Tiny garden

脊髄反射できみが好き(2)

 カフェに入り、一通りの注文を終えた後、星名さんはバッグから小さな包みを取り出した。
「これ、お話ししていたお土産です」
「ありがとうございます。嬉しいです」
 俺は礼を言ってそれを受け取る。
 旅行中に貰ったメールでは名刺大に見えたその包みは、実際手に取ってみるともう少し大きかった。手のひらからはみ出すほどの紙袋の中に、何か四角く、薄い箱が入っているのがわかった。
「お約束通り、課長の分だけは特別なんです」
 なんてことを、星名さんは笑顔で言ってくれる。
「と、特別ですか……嬉しいです」
 俺はうろたえないように細心の注意を払いながら応じた。そして呼吸を落ち着けてから彼女に尋ねる。
「ここで、開けてみてもいいですか?」
「どうぞ。気に入っていただけるといいんですけど」
 星名さんから貰ったものなら何でも嬉しいですよ!
 というのはあまりに率直すぎる本音なので心の中でだけ呟いて、俺は紙袋の口を止めているテープを慎重に剥がす。それから袋を傾けると、中身の箱が滑り出るように現われた。
 紙製の箱にプラスチックの透明な蓋がかけられているのは送ってもらった画像と同じだ。ただし中には例の匂い袋の他、手のひらにちょうど載るくらいの小さな手鏡が入っていた。どちらも薄い青をベースにした光沢のある絹織物で、店内の照明の下でもつやつやと美しく見えた。
「西陣織の匂い袋と、鏡のセットです。男の人でもこれなら使いでがあるかなって」
 星名さんは小首を傾げながら説明を添える。
「同じお店にネクタイもあって、そういうのもいいかと思ったんですけど、いきなりだと課長にご迷惑をかけるような気もしたので、今回は見送りました」
 迷惑なんてことはないが、好きな人からネクタイなんて貰ったら期待してしまうかもしれない。付き合ってもいない相手に予告なく贈るものでもないだろうし、星名さんの判断は正しい。ちょっとだけ、惜しくも感じたものの。
「素敵ですね。こういうものは持ったことがないので、新鮮な感じがします」
 俺は箱の蓋を開け、まずは手鏡の方を手に取ってみる。
 携帯用なのか持ち手は小さく、人差し指の先端が入るか入らないかくらいの丸い穴が開いている。まだ塵一つついていない鏡面の裏側には匂い袋と同じ模様の布地が張られていて、指で触れるとふわふわ柔らかかった。
 カード型の匂い袋の方は使い方がよくわからない。とりあえず鼻に近づけて嗅いでみたら、お香のような和風の穏やかな匂いがした。
「これって、どうやって使うんですか?」
 素直に尋ねると、星名さんは優しく教えてくれた。
「そうですね。バッグに入れたり、引き出しに入れておいて香りを楽しんだり……」
「芳香剤って考えていいんでしょうか」
「そういうことです。あと、名刺入れにしまっておく人もいるみたいですよ。名刺に香りが移って、名前を覚えてもらいやすくなるとか。試してみてはいかがですか?」
 そういうものなのか。星名さんの説明に俺が思わず聞き入ると、そこで彼女は少し恥ずかしそうに首を竦めた。
「すみません。年下の男の人にプレゼントしたことって、そういえば全然なくて……」
 自信のなさそうなその言い方に、俺の方が慌てたくなる。
「え? あ、いえ、嬉しかったですよ、これ」
 俺も喜んでいないわけではないのだが、いかんせんこの手の品には全く疎い。女の子だったらこういう時、『わー可愛いー!』なんて歓声上げて喜ぶものなんだろうか。ともかく急いでフォローすると、星名さんは苦笑いを浮かべる。
「そう言っていただけるとほっとします。よろしければ使ってください、課長」
「はい。早速名刺入れにしまっときます」
 持ち歩いていた名刺入れに匂い袋をしまってみる。サイズはちょうどよく、ぴったりと収まった。果たして星名さんの言うような効果が発揮されるかどうか――俺としてはまず、星名さんの記憶に残れるような男でありたいものだが。
「次からは、何が欲しいか事前に伺うようにしてもいいですか?」
 名刺入れをポケットにしまう俺を見ながら、星名さんが尋ねた。
「いいですよ。もちろん、星名さんのチョイスでも俺は喜びますけど」
 俺は即座に答えたが、その後でふと思った。
 星名さんは次の旅行も、一人きりで行く気なんだな……。今の段階で二人一緒に、なんて誘えるわけがないこともわかっているが、次の予定が既に決まってしまっていることに、何となく寂しくなった。

