Tiny garden

恋人強盗(2)

 ワインの代わりに注文した烏龍茶が届くと、星名さんは改めて頭を下げた。
「すみません」
「いえ、いいんですよ。謝るようなことじゃないです」
 俺はそう答えた。
 実際、残念だとは思っていたが、かと言って強く引きとめるようなことではないのもわかっている。それに『まだ見せられない』というのなら、いつかは見せてくれるつもりでいるのかもしれない。その機会を作ればいいだけの話だ。
「優しいんですね、課長」
 星名さんはそう言うと、氷を浮かべた烏龍茶を飲み始めた。口紅の落ちた唇からグラスが離れると、ふうと長く息をつく。
 いつもはピンクベージュの口紅を塗っている星名さんの唇は、その色が落ちるとやや赤みが強い薔薇色をしていた。下唇がふっくらしていてとても柔らかそうだ。本当に柔らかいことも、俺は既に知っている。
「外ではあまり飲み過ぎないようにしているんです」
 彼女は言ってから、思い出したように口元を綻ばせる。
「また寝てしまったら今度こそ、課長に愛想を尽かされそうですし」
「そんなことありませんよ」
 つい、反射的に否定してしまったが、前回のデートについて記憶を手繰れば、愛想を尽かされるべきなのはむしろ俺の方だろう。そのことに思いが至ると気まずく感じ、俺は口を閉ざして星名さんを見た。
 三つ年上の彼女もまた、黙って俺を見ている。柔らかそうな唇は微笑んでいたが、眼差しは逸らされることなく真っ直ぐだった。まるでこちらの言葉を待っているように映る。何を待たれているのかは考えるまでもないだろう。
 タイミングとしてもそろそろかもしれない。星名さんはもうお酒を飲むのをやめてしまったし、この店にもそう長居はできないだろう。勤務後のデート、そして二度目だということを考慮しても、今夜、彼女といられる時間は残りわずかだ。
 それならここで、踏み込んだ話もしておくべきだろう。
 居酒屋のざわざわした空気はいささかムードに欠ける気もしたが、変に静かすぎるよりはかえってやりやすいかもしれない。どこかのグループが上げたどっという笑い声が止んだ後、俺も残りのワインを飲み干してから、居住まいを正す。
「……俺の方こそ、よく嫌われなかったと思ってますよ」
 切り出した時、星名さんは微笑んだまま瞬きをした。
「正直、こうして会ってもらえている理由もまだ掴み切れていないくらいです。本当に、怒っていないんですか、俺のこと」
「ええ」
 そうして即座に頷いてくれた後、穏やかに話題を引き継ぐ。
「とても長いお付き合いというわけではありませんけど、課長とは一緒にお仕事をして、真面目な方だって存じていましたから。単なる気まぐれやおふざけでそういうことをしたんじゃないって、わかります」
 わかると言われると、それはそれで妙にくすぐったい。今更こんな話題でいちいち照れるほど俺も若くはないつもりだったが、向こうにこちらの好意を知られているというのも気恥ずかしいものだ。
 俺の気持ちは先日、打ち明けてしまっている。だがあれも全てではないし、俺が彼女をいつから、どれくらい想っていたかについて何もかも話してしまったら、若干引かれそうな気がしてならない。仕事でしか接したことのない、まだプライベートな側面はさほど知らない相手にこんなにも惹かれているとは、客観的に見れば妙な話なのかもしれない。
「もちろん、ふざけてあんなことをしたわけじゃありません」
 俺は控えめに主張してから、彼女の反応を確かめるべく続けた。
「でも星名さんの許可もなく、というのはあれきりにします。それこそ二度目はないってわかってますから」
「どうでしょうね」
 彼女がくすくす笑う。
 こんな会話の時にまで楽しそうにしてくれなくてもいいのに。そりゃ嫌な顔をされるよりはずっといいものの、何だか余裕の差を感じるようで悔しい。
