Tiny garden

脊髄反射できみが好き(1)

 毎年、年末年始は自分の部屋で過ごすのが基本だった。
 実家が現在の居住地からやや遠方にあるせいだ。具体的に言うと新幹線と飛行機を乗り継いで半日以上かけて行くような距離だった。その為か帰省もつい疎かになりがちで、両親からは『たまには顔を見せろ』というような趣旨の電話やメールを送りつけられたりもする。
 しかしお盆休みならともかく、積雪で飛行機が着陸しないこともある冬場に、しかもあんな寒い地方へ帰りたがる者がいるだろうか。実際、飛行機が飛んだはいいが急な積雪で滑走路の除雪が追い着かず、空港の上空をうろうろした挙句に引き返した便に乗り合わせたことがあり、以来何となく、冬場の帰省はめんどいという固定観念を抱えている。
 帰らなければ帰らないで両親からは年始の挨拶代わりに電話があり、これもやはり毎年のように同じことを聞かれる。
『結婚はまだなの?』
『誰かいい人はいないの?』
 どこの親も同じ心配をするものだとは思うが、この質問に答えるのも正直、めんどい。
 俺はまだ二十九だし、社内にも俺と同期、あるいはそれ以上の年齢でも独身の人間が多くいる。そこまで焦って急かし立てるような話でもないはずだ。一人息子な以上、早く孫を抱きたいという親の期待を一身に背負う羽目になるのも致し方ないことだが、人間というものは急かされたところで望まれた通りに完璧にできるものでもない。いつか完璧な報告ができるようになるまで、ゆったり構えて待っていて欲しいものだ。
 俺だって、結婚したくないわけではない。独り身の寂しさが冬場は特に身体に堪えるし、今は好きな人だっている。だがその好きな人とは今まさに始まったばかりというところでこれからどう転ぶかもわからないし、親に何か話せるような段階でもない。だからか親との会話もどこかぼんやりした調子になった。
『彼女ができたらちゃんと紹介しなさいよ』
「はいはい、できたらな」
『仕事だって異動したばかりなんだからいろいろあるだろうし、困ったことあったら言うのよ』
「わかってるって。相談したくなったら電話するよ」
 そう言っても俺が両親に仕事の相談を持ちかけたことは一度もない。二人とも畑違いの仕事をしているので、業務内容から説明するところから始めなくてはならないのが厄介だ。それに余計なことを言えば、かえって心配をかけるのもわかっている。
 幸い、移動してきたばかりの俺には星名さんというとても優れた部下がいた。新しい職場での不慣れな点やわからないところを、いつもまめまめしく教えてくれた。あの人を部下と呼ぶのは申し訳ないくらいだと思っているが、それでも肩書きはそういうことになっているから、せめて今年は上司らしくありたいと思う。
 それからもちろん、もう少し――できればたくさん、親密になれたらとも思っている。

 その星名さんとは、年末年始の休みの間も連絡を取り合っていた。
 彼女は予定通りに温泉旅行へと出かけたようだ。四泊五日の旅行だと言っていて、旅の間中いろんなメールを画像つきで送ってくれた。
 新幹線の車窓から見た富士山やら、宿泊する旅館の古びた佇まいやら、落ち着いた和風の内装の客室やら、旅館で出された美味しそうな食事やら――こういう写真を撮り慣れているんだろうか、食事の撮り方がとてもきれいで、明るく取れていたのが印象だった。山菜の天ぷら盛り合わせや一人用の鍋、おひつに入ったご飯はどれも美味しそうで、何だか見ているだけの俺までお腹が空いてきた。
 メールの文面の方はいつも割と簡潔で、だがそれでも彼女らしさに溢れていた。
『富士山がきれいに撮れたのでお送りします』
『こちらがお世話になる旅館です。雪がうっすら積もっているのが見えますか?』
『旅館のご飯、美味しそうでしょう?』
 写真には彼女の姿はほとんど映らず、ごくたまにあの小さくて女性らしい手がちらりと映り込む程度だった。なのに文面からは、星名さんの楽しそうな笑顔が鮮明に浮かび上がってくる。
 そうやってメールを貰えたのは嬉しかったし、以前よりも親しくなれたのだと実感できて、幸せだった。
 しかし同時に、彼女の顔を見たいという欲求も募った。
 八日間の正月休みは例年なら喜んで満喫するところだが、星名さんと会えないのは辛い。早く仕事に出たいなんて嘘でも言いたくないものの、彼女と会えない休暇よりも確実に会える勤務の方がましかもしれないというようなことはしばしば考えた。会いに行こうにも彼女は旅行に出ているし、帰ってくるのは一月の三日だ。更に、会う約束をしているのは一月六日、正月休みの最終日だった。それまで俺は携帯電話が鳴るのを待つだけの味気ない正月をやり過ごさなければならない。
 思い余って俺は、旅先の彼女にこんなメールを送った。
『星名さんの顔も見たいです。できたら撮って送ってくれませんか?』
 断られる可能性も考慮して控えめに出てみたつもりだったが、彼女は快く送ってくれた。
『こんな顔でよろしければどうぞ。今ちょうど、お土産を包んでいたんですよ』
 メールに添えられた画像には、明らかに自撮りとわかる彼女の笑顔と、その横に添えられた名刺サイズの小さな箱が映っていた。箱の蓋は透明で、中に絹織物と思しき小さな巾着袋が入っている。残念ながらその柄はよくわからなかったが、旅館の客室の柔らかい照明の中、つややかな光沢を帯びていた。
 星名さんはきちんと化粧をしていて、旅先でもあのピンクベージュの口紅を塗っているようだった。お気に入りなんだろうか。髪は下ろして肩に乗せている。こうしてみると少し、毛先のほうに癖がある。屈託なく笑う顔は旅行を満喫しているのがよくわかり、微笑ましい気分にも、羨ましい気分にもなった。
『西陣織の匂い袋です。戻ったらお渡ししますね』
 彼女は俺に、次々とメールをくれた。
『たっぷり遊んだので気分も晴れました。張り切って仕事に取りかかれそうです』
 どうやらとても、楽しい旅行だったらしい。
 一人きりで旅行を楽しめるなんて、星名さんは明るくて可愛らしい人だ。
 俺ならどうだろう、と考えてみたものの、すぐに答えは出た。今の俺には一人で旅行なんて楽しめそうにない。どんな素晴らしい観光地よりも、今は一緒にいたい人がいる。俺の頭はここのところ、ずっとその人でいっぱいだった。

