Tiny garden

脊髄反射できみが好き(3)

 そういうわけでいつの間にか、星名さんが俺の車の助手席にいる。
「……あ、次の通りを左に曲がってください」
「あれですね」
「そうです。……この辺道が狭くて、わかりにくくてごめんなさい」
 こちらを向いて詫びてくる彼女が、随分近くにいるように感じられる。
 運転に集中しなくちゃいけないのがもったいなく思えるほどだ。もっとも彼女を乗せているんだから、安全運転をいつも以上に心がけなくてはならない。浮かれてる場合ではないのだ。
 しかし、星名さんが俺の車にいる。
 その上これから俺たちは、彼女の部屋へ行こうとしている。
 こんな時がやってくるなんて、去年の俺には想像もできなかっただろう。むしろ今でもあまり実感が湧かない。大丈夫だろうか、俺。
「課長の運転してる横顔、格好いいですね」
 星名さんはそんな俺に容赦なく追い討ちをかけてくる。半分冗談みたいな軽い調子ではあったが、それでも心臓は大ダメージを受けた。
「そ……れほどでもないですよ。無闇に誉めないでください」
 とりあえず無難に答えたが、照れと動揺をどこまで隠しきれたかわからない。
「それほどでもありますよ。助手席に乗せていただけて、得した気分です」
 そう語る彼女は車に乗る直前、助手席を勧めた俺に遠慮を見せた。私が乗ったら失礼じゃありませんか、などと言い出して。でも『他に乗せる相手なんていませんから』と俺が言い添え、それでようやく了承してくれた次第だ。そもそも助手席に乗せる相手がいたらこんなふうに誘ったりはしないだろうに、わかっているのかいないのか。
 むしろ俺はずっと、星名さんを愛車の助手席に乗せる日が来ればいい、と思っていたのに。
 赤信号で停まった隙に、助手席をこっそり横目で窺う。星名さんの横顔は当然ながら、映画館で眺めていた時よりも自然な肌色をしていた。頬の血色もよく、ほんのり差した赤みが彼女を可愛らしく見せていた。
「着いたら飲み物を入れますね。コーヒーと紅茶なら、どっちがいいですか?」
 到着する前からそんな質問をぶつけてくる星名さんに、今のところ緊張しているそぶりはないように思う。少なくとも俺よりはずっと平然としている。
 しかし性急にも思えるその問いに、あるいは彼女の頬の赤さに、俺の心もいくらか救われた。
 もしかしたら彼女も、少しは浮ついた気持ちでいてくれているのかもしれない。

 彼女の部屋は、やや雑然とした住宅街の一角にあった。
 ここです、と示された二階建てのアパートは年季の入った造りだったが、外壁や階段の手すりなどはきれいで手入れが行き届いているように見えた。アパート前の駐車場に車を停め、彼女と一緒に車を降りる。
「私の部屋、二階なんです。案内しますね」
 星名さんが先に立ち、階段を上がり始めた。ブーツの底が金属製の階段をこつこつと叩き、リズミカルな足音が辺り一帯に響く。俺もその後を追いながら、先に上っていく星名さんの後ろ姿を眺めた。トレンチコートを着た小さい背中で、奔放に毛先の跳ねた束ね髪が揺れていた。
 アパートの二階には三部屋あるようで、一番奥のドアの前で彼女は足を止めた。コートのポケットから鍵を取り出し開けた後、ドアを大きく開け放って俺を促す。
「どうぞ、お入りください。散らかってますけど」
「お邪魔します」
 俺は頭を下げ、玄関から室内へと上がった。
 部屋を見ればその人となりがわかるものだと言うが、彼女の部屋もまさにそんなふうだった。
 1LKと思しき室内のうち、リビングはとてもきれいに整頓されており、また女性らしい家具が揃っていた。生成りの色をしたリネンのソファーにはピンクの四角いクッションが並んでいたし、テレビボードには可愛いガラスの一輪挿しや小さなサボテンの鉢植え、こっくりした色合いの空き瓶や陶器のオルゴールなんかが飾られている。ローテーブルはくるんとした猫脚の可愛らしいデザインで、卓上には何かのキャラクターが描かれたクッキー缶が置いてある。奥の部屋へ続くドアも開けられていたが、さすがに覗くのはマナー違反だろうとあえて見ないようにしていた。
