Tiny garden

折れそうな(1)

 眠れない、でも幸せな夜が明けていった。
 土曜の朝、ぼうっとする頭で台所に立ち、コーヒーを淹れながら昨夜のことを考える。
 自分の部屋へ帰ってきて、ベッドに横になってからもずっと考えていたことを。
 何度も寝返りを打ちながら思い出しては噛み締めていたことを、迎えた翌日の朝、また頭の中で繰り返す。

 郁子さんとキスをした。
 いつぞやのように眠っていた彼女に無断で、ではなかった。
 ちゃんと彼女にも受け入れてもらって、その上で果たしたキスだ。
 思い出す度、しみじみと幸せだった。長らくの片想いが叶ったんだからそれはもう嬉しいに決まっている。こういうのはいくつになったっていいものだし、浮かれたくもなる。
 もちろん、浮かれてばかりもいられないのはわかっている。俺と郁子さんの職場での関係はあくまで上司と部下だし、この間の飲み会で若い子に突っ込まれたみたいに、郁子さんを特別扱いしていると思われたらまずい。そうでなくても、まだ付き合いたての微妙な時期に周囲に気取られてああだこうだと口を挟まれるのは気分のいいものでもないし、そういう雑音が平穏をぶち壊しに来るのもよくある話だ。しばらくは振る舞いにも気をつけなくてはならないだろう。
 それと、一番大切なことがある。
 郁子さんは、まだ俺を好きだと言ってくれたわけじゃない。
 多分、『言わなかっただけ』ということもないだろう。
 彼女は俺と一緒にいると楽しいと思ってくれているようだし、俺と一緒にいることを選んでくれた。二人で共に努力しようと誓い合いもした。今のところはそれだけで十分だ。
 だがいつかは、好きだと言わせてみたい。
 昨夜の余韻からか、俺は柄にもなく根拠のない自信まで持ち始めていた。俺は郁子さんと幸せになれるだろう。彼女と同じ想いを抱くようになるだろう。そうなる為には何をすればいいのか、何が必要なのか、具体的なアイディアは皆無だ。でも何となく、全く理屈にもなっていないが、どうにか上手くいくような気がしてならなかった。

 そんなことをまとまりもなくだらだら考えながら、俺は自分で淹れたコーヒーを飲んだ。
 パジャマのまま台所に突っ立って、ミルクも砂糖も淹れないコーヒーをにやにやしながら飲む姿は、まだ郁子さんには見せられない。

