Tiny garden

君に墜ちる星のひとつ(3)

 唇が離れた後、先に目を開けたのは俺の方だった。
 郁子さんは少ししてからゆっくりと目を開いた。潤んだ瞳と視線がぶつかり、どきっとしたのも束の間、彼女は顔を伏せてしまう。
「びっくりした……」
 息をつきながら呟かれたから、俺は慌ててしまった。驚かれるようなことでもあっただろうか。別に何も、すごいことはしてないのに。
「な、何がびっくり?」
 あたふたする俺の問いに、彼女は俯いたまま答えた。
「何だかとっても……どきどきした。心臓が変になりそうなくらい」
 そして郁子さんは俺の手からそれぞれ両手を離すと、自らの胸に――ちょうど心臓がある辺りにそっと当てた。動きを抑え込むような仕種だった。
「久し振りだからって言っても、動揺しすぎだね、私」
 相変わらず彼女は耳たぶまで真っ赤になっていて、吐く息も声も震えている。口元に浮かべたはにかみ笑いが可愛い。
「年上なのに、格好悪い……」
 力なくぼやく彼女の頬から、俺も手を離した。
 ベンチに生じていた拳一つ分の距離を埋めるべく、彼女の肩に手を置いてから抱き寄せる。
 彼女は特に抵抗もせず、俺の肩に頭を預けるようにしてもたれかかってきた。
「年上だからとか、考えなくていいよ。こういう時は俺に頼ってくれていい」
 抱き寄せた耳元に囁いてみる。
 飲んでいる間は散々俺をからかったくせに、とか思わなくもなかったが、今夜のところは胸に秘めておこう。そういうギャップもいいものだ。むしろ次にからかわれたら、その時こそ今夜の話を持ち出して、逆にからかい返してやろう。
 俺の思惑を知らない郁子さんは、腕の中から呟いてくる。
「でも私、泰治くんより三つも年上なのに」
「三つしか、だろ。そんなに変わらないよ」
 願望込みで俺は言い返した。
 実際には三歳差って結構大きいなと思うことも多いが、それも努力次第では埋められるはずだ。このくらいの歳の差カップル、世の中ではありふれている。俺は、俺たちは、きっと上手くやれると思う。
「三つって結構大きいよ」
 郁子さんもまた、勢いづいたのか面を上げて反論してきた。
「だって高校生なら、一緒に学校通えないくらいの差なんだよ」
 まだ顔も真っ赤で目も潤んでいるのに、何を必死に主張しているんだろう。いい雰囲気を誤魔化したがっているようにも映る。そういうところも可愛くて、こっちがにやにやしたくなる。
「何で笑うの?」
 いささか不満そうに聞かれたから、俺は笑いを噛み殺しながら言ってやった。
「郁子さんだってさっき、笑っただろ。せっかく俺がいいこと言ったのに」
「もしかして仕返し? 泰治くん、思ったより意地悪だね」
 拗ねた口調で彼女は言い、顔を隠すように再び俯いた。
 コートを着ていない彼女の身体はすっかり冷え切っていて、抱き締めていないと不安になるくらいだった。風は相変わらず公園内をたびたび吹き抜けているし、そろそろここを離れた方がいいかもしれない。
「さっきのことなんて言われたら、また思い出しちゃうよ」
 ぼやく郁子さんの言葉に苦笑しつつ、俺は彼女を抱き締めたまま腕時計を確かめた。時刻はもうじき午後十一時になるところだ。時間的にも頃合いだろう。
「郁子さん、寒くない?」
 尋ねると彼女はもう一度、おっかなびっくりといったそぶりで顔を上げた。俺をちらっと横目で見た後、たちまち視線を逸らしてしまう。拗ねているのか恥ずかしがっているのか、どちらにせよいいものだ。
「ちょっと、寒い」
 身を竦ませて彼女が言うから、俺は借りていたマフラーを解いて、彼女のほっそりした首にかけてあげた。それから彼女の膝の上に置いたままのコートも拾い上げ、肩を包むように羽織らせる。
 子供みたいにおとなしくされるがままの彼女を暖かくしてあげてから、俺は切り出した。
「そろそろ帰ろうか。風邪引くよ」
「うん……」
 彼女は一旦頷いた。だけど俺の顔を見ないまま、俺のコートの袖を掴む。軽く二回くらい引っ張りながら言われた。
「もうちょっとだけ。ここにいてもいい?」
「いいけど、平気? 寒いなら別に、場所移しても」
「あ、あのね。気分が……何て言うか、ふわふわしてて」
 郁子さんは恥ずかしそうにして、上目遣いに俺を見ながら微笑んだ。
「まだ、ちゃんと歩けそうにないから。気分落ち着くまで待ってくれない?」
 可愛い人だ。
 何度となく思ったことを、俺は今もまた思う。