 それよりも俺の目を何より引いたのは、リビングの壁面に飾られたコルクボードと、そこにびっしりと貼られた写真だった。興味を引かれて近づくと、後から入ってきた星名さんが言った。
「それ、旅先の写真なんです。いつも撮って、残しておくようにしていて」
「へえ……。前回のだけではないんですね」
 写真は風景を写したものか、あるいは旅先での食事やちょっとした小物などを写したものばかりで、人の姿はほとんどない。星名さん自身のプライベート写真があるのでは、と考えていた俺は少しがっかりしたが、すぐに風景写真の多彩さに気を取られてしまった。
「本当にいろんなとこに行ってるんですね、星名さん」
 兼六園、伏見稲荷、姫路城に厳島神社――日本全国、あちらこちらの名だたる観光名所の写真が所狭しと並んでいるのは壮観だった。俺があんまりしげしげ眺めていたせいだろうか、隣に立つ星名さんはちょっと恥ずかしそうだ。
「全部一人旅で、お恥ずかしいんですけど」
「そうですか? 一人でどこでも行けるのって格好いいと思いますよ」
 俺は率直な感想を述べた。
 すると彼女は唇だけで軽く笑んでから、ふと思い立ったようにコルクボードへ手を伸ばした。細い指先で写真を留めていたピンを外し、一枚の写真を俺に手渡してくる。
「課長、この場所はどこだかご存知ですか?」
 その写真には驚くほど透き通った水を湛えた湖が写っていた。真っ青な湖面に空や空に浮かぶ雲、湖を囲む背の低い山々がはっきりと写り込んでいて、まるで鏡面みたいだと思う。ぽっかり空いた場所に水を溜めたような特徴からして、きっとカルデラ湖だろう。
 ただ場所に心当たりはなかった。行ったこともない。
「すみません、ちょっと存じなくて。どこなんですか?」
 考えてみてもわからなかったので、俺は尋ねた。
「摩周湖です。行ったことあります?」
「いいえ。星名さんは、やはり一人旅で?」
「そうです」
 星名さんは答えてから、いたずらっぽい目つきをする。
「ここっていつもは霧がかかっていて、こんなにきれいな風景が見られるのは珍しいんですって。だからこんなふうに晴れ渡った日の湖が見られたら、お嫁に行けなくなるって言われてるんだとか」
 そういえば霧の摩周湖、なんて歌もあったように思う。歌になるくらいだから確かに霧の多いところなのだろう。
 さておき、彼女は冗談のつもりで言ったのだろうが、俺はあまり笑えなかった。むしろ切実な気持ちで応じた。
「そういうの、どこの観光地にでもありますよ。迷信です」
 別の場所でも似たような話を聞いたことがあったような気がする。そもそも俺はそういうジンクス的なものをさほど信じない方だから、聞いたところで覚えてもいなかった。女の子はそういう話を好む場合も多いようだが、星名さんもそうなのだろうか。
「だといいんですけど」
 星名さんは美しい湖の写真をコルクボードへ戻し、しっかりとピンで留めた。それから伏し目がちに、呟くように続ける。
「でも、私はそれでもいいかなって思ってたんです。こんなにきれいな景色が見られるなら、他に何も手に入らなくたって……」
 そこで言葉を止めて、彼女は気まずそうに首を竦めた。
「すみません、飲み物を用意する約束でしたよね。今持ってきますから、どうぞお座りになってください」
「あ、どうぞお気遣いなく」
 俺がかぶりを振ると、星名さんも振り返してきた。
「大した手間ではありませんから。あ、コートもお預かりします」
 そしてまだコートを着込んだままの俺の肩に、さりげなく触れてくる。俺は恐縮しながらコートを脱ぎ、彼女に手渡したが、内心ではいろんな気持ちが渦巻いて非常に忙しない思いをしていた。
 俺は今、星名さんの部屋にいる。好きな人の部屋に招かれている。

 彼女の部屋は、あのお土産の匂い袋に少し似た匂いがした。穏やかで柔らかい、でも心なしかほんのり甘いような木の香りだった。
 今はそこに温かい紅茶の香りが加わって、昼下がりらしい緩やかな時間が流れている。
