Tiny garden

積もる、募る、でも 伝わらない(3)

 お弁当箱は洗わなくていい、と郁子さんは言ってくれた。
 そうは言ってもやっぱり気が引けて、結局俺は持って帰ることにしたのだが。

『……本当に、よかったのに。気を遣わなくても』
 今日の仕事を終えてお互いの部屋に帰って、いつものように電話をしている。郁子さんがむしろ彼女の方こそ気遣わしげに言うのを、俺は苦笑しながら聞いている。
「いや、そういうわけにはいかないだろ。ちゃんときれいにしてから返さないと」
『ありがとう。その気持ちはすごく嬉しいんだけど』
 そこで、郁子さんも少し笑ったようだ。電話越しにはそんなふうに聞こえた。
『でもやっぱり、次作る時にはそのままでいいからね、泰治くん』
「また作ってくれる?」
 彼女の方から次の機会に言及してくれたことが、俺にとっては嬉しかった。反射的に聞き返す。
『いいよ。美味しいって言ってもらったからね』
 お弁当の感想については、退勤後にメールで彼女へ送っていた。リクエストしたコロッケがもう期待以上の美味さだったこと、温かいポトフも身体が温まって大変ありがたかったこと、野菜がたっぷり食べられたのも嬉しかったことなど、グルメレポートみたいに書き連ねてお礼を告げていた。それで彼女から返信代わりに電話がかかってきて、こうして話をしている次第だ。
「あんなに美味しい弁当、もしかしたら生涯初めてだったかもしれない」
 俺の真剣な言葉を聞いて郁子さんがおかしそうに笑う。すっかり日常風景になりつつある、いつものやり取りだ。
『大げさだね、泰治くんは』
「そうかな。本当にすごく美味かったんだ」
『喜んでもらえてよかった。また作るから、食べたい献立を考えておいてくれる?』
「任せて。俺、考えるのは得意だからさ」
 誇らしげに言ってみたら彼女はまた笑ってくれた。
 郁子さんがそうやって笑ってくれるだけで、俺は何だかすごく幸せな気持ちになってしまう。お弁当を作ってもらえるのはもちろん嬉しいが、本音を言えばこうやって笑っていてくれるだけでも十分なくらいだった。
 せっかくだから俺も、郁子さんを幸せにしたいものだ。何かできることはないかと、ずっと考えている。
「そうだ。郁子さん、甘い物好きだよな」
 ふと思い立って、俺は自分の部屋のローテーブルに目を向ける。
 そこには本日、経理課の皆からいただいたチョコレートの数々が乗っかっていた。まだ開封もしていないが、中身が食べ物ではない可能性は低いと思われる。あとで一つずつ確かめて、来月の十四日に向けてあれこれ検討しなくてはならない。
 が、その前に。チョコレート自体をどうするかという問題だってあるわけだ。俺も甘い物は食べないわけじゃないが、だからって毎日口にするほど好きでもないし、自力で消費しきるのは結構時間がかかることだろう。それなら、郁子さんに手伝ってもらうのはどうかと思いついた。入れ物ならちょうど、空のお弁当箱があることだし。
『好きだけど、どうして?』
 彼女が尋ね返してきたから、浮かんだプランを打ち明ける。
「いや、今日貰ったチョコレートが結構な量だったから、お裾分けしようかなって」
『……そんなに、たくさん貰ったんだ』
 心なしか、彼女の声がワントーン落ちた。
 なぜかぎくりとして、慌てて言葉を添える。
「そんなにってほどでもないけど。ってか、見てただろ? 全部義理だよ、義理」
『義理かどうかはわからないじゃない。あんなにたくさん貰ったんだから、一つくらい……』
 郁子さんはそう言いかけて息をつき、仕切り直すみたいに続けた。
『私だって、コンビニで買ったチョコしかあげられなかったけど、本命のつもりだよ』
 彼女から貰ったチョコレートも、同じようにローテーブルの上に置いてある。ただし郁子さんから貰ったものだとわかるように、あえて他のチョコとは離しておいていた。これは冷蔵庫に保管して、大事に大事に食べようと思う。本命だと、たった今はっきり言ってもらったことだし。
「お弁当に加えてチョコまでもらえるとは思わなかった。ありがとう、郁子さん」
『うん……』
 俺が感謝を伝えても、郁子さんの声はどこか元気がなかった。少しだけ間を置いてから、まるで独り言みたいに告げられた。
『本当はね。チョコもあげる予定はなかったの。お弁当だけにしようって』
 確かに俺も、事前に聞いていたのはそういう話だった。俺が職場でチョコをたくさん貰うだろうから、違うものにするね、と言ってくれたはずだった。
 なのに郁子さんは俺に、お弁当のほかにチョコレートもくれた。
 それが悪いってわけじゃない。迷惑だったなんて思うつもりもない。郁子さんから貰ったものは何だって特別だ。大切にする。
 でも、彼女が予定外の行動に出たことについては、漠然とした違和感を持っていた。
「どうして気が変わったの? いや、嬉しかったけどさ」