 俺たちはその後もしばらくの間、公園のベンチに座っていた。
 改めて手は繋いだものの、その手は俺の膝の上に置いておく。なぜって、もう拳一つ分だって隙間を作っておきたくなかったからだ。冷たい夜風に対抗するが如く、寄り添い合ってぴったりくっついて座る。
 そしてさっきとは全く違う気分で、都会らしくくすんだ星空を見上げていた。俺には名前もわからない星ばかりだが、どれも冴え冴えと光っている。
「いつか、ちゃんと星を見に行こうか」
 郁子さんがマフラーに埋もれながら、くぐもった声で言った。
「それ、いいな」
 俺はすかさず同意してから聞き返す。
「でもどこで見る? 天体観測って、空気のきれいなとこじゃないと駄目なんだろ?」
「そうだね。この辺りだとちょっと難しいかも」
 小首を傾げて俺を見る彼女は、どうにか普段通りの落ち着きを取り戻したようだ。目が合うとにこっと笑ってくれた。その後すぐ、思い出したみたいに照れてまた俯いてしまったものの。
「もっと建物の少ない、例えば山の上の方とかね」
 郁子さんはそこで思いを馳せるみたいに間を置いた。
 少ししてからゆっくりと続ける。
「昔、流星群を見に山を登ったことがあるの。暗くて怖かったけど、面白かったな」
「へえ」
 俺が相槌を打てば、すかさずこっちを目の端で見る。
「友達とだから、心配しないでね」
「……別にそんな、やきもち焼いたわけじゃないよ」
 一応そう言っておいたが、実は、半分くらい嘘だ。
 実際ちょっとだけ気になっていたから、すぐに教えてもらえてほっとしていた。ちょっとだけ、だが。
 でも過去へのつまらない嫉妬というわけではなく、純粋に、彼女について気になっていたことがあった。このタイミングで聞くとそれこそやきもちみたいに見えるかもしれない。俺は少し迷ったが、今後の為にもと、結局は尋ねてしまった。
「郁子さん、一つ聞きたいんだけど」
「なあに?」
「『久し振り』って、どのくらい久し振りなの?」
 好奇心だけで聞いているわけではないから、なるべく真面目な顔を作っておく。もちろん彼女が嫌がるそぶりを見せたら深入りせず、気にしないようにするつもりだ。ただやっぱり、そういうのはちょっとだけ、気になるものだった。
 郁子さんは嫌がるそぶりもなかったし、それどころかおかしそうに笑った。
「かなりだよ。もう、かれこれ十年くらい?」
「そんなに!?」
 どうして、と追及したくなる気持ちを慌てて引っ込める俺に、彼女はあっさりと打ち明けてくれる。
「学生時代以来だからね。しかもその時、馬鹿みたいな終わり方しちゃった」
「馬鹿みたいって?」
「『俺と友達とどっちが大切なんだ』って言われて、友達を選んだの」
 郁子さんにとってそれは恥ずかしい思い出のようだった。何とも言えない苦笑いを浮かべている。
「私にとって当時の友達は、皆大切で、いい子ばかりだったから……そういうふうに比べられたくなかった。だからむっとしちゃって、もういい! ってこっちから振っちゃった」
 今までにもたびたび彼女が口にしてきた、強気だった頃の郁子さんがその話からも窺えた。
 郁子さんの気持ちもわからないとは言わないし、俺なら迂闊にも『どっちが大切なんだ』とは聞いたりしないが、当時の彼氏の気持ちもわからなくはない。
「そういう郁子さんってあんまり想像できないけどな。友情も恋愛も、上手くバランスとって付き合えそうな感じするのに」
 俺が率直な感想を述べると、郁子さんはふっと微かな笑い声を漏らす。
「あの頃は私が一番、子供だったんだと思う。大切なものを一つしか選べなかったんだから。友達は皆、そういうのを上手くやれてたのにね」
 彼女の話す友達というのは、以前聞いた、いつも旅行に出かけていたという子たちのことなんだろう。郁子さんはその子たちを、迂闊な発言をした彼氏を振ってしまうくらい大切に思っていた。でもその友達は皆それぞれに家庭を持ったりして、やがて一緒にはいられなくなった。
「今はもう少し、大人になれてるといいんだけど」
 どこか自信なさそうに彼女が言うから、俺は励ましと心底からの願いを込めて念を押しておく。
「今の郁子さんは十分大人だよ。俺も大切にするから」
「……うん」
 いくらか安心した様子で、郁子さんは頷いた。
 その後で小さな、だがはっきり聞こえる声で言ってくれた。
「私も、泰治くんを大切にする。約束するよ」