 二人分のティーカップをテーブルに並べた後、星名さんはクッキーの缶を開け、お茶菓子にどうぞと振る舞ってくれた。昼食を食べてきた後なのでそれほどお腹は空いていなかったが、せっかくなのでいくつかいただいた。香ばしい木の実のクッキーは歯応えがよく、その分硬めだった。
 硬いクッキーのせいか、昼下がりのまったりした空気のせいか、はたまた俺が抱いている緊張感のせいか。紅茶が入ってからというもの、俺たちはあまり会話をしなかった。全く言葉を交わさなかったわけではないが、どうも話が弾まない。ソファーに並んで座っていると距離が近すぎて、目のやり場にすら困る有様だった。
「急にお招きしちゃってすみません」
 星名さんがなぜか頭を下げてくる。
「いえ、そんな。呼んでもらえて嬉しかったですよ」
 俺はそう答えてはみたものの、ちょっと正直すぎたかなとすぐに思った。
 では何と言うべきかを考えるうちについ黙り込んでしまい、星名さんも同じように何か考え事を始めて、リビングは妙な静寂に包まれる。身じろぎをするとソファーが軋み、その音さえ何だか気まずい。
 思えばずっと、俺にとっての星名さんはこんなふうに、会話の弾まない人だった。
 異動してきてからずっとだ。他の、課内にいるもっと若い女の子たちとはいくらでも話ができたのに、彼女とだけはどうしても上手く話せなかった。何を話しても上滑りしていくような、本当に額面でしか受け取ってもらえていないような、そんな感覚に囚われていた。もっとちゃんと話したいと思っていた、ずっと。
 それが今はこうして、部屋まで招かれるようになっている。
 正直、ここに辿り着くまでの俺は空回りもしたし、随分と悪手も打ったように思う。と言うよりどうしてこんなふうになれたのか自分でもよくわからない。なぜ星名さんは俺を許してくれたばかりか、部屋に呼ぶほど信頼してくれているのだろう。俺の所業、そして気持ちは既に、彼女に伝えてあるというのに。
 そうだ。俺はもう、彼女に想いを伝えていた。それなのにこうして部屋へ招いてくれたということは――。
 ちらりと彼女に目を向けてみる。俺の視線を察知してか、ティーカップを両手で持つ星名さんもこっちを見た。目が合うなり柔らかく微笑みかけられ、心臓が早鐘を打つ。
 俺は本当に、この人が好きなんだと思う。
 彼女の優しさも、とっつきにくさも、真面目さも、近づくごとに実感しつつある掴みどころのなさも全部。彼女の全てを知っているわけじゃない。でも今知っているところは全てが好きだ。もっと近づきたい、そう思う。
「どうして、部屋に呼んでくださったんですか」
 意を決して、俺は核心に触れてみた。
 星名さんはティーカップをテーブルの上に置き、そのまま両手を自分の膝の上に置く。小首を傾げて俺を見て、口紅の落ちた薔薇色の唇を開いた。
「その方がちゃんとお話ができるかと思って、です」
「お話というのは……」
「……ごめんなさい。今のは全部じゃなくて、理由の半分くらいです」
 更に追及しようとする俺を遮って彼女は詫びた。
 そして、軽く息をつく。
「残りの半分は、そうすべきじゃないかと思ったからです」
 口調はさらりとしていたが、妙に強い意思の感じられる言葉だった。俺は違和感を抱いた。
「そうすべきって、どういう意味ですか」
 笑いながら聞き返す。
 と、星名さんもちょっと笑った。
「だって、課長からは好きだって言っていただきました」
 笑った顔で、軽い口調で、割とずばりと核心を突いてきた。ソファーが軋む音を立て、俺は思わず息を呑む。
「それなら私も、ちゃんと意思表示しておかなくちゃいけないと思ったんです」
 星名さんはそう言って、俺を強い眼差しで見つめてくる。
 微かな光が揺れている彼女の瞳は、どう見ても好きな人を見つめる目つきではなかった。でも非難するようでもなかったし、ただただ熱心に、興味深げに眺めているようだと俺には思えた。
「じゃあ、聞かせてください」
 俺が恐る恐る促すと、星名さんは頷き、薔薇色の唇を開く。
「キスしましょうか、課長」
 聞き間違いかと、その時俺はまず思った。
