Tiny garden

折れそうな(2)

 スーパーへは、一人でもよく出かける。
 長年の一人暮らしの経験上、食事は買うより作る方が安いとわかっていたし、仕事で帰宅が遅くなってコンビニ弁当しか選択肢がない切なさを数回でも味わえば、誰だって少なからず自炊に心が動くだろう。俺の料理の腕は以前彼女に話した通り、食べられればいいやという程度でしかないのだが、そんなでも数年間続いているんだから我ながら大したものだ。
 ただ本日は郁子さんが一緒だ。彼女がよく通うという、彼女のアパートのすぐ傍にあるスーパーへ二人連れ立ってやってきた。ここは地元に何軒も店を出す地場スーパーというやつで、俺の住む近所にも同じチェーンの店が一軒ある。だからか店内の構造、商品の配置はことごとく似通っていたし、目新しさも皆無だったが、それも彼女と一緒ならまるで違って見えてくる。

 土曜日の夕方、店内は夕飯の買い物をする客で混み合っていた。
 店内のPOPには『広告の品!』『御一家族様一点まで!』といった文字が躍り、何組もの家族連れがでっかいカートをごろごろ押して練り歩き、至るところに立つ試食販売の周囲にも物珍しげな人の輪ができている。スーパーにありがちなインストの有線放送も聞こえないほどの騒がしさだった。
 その賑わいの中を、俺もまたどこぞの家族連れを真似てカートを押し、郁子さんと並んで歩いていく。
「水炊きなんてどうかな。普通すぎる?」
 郁子さんが俺の顔を見上げて尋ねてくる。そんな時、ほんのちょっと首を傾げてみせるのが可愛い。
「俺は好きだよ。水炊きにしよう」
 俺の答えを聞くと彼女は屈託なく笑んで、まずは青果コーナーから鍋用の野菜各種を選び出す。白菜、長ねぎ、水菜ににんじん、目を細めて検分しながら次々とカゴに入れていく。
「あと、大根おろしもないとね」
 そう言って大根に手を伸ばす郁子さんを、俺は感慨深い思いで眺めている。
 ついこの間までただの部下でしかなかった彼女と、こうして二人で買い物に来ている。夕飯に何を食べようかって会話を交わしながら生鮮食品のコーナーを歩き回っている。お互い私服で、職場にいる時みたいに敬語でもなくて、おまけに下の名前で呼び合っていて――傍から見れば、どこにでもいそうなごく普通の夫婦みたいだ。もしかしたらそうは見えていないかもしれないが、俺はあえてそう思い込みたい。
 俺もこの年齢となれば、好きな人といるのに結婚を意識しないはずがなく、だからかこういう場面でもいろいろと想像を膨らませてしまう。郁子さんと結婚したらこんなふうに毎週、買い物に通ったりするのかなあとか。彼女の手料理を毎日楽しみにしていられるんだろうなあ、とか。もっとも、郁子さんの手料理は今日これから初めてごちそうになるから、俺の想像も食卓に辿り着いた時点でたちまち靄がかった曖昧なものになってしまうのだが。
 とりあえず、夕飯が楽しみだ。女の子の手料理なんてそれこそ久しぶりだし。
「……何だか嬉しそうだね」
 想像だけで幸せな気分になる俺を見てか、郁子さんが吹き出した。思わずはっとした拍子、彼女に言われた。
「泰治くん、そんなに水炊きが好きだったの?」
 当たらずとも遠からず、ではある。
「そりゃあ好きだよ。ほら、一人だと鍋物って滅多にやらないからさ」
 俺は妙に早口になりながら答えた。嘘じゃない。でもほんのちょっと、恥ずかしい想像をしていたことを誤魔化したい気持ちもあった。
 ただ、一人だとあまり食べないという点は事実だ。鍋物はやっぱり誰かと食べた方が美味しいし、それが可愛い女性、しかも好きな人だというんなら、もう言うことなしだろう。
「じゃあ張り切って、美味しいお鍋にしないとね」
 郁子さんは言葉通り、張り切って次のコーナーへと歩き出す。
 青果コーナーの並びには日配食品の冷蔵ケースがあり、彼女はそこから豆腐のパックを手に取って、またカゴに入れてきた。だんだん品数が増えていくカゴを載せたカートは、それでもちっとも重い感じがしなくて、いくらでも押していけそうだった。