 俺は尋ねてからふと、経理課の若い子に突っ込まれた時のことを思い出す。もしかしたらあの時のやり取りを聞いて、急いで買いに走ってくれたんだろうか。
「もしかして俺が残念がっているように見えた? ほら、あの子に突っ込まれてたから」
 重ねて問いかけると、郁子さんは溜息交じりに答える。
『ううん。あのね……』
 おっかなびっくり、俺の反応を気にするみたいに慎重に。
『多分、私、やきもちを焼いたんだと思う』
 そして飛び出してきたそのフレーズには、俺もとっさに反応できなかった。
「やきもち? 郁子さんが?」
『何でそんなに驚くの? 私だって、妬いたりすることあるよ』
 意外だった、というのも変なのかもしれない。郁子さんがやきもちを焼かないなんて先入観があったわけでもない。
 ただ、あんまり誉められたことじゃないだろうが、こういうのって実は結構嬉しいものだ。女の子にやきもちを焼かれるのは、それも好きな人に対してそういう気持ちを持ってもらえるのは、何と言うかこう、思っていた以上に愛されちゃってるなみたいな実感がしみじみ湧いてきたりして幸せだったりする。
「へえ、郁子さんは俺に妬いてくれるんだ」
 電話越しの会話でよかった、とこの時ほど思ったことはない。何せ今の俺と来たら、にやつきすぎてみっともないことこの上なかっただろうから。彼女に見られたら引かれるじゃ済まない、幻滅されたっておかしくないだろう。
 でも、今の郁子さんの顔は見てみたかった。すぐにそうも思った。
『……どうして、そんなに嬉しそうにしてるの』
 声だけで察したのか、郁子さんは咎めるように言った。拗ねたようにも聞こえて、彼女が今、どんな表情でいるのかを心底知りたくなる。
「別に嬉しがってなんてないよ。郁子さんに心配かけて、申し訳ないって思ってるよ」
『心配ってほどじゃないんだけどね。泰治くんのこと、信頼してるから』
 彼女はそう言ってから、また溜息をついてしまう。
『だけど泰治くんが今日、皆に囲まれながらチョコ受け取ってるの見たら、何だかすごく寂しいって言うか、皆が羨ましくなっちゃって』
 気のせいかもしれない。そう呟いた時、郁子さんの声はどことなく自嘲めいて聞こえた。まるでそんな自分に呆れているような響きだった。
『せっかく、好きな人ができたのに。そういうイベントごとに表立って参加できないで、皆を外から眺めてるだけなんてつまらないなって思っちゃったの』
 それから少し恥ずかしそうに、
『大人気ないよね』
 と付け加える。
 でもその、ぽつんとした言い方が逆に、俺の胸にはぐっと突き刺さるようだった。
「可愛いと思うよ、そういう郁子さんも」
 経理課の皆にやきもちを焼いて、バレンタインというイベントにそわそわと揺り動かされて、それで昼休みの間に突発的にチョコレートを買いに走った郁子さんは、ものすごく可愛くて堪らないと思う。
『可愛くないよ。こんなの、みっともないじゃない』
 彼女はまるで認めたくないみたいに言い張るが、俺は、そういう郁子さんも好きだ。
「みっともなくない。すごく可愛いよ」
『泰治くんの馬鹿……』
 そして、可愛い女の子の言う『馬鹿』っていう単語にも、恐ろしいくらいの魅力と魔力が詰まっていると思う。
 郁子さんのその声を聞いた時、ぐらりと目眩のような感覚が俺を襲い、いても立ってもいられなくなった。
 彼女に会いたくなってしまった。
 今日も会ったのに。職場では顔を合わせたはずなのに、どうしても今すぐ会いたくなった。
「郁子さん。今から、チョコと弁当箱届けに行ってもいい?」
 勢い込んで尋ねる俺に、郁子さんはさすがに戸惑ったようだった。
『え? 今から?』
 だがこっちはもう、電話だけじゃ歯がゆくて物足りない。俺たちは傍目にはあまり変わっていないかもしれない。それでもこのくらいのことは、会いたくなったら会いに行けるくらいの関係には、とうになっているはずだった。
「五分だけでいい。すぐに帰る、玄関先で会うだけでいいから」
 俺は切羽詰まっていた。きっと声にも言葉にも余裕なんてなかったことだろう。
 それが伝わったからだろうか。それとも伝わらなかったからだろうか。郁子さんはやがて、答えてくれた。
『……いいよ。でも遅い時間だから、気をつけて来てね』
「わかった」
 すぐに電話を切り、俺は既に洗い終えていた彼女の弁当箱の蓋を空ける。
 がらがらのその空間を埋めるみたいに、今日貰ったばかりのチョコレートのいくつかを詰めた。三段重ねの小さな弁当箱はすぐにいっぱいになり、俺はそれらを抱えて自分の車に乗り込んだ。
 カーオーディオのデジタル時計を見ると、この時既に二十三時を過ぎていた。
 明日もお互い仕事なのに、突発的にも程があると我ながら思わなくもない。
 だがあんな打ち明け話を聞いたら、黙って嬉しがってばかりはいられないじゃないか。

