて回っているのが見える。
「美味そう」
 腰を下ろした俺が芸のない、だが心からの感想を述べると、郁子さんは誇らしげに胸を張った。
「美味しいよ。揚げたてだから一層ね」
 休みの日は緩く髪を結ぶだけの彼女は、こういう表情をすると何だかあどけなく映るのが不思議だった。
 今日は白くてひらひらした膝丈スカートをはいていて、郁子さんがキッチンとリビングを行ったり来たりする度に、柔らかそうなスカートのプリーツが揺れる。その下から伸びた、黒タイツを履いたきれいな脚から目が離せなくなる。あんまり目で追い駆けていると感づかれそうだから、あまり見ないようにする努力も必要になった。
 何だか、今日の郁子さんは可愛い。
 いや、いつも可愛いと言えば可愛いしきれいな人だと思っている。でも会う度に魅力が増していると言うか。日に日に眩しくなっていっているような気さえする。惚気かな、これって。
「はい。サラダも作っておいたから、たくさん食べてね」
 郁子さんが俺の前に小鉢を置く。ベビーリーフを敷き詰め、ミニトマトも飾ったミモザサラダだった。春っぽいな、と何となく思う。
「ありがとう」
 お礼を言った時には、もうご飯をよそった茶碗まで並べられていた。仕事中もてきぱき働く人だが、食事の支度の手際のよさにも目を瞠るものがある。俺はと言えばただ座って、美味そうな料理と立ち働く郁子さんを交互に眺めていただけだ。面目ない。
 郁子さんは俺に箸を手渡し、自分もテーブルを挟んだ真向かいに座って、ぱちんと手を合わせた。
「じゃあ、いただきましょうか」
 俺もすぐさま後に続いた。
「いただきます」
「どうぞ」
 目を細めた郁子さんは、俺が唐揚げに箸を伸ばして小皿に取り、更に一口頬張るまでずっとこちらを眺めていた。その間、自分の箸は止まったままだ。
 俺は見られていることに気恥ずかしさを覚えつつも、衣がさくさくした唐揚げを存分に味わった。外側はさっくり、中は柔らかくてジューシーなんて、まさに理想の出来栄えだ。
「本当に美味いね、これ。さすが郁子さん」
 思わず手放しで誉めると、彼女は照れたのか口元を綻ばせながら目を伏せた。
「お口に合った? 嬉しいな、たくさんあるからどんどん食べてね」
「わかった。張り切って食べるよ」
 お言葉に甘えて俺がどんどんと、遠慮なく食べるのを、郁子さんはやっぱり箸を動かさずに眺めてくる。満足げでも、心なしかほっとしたようでもある穏やかな顔つきで、柔らかい眼差しを向けてくる。そうやって見つめられていると食べづらいのもあるが、郁子さんはお腹空いていないんだろうか、なんてことも考えてしまう。
「……郁子さんは食べないの?」
 ふと、俺は尋ねた。
 途端に郁子さんは目を瞬かせた後、慌てたように箸を持ち直す。
「う、ううん。食べるよちゃんと……」
「ならいいけど。さっきから全然食べてないからさ、お腹空いてないのかなって」
「空いてはいるんだけどね」
 彼女はそう言いながらも唐揚げには手をつけず、ふうと長い溜息をついた。
「泰治くんが美味しそうに食べてくれるのを見てたら、胸がいっぱいになっちゃって」
「えっ?」
 この人はやぶからぼうになんて刺激の強いことを言うんだろう、と俺は驚いた。驚きのあまり箸から唐揚げが逃亡しそうになったので、慌てて小皿で受け止める。どうにか墜落の危機は防げた。
 全く、食事中は心臓に悪いことは言わないで欲しいものだ。
 しかし、
「最近、食欲ないくらい疲れてるのかな、って気もしたから……」
 郁子さんがそう続けると、俺は先程の動揺も忘れてたちまち申し訳なくなってしまう。
「ああ……ごめん。心配かけてた?」
「それはね。じろじろ観察しちゃって悪いなって思ったんだけど、どうしても」
 彼女が頷く。
 俺の最近の昼食がおにぎりオンリーなことも、それ以外の食事もいい加減になってしまっていることも、彼女にはあっさり見抜かれていた。恐らく今日呼んでくれた一番の理由も、俺を心配してくれたってことなんだろう。彼女の気持ちが嬉しい反面、やっぱり少し情けなく思う。
「いや、忙しい時はいつもあんなもんだからさ。あんまり心配しなくても」
 言い訳するみたいに俺が告げると、郁子さんはそれを否定するようにかぶりを振った。
 そして、すうっと表情を引き締める。
「私はね、泰治くんの為に何かしてあげたかったの」
 顔も眼差しも声も、どれもくまなく真剣だった。食事時にはふさわしくないくらいに張り詰めてもいた。
「私、泰治くんには本当にいろんなこと、してもらったから」
 畳みかけるようにそう言われて、俺は箸と茶碗を持ったまま照れていいのか戸惑っていいのか、あるいは否定すべきなのか、まるでわからなくなる。