 この土日には特に予定は入れていなかった。
 これから忙しくなれば土日は身体を休める為だけの日になってしまうだろうし、決算期の前に買い物をあらかた済ませておこうかと思っていた。そのくらいだ。
 でも俺は今、郁子さんに会いたくてしょうがない。
 彼女の顔が見たかった。声も聞きたかった。昨夜も会ったばかりだから今日誘うのはさすがにしつこいだろう。おまけに昨夜はお互い酒を飲んでいる。俺は翌日に引きずるほどではなかったものの、彼女は結構酔っ払っていたし、もしかしたら多少引きずっているかもしれない。
 でも、声が聞きたい。
 会えなくてもいい。せめて電話くらいは――いやいっそメールだけでもいい。とにかく彼女と繋がっていたい。こちらから連絡を取るだけなら、郁子さんも都合や体調が悪ければ控えめな返事で済ませてくるだろうし、しつこくはないだろう。問題ないはずだ。
 少し考えてから俺は、彼女にメールを送ってみることにした。
『昨夜はありがとうございました。そこそこ酔っ払っていたみたいですが、二日酔いにはなってませんか?』
 こんなのはデートの翌日なら当たり前のご機嫌伺いだ。向こうだって何かしら返事はくれるだろう。あわよくば、彼女さえ元気なら電話で話だってできるかもしれない。そんな下心を込めつつ送信する。
 すると、ものの五分もしないうち、上手い具合に彼女から電話がかかってきた。
 俺は期待と昨夜の記憶とに胸を高鳴らせながら通話ボタンを押す。
「お……おはようございます、郁子さん」
『……あれ? もう敬語に戻っちゃってる』
 彼女の第一声はそれだった。いつもの郁子さんらしい、明るく柔らかい声だった。
「えっ、あ……そうか。えっと、敬語じゃなくてもいい?」
 指摘にうろたえた俺が問い返せば、彼女のくすくす笑いが電話越しに聞こえる。
『是非、敬語じゃない方でお願いします。あっ、私も敬語になっちゃったね』
 言い直す口調が何だか可愛い。
「お互い、まだ慣れてないのかも。昨日やめたばかりだしさ」
『そうだね。そうかもね』
 昨日のことに話題が及んだせいかどうか、そこで彼女は一旦沈黙した。
 俺も、かなりどきどきしている。何せつい昨日だ。時間にしたらまだ半日経ったかどうかってとこで、記憶は脳裏にも網膜にも皮膚にも焼きつくほど鮮明だった。今でもこうして電話をしながら、昨夜の彼女の一挙一動を容易に脳内再生できてしまう。おかげで耳たぶや頬がかっと熱くなるのがわかる。
 子供じゃないんだからキスその他の記憶だけでいちいち赤面するのもおかしい。俺自身、自分がそこまでうぶだとは知らなかった。
 郁子さんがせっかく電話をくれたんだ。付き合いたての高校生みたいに延々と黙りこくったまま時を過ごすのももったいない。俺は気を引き締める。
「昨夜は嬉しかったよ。ありがとう」
 それから、改めてお礼を口にした。
『うん』
 彼女は短く応じる。その後に小さな笑いが続いた。
『こちらこそありがとう。昨夜ははしゃいじゃってごめんね』
「それはいいよ。俺も楽しかったし」
 見たことなかった郁子さんの顔も見られたし。
『私もね、本当にすっごく楽しかった』
 電話の向こうで彼女は、『すっごく』の部分を強調しながら言った。嘘やお世辞のない感じが、俺もすっごく嬉しい。
『でも、時間ちょっと足りなかったね。もう少し話したかったのにな』
 郁子さんは更にそう言ってくれて、俺の気分を一層浮かれさせた。
「何か話したいことでもあった?」
『ううん、そうじゃないけど。とりとめなく、いろいろ話したかったってだけ』
 そういうのはいかにも恋人同士って感じがしていいものだ。俺が思わず口元を緩めてしまった時、郁子さんは更なる爆弾をぶつけてきた。
『ね。迷惑じゃなかったら今日か明日、また会えないかな』
 待ってました、と内心叫びたくなるような提案に、心臓が跳び上がった。
 まさか彼女の方から言ってくれるとは思わなかった。もしかして、もしかしなくても、郁子さんも同じ気持ちでいてくれたってことだろうか。
 俺だって言うまでもなく、今日も会えたらと思っていた。しかしここであからさまにテンション上がるのも格好悪いだろうし、落ち着き払って答える。
「迷惑なんてことないよ。でも郁子さん、大丈夫?」
『何が?』
「いや、さっきメールでも言ったけど、結構酔っ払ってたみたいだし……」
 二日酔いじゃないのかな、と気にしてみただけだ。彼女が平気ならそれでいい。
 郁子さんは笑いながら答える。
『それは大丈夫。私、酔いやすい代わりにお酒はあんまり残らない方なの』
「そっか。なら安心したよ」
 俺はほっと息をついた
『心配してくれるなんて、泰治くんは優しいね』
「普通はするよ。特別なことじゃない」
 彼女に優しさを誉められると何だかこそばゆくて堪らない。下心あっての気遣いだって自覚しているせいだろうか。
『そういうことだから、泰治くんさえよければ会わない?』
「俺は空いてる。それに俺も、郁子さんと会いたいと思ってた」
 むしろ、こんなに上手くいくなんてと驚いているくらいだった。会いたい会いたいとは思っていたが、本当に会えるなんて。
「それで、いつにする? って言うか、どこか行く?」
 話をまとめるべく、俺は急いで切り出す。
 そうと決まればもたもたしていられない。一刻も早く約束を取りつけて、彼女と会うまでだ。
『まだまだ寒いし、今夜、私の部屋で鍋なんてどう? 私の作ったものでよければ』
 どうやら彼女はまたしても、自室に俺を招いてくれるつもりらしい。それだけ気を許されているということなんだろうか。それとも。
 その上、郁子さんの手料理と来れば、断る理由はない。
「押しかけて、迷惑じゃない?」
 一応、確認は取っておく。
 途端に彼女には笑われてしまったが。
『ちっとも。と言うか泰治くん、前にも来たことあるでしょう?』
「そうだけどさ。今回はいきなりだし、おまけにご馳走になるわけだし」
『ご馳走したいから呼んだの。迷惑だったら、そもそも声をかけないよ』
 もっともな意見だ。俺も遠慮なく、お呼ばれにあずかることにする。
「じゃあ、お邪魔します」
 俺は張り切って答えた。
『どうぞ、お越しください』
 心なしか、そう応じた郁子さんの声も弾んで聞こえた。
「で、何時頃にそっち行けばいい?」
『そうだね……午後六時くらい。私、買い出しに行ってくるから』
「買い出し?」
『お鍋の材料を買い揃えないと。泰治くんならたくさん食べるんじゃない?』
 さすがに女性の一人暮らしの部屋には、急な男の来客をもてなすだけの食材ストックはないらしい。しかしそうなると、手間をかけさせるようで申し訳ないな。
「よかったら車、出そうか」
 親切心半分、もしかしたらもっと早く郁子さんに会えるかもという気持ち半分で、俺は運転手を申し出る。
『え、いいの? 迷惑なんじゃ……』
 郁子さんにとっては意外だったのか、返答は戸惑った様子だったが、
「迷惑だったら、そもそも声をかけないよ」
 さっきの彼女の言葉をそっくりそのまま返したら、明るく笑ってくれた。
『それもそうだね。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな』
 本日の予定がすっきりまとまった瞬間だった。