 一月六日、無事に帰ってきた星名さんと会うことになっていた。
 今日は前回のような騒がしい居酒屋ではなく、もっと静かで落ち着けるようなカフェを選んだ。待ち合わせ時刻も昼前にして、一緒に昼食を取ろうと約束していた。
 空模様はあいにくの薄曇りで、時折吹く空っ風が身を切るように冷たい。待ち合わせ場所の街角に立っていると、次第に耳や頬が痛くなってくる。しかし外に立つのが辛いとは思わない。何せようやく、彼女と会えるからだ。
 星名さんは約束のきっちり五分前に待ち合わせ場所へと現われた。
 そういえば彼女の私服姿を見るのは初めてで、内心とても期待していた。遠くからはまずオリーブ色のトレンチコートが見え、近づいてくるにつれ首に巻いた赤いチェックのマフラーや、ホワイトデニムのすらりとした脚が目についた。彼女はどちらかと言えば小柄な人で、だからかベルトで絞ったトレンチコートを着ていると、バレリーナみたいに見えて可愛いと思った。惚れた欲目という言葉が脳裏を過ぎったが、星名さんは元々きれいな人だから欲目ということもないだろうと自分に言い訳をしておく。
 彼女は駆け足でこちらへ近づくと、白い息を弾ませながらこう言った。
「おはようございます、課長」
 俺も笑顔で応じた。
「おはようございます。それと、今年もよろしくお願いいたします」
「あっ、こちらこそ。よろしくお願いいたします」
 お互いに頭を下げ合い、年始の挨拶を済ませる。
 その後で俺は改めて私服の星名さんを眺めた。今日も髪は後ろで束ねていて、よくよく見てみれば確かに毛先は元気よく跳ねているようだった。下ろしたところを今度は直に見てみたいと思うが、その機会を作る為にも力を尽くさなければならない。とりあえずコートを誉めようと言葉を考える俺に対し、
「今日の服装、可愛いですね」
 そんな誉め言葉を発したのは、どういうわけか星名さんの方だった。
「か……可愛い? そうですか?」
 唐突な発言に戸惑う俺を、彼女もまたじっと眺めている。
 相手の私服が気になるというのは向こうもそうだったのだろう。俺が着てきたモッズコートや細身のジーンズ、そしてブーツという割かし無難な組み合わせをつぶさに観察した後、もう一度言ってきた。
「可愛いですよ。課長は私服だと何だか若い男の子って感じです」
「え……。それって喜んでいいんでしょうか」
「もちろんです。誉めてます」
 星名さんはにっこりしてくれたが、俺は服装の選択を誤ったような気がしてならなかった。あまりめかし込んでいくのも張り切りすぎて格好悪いかと、程ほどにまとめてきたつもりだった。でも星名さんと会うなら、多少は決めてきてもよかったのかもしれない。その方が釣り合いが取れただろうか。
 俺はくすくす笑う星名さんの姿を見下ろしてから、仕返しとばかりに言ってみる。
「そう言う星名さんだって、今日はすごく可愛いです」
「えっ……そんな、私はそういう歳じゃないですよ」
 自分から言っておきながら、彼女はその誉め言葉に困惑の表情を浮かべた。だが実際、今日の星名さんは何だか可愛い。トレンチコートの女性はこれまでどちらかというと格好いい、クールなイメージだったのに、彼女が着ていると可愛いもののように映った。
「可愛いって言われるの、嫌なんですか。俺には言ったのに?」
 そう尋ねたら、星名さんは珍しく拗ねたようにピンクベージュの唇を尖らせる。
「からかわないでください。課長はいいんです、お若いんだから」
「大して違わないですよ。俺も今年には三十です」
 言い返しつつも俺は楽しくなって、つい笑ってしまった。さっきの言葉はもちろん嘘ではない。でも星名さんをからかうのも楽しいものだ。
「もう……。誉めてくださるのは嬉しいですけど」
 まだ拗ねたような彼女は、だがそれでも最後には軽い笑みを浮かべた。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。お土産も早く渡したいですし」
「そうですね。暖かいところへ行きましょう」
 空っ風の吹きつける冬の日、俺たちは連れ立って歩き出す。
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