「何かした? 俺」
 問い返せば郁子さんは深く頷いた。
「うん。たくさん」
「そうかな……。俺は逆に、何にもできてないなって思ってるほどだけど」
 郁子さんを幸せにしたくて、大切にしたくて、その為に何かできたらと思ってはいる。なのに具体的な行動は何一つとして浮かばない上、相反する気持ちさえ抱いている始末だ。全くもって誉められるところはない。
「一緒にいて、すごく楽しい思いさせてもらってるよ」
 彼女は言いながら箸を置く。さっき言った通りに胸がいっぱいになっているのか、その手を自分の胸に当て、しみじみと続けた。
「それにね、私が泰治くんと一緒にいて楽しいのは、泰治くんが私のことを考えて、私の為を思ってくれているからだと思うの」
 それはまあ、そういう面もあるかもしれない。俺は郁子さんと会う時は最大限彼女のことを考えてきたつもりだった。たまにその気持ちが行きすぎて、つい衝動的な行動に出たこともあったが――でもいつもは、本当は、郁子さんの為にって思っているんだ。
 だからそういうのが、郁子さんにも伝わっていたなら嬉しいものの。
「私はね。結構、自分勝手な人間だから」
 郁子さんが更に話し続ける。淡々とした、淀みない口調だった。
「自分さえ楽しければいいやって、ずっと思ってた。だから友達のことばかり大切にしてたし、その友達が皆結婚しちゃってからは一人ぼっちだった。皆は優しい子ばかりだったから素敵な人にすぐめぐり会えてたけど、私はこういう性格だから、全然そうはいかなかった」
 彼女の言葉が卑下するようなものにも聞こえて、俺はつい口を挟んだ。
「郁子さんだって優しいと思うけどな」
 でも彼女はもう答えは出ているとでもいうように、静かに微笑むだけだった。
「一人でいるのもね、強がりじゃなくて、本当に楽しかったの。一人旅も、その為の計画も、全部一人でやるのってすごく楽しい。だって誰にも気兼ねしないで好き勝手にできるんだもの、当たり前だよね」
 確かに、初めて話を聞いた時は楽しそうだって思った。郁子さんも本当にいきいきとして話していたから。
「誰かといるのは、そうじゃない。相手のことを考えなくちゃいけない。誰かといても気を遣うばかりで楽しくないなら、いっそ一人の方がいいってずっと思ってた。けど――」
 彼女はそこで一旦話を止め、俺を見て表情を和らげた。
 今度は本当に柔らかい、気を許してくれたことが窺える微笑みだった。
「泰治くんと一緒にいるのは、本当に楽しいの」
 嬉しい言葉のはずなのに、少しだけ胸が痛んだ。
 郁子さんは今まで、随分と長い間、そんなふうに思える機会はなかったのかもしれない。前にも感じた予感を改めて覚えた。
「一人になった時にふっと思い出して、どうして今まで一人でいたんだろうって不思議になるくらい。近頃は一人でいる時、あなたのことばかり考えているくらい……」
 彼女の頬にさっと、刷毛で描いたような赤みが差した。
「次の旅行の計画も、いつどこで写真を撮ってあなたに送ろうとか、どんなお土産買ってこようとか、そんなことばかり考えてた。何だか旅行の目的が違ってきちゃったみたい」
 でもそんな話を聞かされたら、こっちだって照れざるを得ない。俺まで頬が赤くなるのを自覚した。
「だって前の旅行の時、写真を送ったら泰治くん、すぐに返事をくれたでしょう? あれがすごく嬉しくて、楽しかったの」
「そりゃあ、待ち構えてたからな。郁子さんからメールが来ないかなって」
 恥ずかしいのも今更だとばかりにこちらも打ち明ける。
 郁子さんがくすっと笑う。
「ありがとう。おかげで旅行に楽しみが増えちゃった」
 お礼を言われて、ますます反応に困った。今日の郁子さんは随分と言葉が真っ直ぐだ。確かにこういうのはどぎまぎするものだって、俺は身に染みて理解する。
「いつも私のことを考えてくれてありがとう」
 郁子さんは重ねて礼を口にすると、内心うろたえる俺にとどめとばかりに微笑みを向けてくる。目を潤ませて頬をほんのり赤らめた、眩しさに目がくらみそうな笑顔だった。
「だから私も、泰治くんの為に何かしたかったの」
 何だか、すごい。
 深く想われている感じがする。
 いや両想いなんだし実際付き合っているんだから想われているのももちろん当然だ。当然だとしてもだ。ここまでストレートな言葉を重ねられたらどうしていいのかわからなくなってしまう。
 今ここに俺一人しかいなかったら、きっとはしゃいでた。嬉しさに飛び跳ねたり転げ回ったりしていた。でも今は目の前に郁子さんがいるからはしゃいだり飛んだり跳ねたりはできないし、でも何の反応もできずにぼさっとしているのも間抜けだ。何かしらの格好いい台詞は言い返さなければいけない。