 郁子さんの部屋の、玄関の鍵は開いていた。
 チャイムを鳴らさないで入ってと言われていたから、軽くノックだけしてドアを開けた。部屋着と思しきワンピースの上に長いカーディガンを羽織った郁子さんが、玄関先で待っていてくれた。飛び込んできた俺と目が合うと、居た堪れないとでもいうように身を縮めて頬を赤らめる。
 そうなるともう、いても立ってもいられない気持ちはついに溢れて決壊した。俺は背後で玄関のドアが閉まるのを聞きながら、上がり框に立つ彼女を腕を伸ばして抱き締める。あまり勢いづいたせいか、ぎゅっと抱いた瞬間に苦しげな吐息が漏れるのが聞こえた。
「……泰治くん」
 彼女が俺を呼んだのは、制止の為だろうか。それとも。
 どちらにせよ俺はすぐに腕を解く気にも、離れる気にもなれなかった。彼女はシャワーを浴びた後なのか、髪は少しだけ湿っていて、ほのかな石鹸の匂いがしていた。身体はほんのり温かくて、触れている全てが柔らかく、余計に離れがたくなってしまう。
「ごめん、急に来て」
 彼女を抱き締めながら、一応詫びておく。
「ううん。私も、会えて嬉しい」
 郁子さんもそう言ってくれた。
 だがしばらくすると俺の胸を押すようにしながら、
「で、でもね、泰治くん。明日も仕事あるから……ほどほどにね?」
 こちらを牽制するみたいに、そんなことも言ってきた。赤い頬と揺れる瞳に内心の動揺が表れていて、彼女がどういう意味で牽制してきたのかはすぐに読み取ることができた。
「釘を刺すのが早いよ、郁子さん」
 俺は、がっかりしなかったとは言わない。
 でもさすがに今夜は時間がないこともわかっていたし、そういうつもりで来たわけでもないし、何よりこの間『郁子さんの望んでいないことはしない』と約束したばかりだ。釘を刺してもらうほど切羽詰まってもいなかったと思うのに、彼女の反応には少々寂しさを覚えた。
「ごめん、私も、泰治くんを疑ってるわけじゃないの」
 郁子さんはあたふたと弁解を始める。俺を押しのけようとした手の力を緩め、だが俺の胸に手を置いたままで、ぽつんと続けた。
「ただ、こういうふうになるって、思わなかったから」
 つやつやした唇を震わせながら、彼女は俺を見上げて主張する。
「こんな夜中に飛んできてもらったりとか……つまらないやきもちを妬いたりとか。そういう恋愛、この歳になってもするなんて思わなかったから……!」
 そうして彼女は苦しげに息をつく。色っぽくも、儚くも聞こえる震える呼吸が、小さな玄関に染み込むように響いた。
「わ、私ね。どきどきしすぎて、倒れちゃいそう」
 郁子さんは本当に、可愛い人だ。
 彼女の切実な訴えを聞いた俺は、電話をしていた時以上の強い目眩を覚えた。
 彼女が欲しくなった。このまま抱いてしまいたいと思った。打算とか下心とか、明日の仕事だとか、直前に刺された釘のことすら頭から吹っ飛んでしまうくらいの強い欲求が積もり積もって、込み上げるように募って、どうしようもなくなりそうだった。好きじゃなきゃこんなふうには思わない。郁子さんだからそう思うんだ。本当に俺は、彼女が、喉から手が出るくらいに欲しくて、欲しくて堪らなかった。
 それでも、ぎりぎりのところで思い留まったのは、以前の約束を覚えていたからかもしれない。
 彼女が望まないことはしない。
 一方的に想いを募らせて、抱き寄せて口づけたところで、それが彼女の望むことでなければ何も伝わりはしない。この恋をもって、俺はそういった事実を知っていた。
「……もう帰るよ。会ってくれて、ありがとう」
 やがて、俺は抱き締めていた郁子さんを解放し、チョコを詰めた弁当箱を押し付けるように手渡す。それから、未練を断ち切るつもりで一歩後ずさった。
 郁子さんは見た目にもどぎまぎした様子だった。その一方で、俺の約束通りの対応に安堵しているようでもあった。目の前であからさまにほっとされると、電話では俺のことをからかったりするくせにって、やはり思ったりもする。
 積もり積もってひたすらに募るばかりの想いを、どうやって伝えればいいんだろう。
 伝えたら伝えたで、また郁子さんが考えすぎて、変に気を遣ったりされても困る。お互いに望むタイミングでっていうのがそりゃ理想だが、彼女がそういうことを望んでくれるとは。
「うん。おやすみなさい、泰治くん」
 温かく、優しく、柔らかい声で郁子さんは俺を見送ってくれた。
 その口調には愛情も、一時の別れの寂しさだって存分に含まれているのに――幸せなのにままならなくて辛いなんてどういうことだ。俺は後ろ髪引かれる思いに苦笑しつつ、彼女の部屋を出る。

 両想いになってまで苦しいなんて、本当に恋ってやつはどこまでままならないんだろう。
 俺だって大人気なんてとうにない。郁子さんが好きすぎて、どうにもならないところまで来ていた。
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