 郁子さんとは、彼女のアパートの前で、午後四時に待ち合わせをした。
 俺が車で乗りつけると、彼女はわざわざ外に立って待ってくれていた。今日はあの赤いチェックのマフラーはしていなかったし、コートもふわふわしたファーがついたショート丈で、小柄な彼女によく似合っていた。
 長い髪を勤務中よりも緩くまとめた郁子さんは、俺の車が見えると小さく手を振ってくれ、停車するとすかさず駆け寄ってきて助手席のドアを開けた。
「ごめんね、泰治くん。面倒かけちゃって」
 車に乗り込んですぐ、謝られたのはちょっと予想と違っていたものの。
「謝らなくていいよ。俺がしたくてしたことなんだから」
 俺は苦笑しながら、彼女がシートベルトを締めるのを眺めている。郁子さんは俺の視線に気づくと、少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。
「……何か、直に会うと緊張するね」
 電話で話している時はちっともそんなそぶり見せなかったのに、今頃になって彼女はもじもじし始める。
 もっとも、それは俺も他人事というわけじゃなく、車をここまで走らせてくるまでの間はずっとそわそわしていたし、郁子さんの姿をフロントガラス越しに見かけた時は嬉しくなって思わず笑いが込み上げてきた。彼女が助手席に乗り込んでドアを閉めた時には、昨夜近づいた距離を思い起こして、どぎまぎする羽目にもなった。
 それはしょうがない。昨日の今日なんだから、記憶はどうしたって蘇るし、思い出して緊張だってする。
「俺もどきどきしてるよ。こんなに早く、また郁子さんに会えると思わなくて」
 正直な気持ちを告げると、シートベルトを締めて座り直した彼女が、こっちを向いて微笑んだ。
「そう言ってくれると、思い切って誘ったかいがあるかな」
 彼女の顔からは寝不足の様子は窺えなかった。頬がほんのり赤いくらいで、至って普段通りの郁子さんだ。
 昨夜別れてから、彼女が一人の時間をどう過ごしたかは知りようがない。俺とは違って、案外とぐっすり眠れてしまったのかもしれない。昨夜の出来事を、俺ほどにはそう何度も思い出さなかったのかもしれない。
 でも彼女が俺に会いたいと思ってくれたのは、きっと間違いない。
「それじゃ、出るよ」
 俺は車を動かし、彼女行きつけの、ここから近所にあるというスーパーへと向かう。
 鍋の材料の買い出しも、彼女とだったら楽しめるだろうと思っていた。
PREV← →NEXT 目次
▲top