「……こちらこそ、ありがとう」
 それで俺は、あくまで自分の認識としてはさほど緩んでいないはずの顔を作り、なるべく落ち着き払って感謝を伝えてみたつもりだった。
 だがうっかりしたことに食事中だったから、まだ箸と茶碗を持ちっぱなしだった。はたと気づいて手元に視線をやると、郁子さんも同じようにそちらを見たらしい。今度は吹き出された。
「ごめん。ご飯中に長々語るようなことじゃなかったね」
「まあ……そうかもしれないけど。でも嬉しかったよ」
 俺はまだ箸を持ったまま取り成すつもりで言い、それで郁子さんも自分の箸を持って、苦笑気味に言った。
「とりあえず、食べちゃおうっか。ご飯」
 それから俺たちは口数少なく食事を続けた。
 気まずいというのともまた違う、不思議な沈黙が部屋を支配していた。時々顔を上げると目が合って、すると郁子さんは恥ずかしそうに目を伏せてしまうから、俺までそわそわと落ち着かない気持ちになりながら美味しい唐揚げとサラダを食べた。
 換気扇のごうごう鳴る音が、妙に大きく響き続けていた。

 食事を終えて食器も片づけ終えると、郁子さんが俺に紅茶を入れてくれた。
 俺がそれを受け取りソファーに腰を下ろすと、自分用のカップを持った彼女が黙って隣に座ってきた。二人掛けのソファーに並んで座れば、二人の間の距離は十五センチにも満たないほどだった。
 早い夕食の後も俺たちは何とも言えない沈黙を引きずっていて、俺はずっと頭の中で、さっき教えてもらった郁子さんの言葉を繰り返している。俺といると楽しい、と言ってもらったこと。嬉しくて少し切なくて、彼女がこの上なくいとおしくなる。
 俺たちの気持ちは、もう通じ合ってるって言っていいのかもしれない。
 いや、『かもしれない』も要らないか。通じ合っている。
 俺たちはお互いのことが好きで、一緒にいると楽しくて、相手の為に何かしてあげたいと思っていて、相手のことが大切だ。ビンゴゲームならリーチがかかるくらいにぴったり揃っている。
 あとの、俺しか思っていないようなほんのわずかな気持ちの差異は――無視してしまうくらいがいいのかもしれない。そんなものは後回しでもいい。とにかく郁子さんが隣にいてくれればいい。
 そうは言っても隣で座る彼女の、スカートから覗くすらりとした脚にはやっぱりどうしても目が行った。行儀よく両足を揃えて座る彼女はそれでも緊張のせいか、時々揃えた足を傾けたり、両手を膝の上に置くようにして落ち着かないそぶりを見せた。こちらとしても見ないようにするのに必死で、いつからか紅茶の味がわからなくなっていた。しばらく会話がないのも気を散らすにはまずい状況だった。
 換気扇はとっくに止まってしまっていて、室内は静かだ。あの古い木の甘い匂いが戻りつつある彼女の部屋。窓には既にカーテンが引かれていて、時刻は午後七時を過ぎたところだった。
「……もう帰るの?」
 突然彼女が声を発して、俺はびくりとしてしまう。
 どうもこっそり時計を確かめたのがばれてしまったらしい。慌てて彼女の方を見たら、郁子さんも俺を窺うように見ていた。
「そろそろ帰るよ。週明けはまた忙しいし、紅茶飲んだらお暇する」
 俺は模範的な答え方をした。郁子さんに幻滅されるようなことはしたくない。いくら気持ちが通じ合ったからって、何でも許されるってわけじゃないからだ。
「もう?」
 郁子さんが短く繰り返した。寂しげに瞬きをしている。
 となると、すぐ帰るとも言い出しづらい。俺は冷めつつあった紅茶を飲み干すと、空になったカップを彼女に差し出してみる。
「じゃあ、お替わりもらえるかな。それ飲んでからにするよ」
「うん……」
 彼女は俺からカップを受け取り、スカートをひらめかせて立ち上がる。
 それからキッチンへと数歩進んだところで足を止め、こちらを向かずにぽつりと言った。
「――泊まってく?」
 すぐさま面を上げた俺に、彼女は小さな背中を向けたままで続ける。緩く結んだ髪が気のせいか、今は微かに震えていた。
「もし、私が前に言ったこと、気にしてるんだったら……」
 声は、上擦っているように聞こえた。
「あの時と今とは全然違う気持ちだって、知って欲しいから」

 俺も、知りたいと思っている。
 郁子さんのことも。
 彼女を大切にする為にどうすればいいのかということも。
 彼女自身が俺に対して、何を望んでいるのかということも――。
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