 精肉コーナーで鶏肉のパックを選んだ後、郁子さんが思いついたように声を上げた。
「そうだ。泰治くんは水炊きってポン酢派? それともごまだれ派?」
「どっちかって言うとポン酢かな」
 俺は正直に答える。
 どちらも鍋を食べる上では甲乙つけがたい美味しさだが、一人暮らしともなると調味料、特にたれ類の購入には細心の注意が必要だ。目新しい味の商品を興味本位で買った挙句、使い切れずに賞味期限を迎えてしまったなどということは一度や二度じゃない。その点、ポン酢の汎用性はさして料理上手でもない自炊派の俺の強い味方である。いざという時は肉と野菜を適当に茹でて、上からポン酢をかけるだけで食べられる。
「わかった。じゃあ、調味料は確かこっちに……」
 郁子さんがまた店内を歩き出す。俺もカートを押してその後に続く。
 ポン酢の売り場は酢やみりんといった各種調味料の棚が並ぶ一帯にあった。郁子さんがその棚の前で腰を屈め、ポン酢のびんを一本取る。
「これでよし、と。あとは――」
 そしてカゴの中に入れ、俺に向かって笑いかけた時だった。
「あれっ? 郁子じゃない?」
 聞き覚えのない女性の声が、郁子さんの名前をはっきりと呼んだ。
 突然のことに俺は驚いたが、どうやら郁子さん自身の方がより驚いたみたいだ。大きく息を呑んでから振り向き、そして調味料コーナーに現われた女性の姿を見つけてぱあっと表情を輝かせる。
「さっちゃん! うわあ久し振り!」
「久し振り! まさかこんなとこで会うとは思わなかったよ!」
 二人して明るい声を上げながら手を振り合って駆け寄る姿は、女子高生と大差ない。
 郁子さんに『さっちゃん』と呼ばれた女性はショートボブの、いかにも活発そうな方で、リュックサックを逆に背負うみたいに、肩から抱っこ紐を吊るして赤ちゃんを抱えていた。
「見ないうちに随分大きくなったねえ」
 郁子さんは相好を崩して赤ちゃんの顔を覗き込んだ後、面を上げて『さっちゃん』に尋ねた。
「さっちゃんってこっちの方まで買い物来るんだね」
「うん。今日は実家でご飯食べようってことになってさ」
 と、『さっちゃん』は答える。
「うちの人が最近仕事忙しくてさ。この子の面倒見ながらご飯支度ってのも結構大変なんだよね……。だからいっそ、じいちゃんばあちゃんに見ててもらおうと思って」
「そうなんだ。お母さん業も大変だねえ」
 郁子さんが熱心に相槌を打つ。
 するとそこで、『さっちゃん』が俺の存在に気づいたようだ。一瞬目を瞠ってから、にやりと興味深そうに微笑む。
「ところで郁子、あちらの方はどなた? 彼氏?」
「えっ」
 なぜか郁子さんは答えに詰まったようだ。『さっちゃん』の視線を追うように俺の方を振り返り、それからあたふたし始めた。
「ええと、そんな感じって言うか……そんな感じって言うのも変だけど、何て言うか……うちの職場の課長さんなんだけど……」
 いきなりの旧友との遭遇で動揺しているのか。あるいはまだ、俺たちの仲が説明しにくいところにあるってことなのか。ともかくもうろたえつつ、つっかえつつ答える郁子さんを見て、『さっちゃん』も大方を察したようだ。紹介されるより早く、俺に向かって頭を下げてきた。
「初めまして、松本です。郁子とは高校時代からの友達なんです」
「後藤と申します。初めまして」
 俺も挨拶を返す。松本さんというお名前から『さっちゃん』と呼ばれる要素は見つけられなかったが、恐らく彼女の旧姓か、下の名前がそうなんだろう。
 ともあれ『さっちゃん』こと松本さんは俺をしげしげと見てから、郁子さんに向かって声を抑えずに囁いた。
「ちょっと格好いいじゃない。年下?」
「そ、そうだけど。そんなに違わないんだけどね」
 郁子さんが恥ずかしそうに応じる。
 まだ『さっちゃん』は追及したそうな顔つきをしていたが、そのタイミングで抱っこ紐の中の赤ん坊が不満そうな声を上げた。泣き出したようではなかったもののむずかっている様子で、それを『さっちゃん』が慌てたそぶりもなく、軽く背中を叩きながらあやしている。
「はいはい。そろそろお会計して帰ろっか」
 赤ちゃんに声をかけてから、『さっちゃん』は郁子さんに向かって手を振る。
「じゃあ郁子、またね。結婚する時はちゃんと知らせてよ、式にも出るから!」
「う、うん」
 ためらいがちに頷く郁子さんが手を振り返すと、『さっちゃん』はにんまりした。そして俺に向かってもう一度頭を下げてから、赤ちゃんと二人、調味料のコーナーを出ていく。その姿はすぐさま背の高い棚の向こうに消えてしまった。
 頬を紅潮させた郁子さんが、しばらくしてから、恐る恐るといったふうに俺を見る。
「あの……さっきの子、高校時代の友達なの」
「そう言ってたね」
 そっくり同じ説明を『さっちゃん』からもされていたな、と俺は頷く。
 すると郁子さんはますます恥ずかしそうにしながら、ふうっと大きく息をついた。
「でも、びっくりしちゃった。まさか友達と会うとは思わなかったから……あ、別に泰治くんといるところを見られたくなかったってわけではないからね」
 フォローしてくれるのは嬉しいものの、実際、恋人もしくはそれに近い相手と一緒にいる時に旧友と会うのはそこそこ気まずいのが普通だろう。まして高校時代の友人ともなれば、もしかしたら痛かったり、悪ぶってたり、世を儚んでた頃の自分を知ってるかもしれないってことだ。俺だってちょっと抵抗ある。
 しかし、この土地にいる以上、俺の方にはそういった遭遇の可能性なんてあるはずもない。
「郁子さんはずっとここに住んでるの?」
 俺の問いに彼女は勢いよく頷いた。
「うん。それこそ生まれた時からこの街暮らしなの」
「そっか」
 そういうのもちょっと羨ましいな。生まれ育った土地にずっといられるのって。
 俺は社会人になってから初めて引っ越し、転勤を経験した。新しい街に行くのもわくわくするものだが、時々は生まれ故郷が恋しくなる。俺も故郷にいたなら、郁子さんと一緒に外を歩いて昔の友達にばったりなんてこと、あったかもしれないな。
「泰治くんはこっちの出身じゃないって聞いてたけど」
 今度は郁子さんが尋ねてきた。
「そうだよ。異動がなけりゃ、こっちに来ることもなかった」
「ふうん……。何だか、不思議なご縁だね」
 彼女が呟いた通り、異動辞令がなかったなら彼女と出会うこともなかったし、こうして休日を二人で過ごすことも、一緒に買い物に出ることだってありえなかっただろう。縁というのは本当に不思議なものだ。
「さっき、郁子さんがはしゃいでるとこ、可愛かったな」
 俺がからかい半分で告げると、郁子さんは困ったように微笑んだ。
「そんなこと……。からかわないでよ、泰治くん」
「からかってないよ。郁子さんの学生時代の姿が垣間見られたみたいでさ」
「もう、そんなもの垣間見たって面白くないでしょう」
 彼女は少しばかり不満に思ったようだった。だが怒ったようではなく、やがて首を竦めて反省するように零した。
「彼氏だって、はっきり言えなくてごめんね……」
「別に、いいよ」
 俺もそれはわかっている。俺の立場はまだ、はっきり言えるような位置にはないんだろう。
 でも限りなく近いところにいると思っているから、今はそれでもよかった。
 ただ一つ、先程のやり取りで不満だったことと言えば――容姿を誉められたようなのは、たとえお世辞であっても嬉しいが、一発で年下と看破されたことが納得いかなかった。
 郁子さんの言ったように、俺たちはたった三つしか違わないっていうのに、一体どうしてわかるんだろう。