「その代わり、次こそ許可をいただきたいのですが……」
 やり返すつもりで続けた言葉に、星名さんはすぐさま応じた。
「今夜ですか?」
「えっ?」
 つい聞き返してから、しまったと思う。そこはまさに余裕を持って『そうです』とでも答えておけばよかったはずだ。なのにとっさにうろたえてしまい、それが態度にはっきり出たせいか、星名さんはまた笑った。
 でも、まさか、そんなふうに返されるとは。
 動悸が激しくなるのを抑え込む為に、俺は一呼吸置いた。それから笑う星名さんを軽く睨む。
「か……からかわないでください。本気にしますよ」
「ごめんなさい。からかったわけじゃないんですけど、確かめておきたくて」
 星名さんは幼い女の子みたいに身体を揺らし、朗らかな笑い声を立てた。
 俺はますます悔しくなる。年上の女性とは言えたった三つしか違わないはずなのに、この余裕の差は何だ。
「だけど、二度目のデートじゃ少し早いかもしれませんね」
 おまけに星名さんからは釘を刺されてしまった。
「今夜じゃなければ、前向きに考えておきます」
 そんなふうに言われて、もちろん期待したい気持ちもなくはなかったが――それ以上に好機を逃したような気がしてならず、猛烈な後悔にも襲われた。

 気がつくと、時刻は午後七時を回っていた。
 俺はもう一杯だけ飲み物を頼み、それから二人で注文したいくつかの皿を片づけ始める。そろそろお開きだという空気が漂う中、名残惜しさから俺は彼女に尋ねた。
「また、会ってもらえますか」
 その話題はもう少し後でもいいような気がしたが、俺は先のささやかな失敗を割と引きずっていたし、何より確約が欲しかった。
 今夜彼女を誘ったのも、俺たちの間に横たわる曖昧な空気をもう少し確かな、掴み取りやすいものにしたいと思ってのことだ。何だかよくわからないまま年を越したくはなかった。
「ええ、もちろん」
 星名さんは頷いたが、直後ふと表情を曇らせた。どこか申し訳なさそうに語を継ぐ。
「でも……一つだけ、お話ししておきたいことがあるんです」
「何でしょう」
 重い話だろうか。身構える俺に、星名さんは慌てて両手を振る。
「あ、いえいえ、そんなに重大な話ではないんです。さっきお話ししていましたよね、私、旅行が好きなんです」
 確かに聞いていた。この年末年始も一人旅をして、旅先で年越しを迎えるという星名さんの話を。
「でもその旅行、昔は友人たちと大勢で行っていたんです。これも、言いましたね」
「伺いました」
「私は課長もご存知の通り、今の今まで独身です」
 星名さんはそう口にした時、はにかむような表情を見せた。ほんのり赤い頬に片手を添え、どこかへ思いを馳せるように語る。
「だけど友人たちはそうではなくて……年齢的にも当然のことなのかもしれませんけど、皆結婚して旦那さんがいたり、そうではなくてもお付き合いしている人がいたりとかで、だんだん友達付き合いに割く時間がなくなったりして」
 それはどこにでもありそうな話だ。
 俺も学生時代の友人たちとは次第に疎遠になりつつある。特に家庭を持った相手とは連絡を取り合えてても、休日に時間を合わせて会うのが難しくなってきた。向こうだって家族にも時間を割きたいだろうし、その結果友人の為に使う時間がなくなるのもしょうがないことだろう。
 そういうのが続くと、俺も結婚したいな……などと思ったりする。友人たちが家庭を築き、大切な人とより多くの時間を過ごしているのが、とても幸せなことのように感じられてならない。要は一人でいるのが寂しいってことだが、今は冬だから尚更そう思う。
 星名さんとは、そんな関係になれるだろうか。
「友人たちはそれでも、一緒に出かけようって言ってくれたりもしたんですけど」
 彼女は俺の思惑も知らず、ぽつぽつと語り続ける。