 お土産についてのやり取りが一段落したところで、注文したランチプレートが俺たちのテーブルに運ばれてきた。
 俺がひょいと顔を上げた時、隣のテーブルに座っていた女性がこちらを窺っているのに気づいた。若い女の子の二人連れのようだが、ちらちらと俺と星名さんの方を見ている。いかにも好奇心に溢れた顔で、興味深そうなそぶりで。
 何だろうと思った時、星名さんがが俺に声をかけてきた。
「じゃあ課長、いただきましょうか」
「あ、そうですね」
 彼女に視線を戻して頷くと、隣のテーブルが動いた。再びそちらに注意を向けると、声を潜めた微かな会話が聞こえてくる。
「……やっぱり、『課長』って呼んでるよね」
「……社内恋愛かな?」
 隣のひそひそ話は棘がある口調ではなかったが、それでも多少は不快に感じた。この間の映画館でもそうだったが、やたらと他人を気にする連中がいるものだ。こっちは別に、やましいことなんてしていないのに。
 とは言え、社外で役職名を呼ばれたらそりゃ浮くだろう。休日に、お互い私服で会っているのに、片方が『課長』なんて呼ばれている姿は確かに人目を引くかもしれない。だからといって無遠慮なひそひそ話を許してやれる気にはならないが――星名さんが気づいていないようなのが唯一の救いだ。
 その星名さんはランチプレートを前にして手を合わせている。俺も続くと、いただきますを言ってから行儀よく食べ始めた。
「美味しい。洋食、久々に食べた気がします」
 彼女はグラタンをスプーンで掬い、一口食べてから控えめに微笑む。
 美味しそうにものを食べる女の子は得てして可愛いものだが、星名さんも同じだ。上品に、でも熱心にグラタンを口に運ぶ姿は可愛いと言っても差し支えないと思う。それでも彼女はさっきみたいに、ちょっと拗ねてみせるのかもしれないが。
 星名さん――星名、郁子さん。彼女の名も、ありふれたものではあるにせよ可愛い名前だ。好きな人の名前だからそう思うのだとしても、やっぱりいい名前だと思えて仕方ない。
 これからも休日や社外で会う機会が増えるなら、お互いに違う呼び方をするようにした方がいいのかもしれない。他人からの余計な詮索を避ける為にも『課長』呼びは控えてもらうべきだろうし、というお題目もあることだし。近いうちに切り出してみようか。
「課長? どうかしたんですか?」
 考えているうちから星名さんが、俺をそう呼んだ。
 隣のテーブルにいる女の子たちがまた何事か話し始めたが、こっちはもう気にしているのも時間の無駄だ。俺は星名さんに向き直り、かぶりを振る。
「何でもありません。……星名さん、旅行中はずっと和食だったんですか?」
「ええ。旅先ではどうしても、穏やかで優しい味ばかり食べたくなっちゃうんです」
 星名さんは嬉しそうにグラタンを食べている。
「だから洋食ってすごく久し振りな感じがして。と言ってもほんの数日の話ですけど」
「俺もそういえば、洋食は久々かもしれません。お正月の間は食べてませんでしたし」
 一人暮らしでもおせちやお雑煮が食べたい気分になれば、やっぱり買って、作ってしまう。ちんまりした一人用のおせちセットと雑煮を並べた正月朝の食卓を思い出し、俺の胸には侘しさと切なさが去来した。
「もしかして、課長はお料理されるんですか?」
 そこでふと、彼女が興味深げに尋ねてくる。
 俺は軽く笑いながら正直に答えた。
「するってほどじゃないですよ。普段は丼物と麺類のローテです」
「でもすごいですよ。私、男の人って普通は台所に立たないものかと思ってました」
 星名さんは随分と感心してくれているようだ。そういう男ばかりではもちろんないだろうが、まあ男の一人暮らしなんて食生活が荒んで当然みたいな風潮もあるし、俺にしたって感心されるほどではないのも自覚している。
「本当に大した腕じゃないんです。盛りつけにもこだわらないから人にお出しできるものでもないですし、星名さんに見せたら笑われてもしょうがないくらいの出来ですよ」
 見栄を張ってもどうしようもないし、俺はこれも正直に告げておく。一人暮らしならそれこそ誰に咎められることもないから、鍋から直接ラーメンやうどんを食べたりなんてよくある話だ。正月の雑煮だって市販の麺つゆに干ししいたけの戻し汁を混ぜて沸かしただけで、あとは餅を適当に放り込んで作った。まさに男の料理である。
「笑いませんから、一度見せてもらえませんか?」
 星名さんはそう言いつつも、既にくすくす笑っている。
「もう笑ってるじゃないですか……」
「いえ、見てからは笑いませんから。課長がお料理するところ、見てみたいんです」
「俺も星名さんに格好悪いところは見せたくないんです。考えさせてください」
 笑う彼女にどこか悔しい気持ちにさせられたものの、見てみたいと言われたことに悪い気はしなかった。
 それなら少し練習でもして、一品くらい星名さんに見せられるような料理でも作れるようになっておこうかな、などと単純なことを思ってみたりもする。
「星名さんこそどうなんですか。お料理はされるんでしょう?」
 逆に俺が聞き返すと、星名さんも実に控えめに答えた。
「私も大した腕じゃないんですよ。普段は自分の食べる分だけだからって、つい手を抜いちゃうんです」
 そういうところは男も女も関係なく、一人暮らしの人間に共通する意識なのかもしれない。完璧にやってのけたところで誰に見せるわけでもなく、誰に誉めてもらえるわけでもないから、手を抜けるところは抜いておく。そんなものだろう。
「食べてみたいです、星名さんの手料理」
 同じようなことを言われていたから、俺からもそう告げてみた。
 彼女はどうも、そう言われることを予想していたみたいだ。ふっと口元を綻ばせた。
「私も、考えておきます。今度、好きな献立を教えてくださいね」
 そしてどうやら彼女は、俺に期待を持たせるのが随分と上手なようだ。舞い上がりそうになる気分を抑えつけ、俺はなるべく落ち着き払って返事をする。
「こちらこそ、是非お願いします!」
 落ち着き払ったつもり、だったのだが、思いのほか力いっぱいの返事になっていたみたいだった。星名さんはおろか、隣のテーブルの子たちにまでこっそり笑われてしまった。