 公園を出てすぐ、タクシーを拾って二人で乗り込んだ。
 郁子さんはすっかり身体を冷やしてしまったようで、暖房が効いた車内でようやく一息つけていたみたいだ。そろそろ日付も変わる時分だった。このまま送っていったら今夜はおしまいだとわかっていた。
 それがどうしても寂しく思えて、車内でもずっと手を繋いでいた。
 彼女のアパートの前で一旦停まってもらって、彼女に降りてもらおうとした。ところが郁子さんは俺の手を離そうとせず、縋るような目を向けてきた。
「少しだけ……部屋の前まで送ってくれない?」
 俺は一瞬迷った。だが迷う必要もないとわかっていた。運転手には少し待っててもらうことにして、彼女を部屋まで送るべくタクシーを降りた。
 手を繋いだままアパートの階段を上り、彼女の部屋の前で立ち止まる。郁子さんはついてきた俺に申し訳なさそうな顔を向けた。
「わがまま言って、ごめんなさい」
「いいよ。俺も、おやすみくらいは言いたかったし」
 俺は格好つけて答えてみる。
 本音ではやっぱり別れがたかったし、彼女が『少し上がっていって』などと言ってくれたら一も二もなくお呼ばれにあずかりたい気持ちでいた。だが今夜は、これで終わらせた方がいいようにも思う。
 せっかく、いいデートだと言ってもらったのだから。
 ここはあえて深追いせず、今夜のことをお互いじっくり考える時間を置いてもいいだろう。デートなんてものはちょっと物足りない、あと少しだけ一緒にいたいってくらいで終わっておく方が、次に繋げられるからいい。俺はそう思っている。
 何より俺たちには、次があるんだから。約束はしていないが、今となっては確実にあるものだと考えていいだろう。
 郁子さんは鍵を開け、ドアを開けた。室内から彼女の部屋の、甘い木の香りが微かに感じられた。玄関に一歩立ち入った彼女は身体ごと振り返り、俺に向かって寂しげに微笑む。明かりのついていない玄関で、その微笑は暗く翳って見えた。
「今日はありがとう。私、今夜は眠れないかも」
「俺も。明日が休みでよかったよ」
 正直に答えれば、彼女はますます心細そうに俯いた。
 彼女も離れがたいと思ってくれているなら、すごく嬉しい。内心、ちょっと心が揺れた。もう少し押せば、もう少し一緒にいられるようになるかもしれない。そうも思ったが、公園での彼女の様子を思い起こせば――やっぱり今夜は、ここまでにしておこう。
「郁子さんを大切にしたいから。今日は、これで帰る」
 俺はそう告げて、手を伸ばし、彼女の頬に触れてみる。
 軽く力を込めて上を向かせると、郁子さんもゆっくり俺を見上げてきた。
「ありがとう、泰治くん」
 もう一度お礼を言ってきた彼女は、その後で俺の肩に手を置いた。背伸びをしたかと思うと、頬にそっとキスしてくれた。俺が思わず彼女をまじまじと見れば、彼女は暗がりでもわかるくらい頬を赤らめている。
「……ごめんね。今夜は、ほっぺたで」
「じゃあ、次に期待してるよ」
 俺が明るく答えると、郁子さんは否定もせず、黙って笑いかけてくれた。

 彼女の部屋のドアが閉まるのを見届けてから、俺は待たせていたタクシーに戻り、自分の部屋の住所を告げる。
 走り出した車の窓から、しばらくぼんやりと夜の景色を眺めていた。地上の明かりの煌びやかさのせいで、夜空の星はここからじゃ全く見えない。
 いつか本当に、二人でどこかへ星を見に行こう。
 詳しくないという割に、俺よりはずっと詳しい郁子さんに、星についていろいろ教えてもらおう。
 そんなことをとりとめもなく、考えているだけで幸せになれた。
 同じように彼女にも、幸せになってもらえたらいい。
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