 俺たちは買い物を済ませた後、郁子さんのアパートに戻った。
 戻った時にはもう午後五時を過ぎていて、俺たちは二人揃っていい具合にお腹を空かせていた。だから鍋の支度も迅速に進めることにした。
 毎日ちゃんとご飯を作っているだけあって、郁子さんの手際は素晴らしくよかった。白菜に長ねぎに水菜ににんじん、それらの下ごしらえも目覚しいスピードで行っていた。次々と野菜を切り揃え、更に並べていく。彼女の部屋の猫脚テーブルの上にカセットコンロを置き、さらにその上に鍋を置き、昆布を敷いて水を張って、ぐつぐつ煮立たせ始める。
「俺も、何か手伝うことない?」
 すっかり出遅れた感のある俺が尋ねたところ、にっこり笑んで取り皿と割り箸二膳を渡された。
「じゃあこれ、並べておいてくれる?」
「いいよ。でも、もっと働けるよ、俺」
「それなら後で、灰汁取りをお願いしようかな」
 どうやら、大方のところは任せて欲しいということらしい。
 そういうことならと俺も配膳と、灰汁取りだけを粛々と引き受ける。やがて沸き立つ鍋に野菜が、そして鶏肉が入り、俺は真剣に鍋と向き合いながら浮かんでくる灰汁を掬い取ってはボウルに投げ、掬い取っては投げた。
 郁子さんのてきぱきとした働きと、俺のごく微量な協力のおかげで、しばらくすると美味しそうに湯気を上げる水炊きができあがった。
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