 昼食を済ませてカフェを出る。
 昼下がりの時分とあって、当たり前だが外はまだ明るい。薄曇りの天候のせいで暖かくはないのが残念だ。これがもうちょっと暖かい日なら、少し歩きましょうかと散歩に誘えるのに。
 もっとも、こちらは今日は車で来ている。カフェに駐車場がなかったせいで離れたパーキングに置いてきたが、彼女の返事次第では急いで取りに戻ればいい話だ。そして彼女が嫌でなければドライブにでも誘ってみようか。
 そう思って星名さんの方を見ると、彼女もちょうど俺を見ていた。目が合うと目を瞬かせてから問いかけられた。
「もう、帰っちゃいますか?」
 彼女の方から聞かれると、妙にどきっとする。
「星名さんさえよければ、もう少し一緒にいましょうか」
「私は構いません。何だか、名残惜しいですよね」
 その言葉は本音だろうか。いや、疑うつもりなんてないんだが、彼女に言われるとすごく嬉しいにもかかわらず、その真意を知りたくなる。社交辞令でないことを確かめておきたくなる。
「今日、俺、車で来てるんです。よかったら……」
 俺が切り出そうとした時、星名さんもまた口を開いた。
「課長。よかったら、私の部屋にいらっしゃいませんか」
 そうして俺の申し出を完全に遮ってしまう。
「前回はせっかく送ると言ってくださったのに、断ってしまいましたから。今日は部屋まで送っていただいて、そして私の部屋でお茶でもどうかな、なんて。ご迷惑でなければですけど」
 彼女はそんな誘いを実にためらわず、何でもない調子で口にしてくる。
 もちろん迷惑なんてことはあるはずもないし、俺に断る理由もない。ここで遠慮なんてするのは愚の骨頂、チャンスをみすみす逃すようなものだろう。迷うことだってない、絶対に行くべきだ。
「じゃあ、お邪魔させてください」
 今回は割と落ち着いて答えられたと思う。星名さんも笑っていなかったし、むしろほっとした様子で胸を撫で下ろしていた。

 彼女は俺に期待を持たせるのが上手い人だ。
 俺はその通りに、素直に期待していてもいいのだろうか。するなという方が無理な状況だから、結局そのまま期待してしまうのだが。
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