 だが星名さんが微笑んでいるから、そうではないのだろうとすぐに思い直す。にしても何を言い出すのかとぎょっとした。動揺が顔に出ていなければいいのだが。
「……いいんですか?」
 俺は聞き返してから、もうちょっとましな返答があるだろうと我ながら呆れた。
 そりゃこんな申し出、すぐにでも飛びつきたくなるのは当たり前だろうが、彼女は俺の反応を確かめたいと思っているのかもしれないし、ここで紳士的な振る舞いができないのはまずいだろう。今更だが、がっついてる奴だとは思われたくない。本当に今更だが。
 ところが星名さんはそこで、ためらいがちに続けた。
「ほっぺたなら、いいですよ」
 ――何だ、そういうことか。
 俺は拍子抜けしたのを悟られないようにしたかったが、無理だったみたいだ。
「課長、がっかりしてくれました?」
 彼女に素早く指摘され、もはや慌てる気にも、誤魔化す気にもなれない。
「まあ、多少は。しょうがないでしょう」
「ごめんなさい。私も本当に、こういうの久し振りだから……」
 星名さんはそう言って、じっと眼差しで訴えかけてくる。瞬きをする度、なめらかで白い瞼が露わになるのが気になって仕方がない。
「唇にでもいいかなって、最初は考えてたんです。でもいざとなると緊張しちゃって……だから今日のところは、ほっぺたじゃ駄目ですか?」
 今の彼女の発言は、どこまでが本当なんだろう。少なくとも俺よりは緊張しているように見えないのに、そんなふうに言われるとさすがに惜しい気分にもなる。だが同時に、彼女が一度でも唇を許してくれようとしたことにもわずかな疑問を抱いた。
 どうして星名さんは、唇でもいいと一旦は思ってくれたのか。
 その理由がわかれば、もう一度、今度は心変わりすることなく同じように思ってもらうこともできるかもしれない。
「駄目じゃないです」
 しかし今日のところは、何よりも好機を逃したくなかった。
 俺は手を伸ばし、ソファーに隣り合って座る彼女の頬にまず触れた。もう片方の手は彼女の頭を抱き寄せ、一瞬だけその目を覗き込んでみる。星名さんは慎重に息をついてから、なめらかで白い瞼を伏せた。
 映画館で見たのと同じ、作り物のように美しい表情が目の前にある。
 薔薇色の唇が目の前にあって、心惹かれないはずがない。でも彼女の頼みを無視するわけにはいかないし、信頼をこれ以上失くすのもまずい。唇に触れたい欲求を抑え込み、ほんのり染まった頬にそっと顔を寄せた。ソファーが今までで一番大きな、ぎいっと軋む音を立てる。傍まで近づいた時、彼女の髪のいい匂いを感じた。
 柔らかい頬に唇を押し当てた時、星名さんはまた笑ったようだ。可愛い笑い声が聞こえて、本当に緊張してるのか、などと俺は疑問を覚える。
 でも唇を離し、彼女の頭を抱く手の力を緩めると、彼女は顔を上げずに俺の胸に寄りかかってきた。
「私……思ったより、照れちゃって……顔上げられません」
 俺はその細い肩を抱き締めておく。
 自分からキスを申し出たかと思えば、ためらったり、照れてみせたり。彼女という人はよくわからない。度胸があるのかそうでないのか、全くもって掴めない人だ。
 でも彼女からの意思表示だった、ということは間違いないし、信じてもいいだろう。
「俺は、嬉しいです」
 耳元で囁いたら、星名さんはおずおずと顔を上げた。確かに赤らんでいる顔が、それでも今は笑んでいる。
「ごめんなさい。続きは、また次の機会に」
 そう語る薔薇色の唇を目の前にして、俺はじれったさと期待を同時に抱いた。

 彼女が単に焦らしているのか、それとも純粋にためらっているのか、真相はわからない。俺にとっての星名さんはまだ知らないことの方が多い人だ。
 だが、それでも好きだ。
 彼女の部屋で細い肩を抱き締めながら、ここまで近づけたことに、俺はしみじみ幸せを感じていた。
 これからもっと近づけるだろうと、予感めいた考えも抱いていた。
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