「そうなると、むしろ旦那さんとかに悪い気がして。私が誰かの大切な人を奪い取っているような気になってきて、私の方から誘うのはやめるようにしたんです。そしたらやっぱり、皆とは出かけなくなっちゃいました」
 意外にもそう話す彼女の表情は暗くなく、寂しげでもなかった。むしろ伏し目がちにしながら、誰かの幸せを祈っているような、願っているような、優しい顔つきに見えた。
 だからこそ、『奪い取る』という形容はどこか強すぎるようにも思えた。
 彼女は友人たちとの経緯を簡単に語っているが、本当はもう少し何か、あったのかもしれない。
 だとしてもそれは、今の俺が詮索すべき内容ではないだろう。
「それからはもうずっと、どこへ行くにも一人だったんです」
 そこで彼女は視線を上げ、俺へ向かって目を細める。薔薇色の唇がすっと笑みの形を作ると、普段よりも妙に艶っぽく見えて、どぎまぎしてしまう。
「もうかれこれ五年くらいでしょうか。旅行と言えば一人旅で、私は一人でも十分楽しめる人間ですからよかったんですけど、代わりにすっかり一人でいるのに慣れてしまって」
 年越しを旅先で過ごすというくらいだから、その言葉は真実なのだろう。
 だが考えようによっては、そんな星名さんはとても手強い相手だと言わざるを得ない。
「俺といても楽しいと思ってもらえるよう、努力しますよ」
 こちらから打って出ると、間髪入れずに彼女は顎を引く。
「十分、楽しいですよ。課長といると、誰かと過ごすのもいいなって久々に思えました」
「それなら嬉しいです」
「ええ。でも逆に、課長が私といて楽しめるかどうか、ちょっと心配なんです」
「俺も楽しいですよ!」
 とっさに言い返した声が強すぎたのか、星名さんは軽く目を見開いた。俺は慌てて言い添える。
「いえ、本当に、星名さんといるのが何だか信じられないくらいで……」
「ありがとうございます、課長」
 折り目正しくお辞儀をしてから、彼女が穏やかに続ける。
「私、一人の時間が長かったから、誰かと一緒に過ごすことにまだ慣れてないって言うか……むしろ忘れているんでしょうね。だからもしかしたら、課長にはそういう点でご迷惑をおかけするかもしれませんが」
 更にもう一度、頭を下げられた。
「そんな私でもよろしければ、また誘ってください」
「はい。近いうちにまた機会を作らせてください」
 俺は即答した。答えなら決まりきっている。
 だが星名さんの今の言葉に、この恋が一筋縄ではいかないものになるかもしれない、という予感も抱いていた。
 一人でいるのを楽しいと思う人に、二人でいるのもまた、それ以上に楽しいと思わせるのは、さぞかし大変な道のりとなることだろう。
 それならいつかは言わせてみたい。俺といるのが何よりも、一人きりよりずっと楽しいと、彼女に――年の瀬のざわめく居酒屋で、ほろ酔い気分の俺は改めて決意した。

 店を後にしたのは午後七時半過ぎだった。空はもう真っ暗で、吐息が呼吸の度に白く浮かび上がり、空の方へと消えていく。
「ご迷惑でなければ、送っていきますよ」
 俺はそう申し出たが、星名さんは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「迷惑ではないんですけど……私はバスですし、今日のところはお気持ちだけで十分です」
「……そうですか」
 下心があると思われたのだろうか。もちろんゼロだったとは言わないが、今夜はどちらかと言えば親切心と、もう少しだけ話したいという気持ちの方が強かった。だから断られたことは残念に思ったものの、食い下がるのもよくないだろう。
「次は是非、送ってください。私も大掃除をしておきますから」
 星名さんはフォローするようにそう言った。俺がその言葉の意味を考えるより早く、うきうきと踵を返す。
「今日はありがとうございました。課長、よいお年を」
「あ……はい。星名さんも、よいお年をお過ごしください」
 そうして俺は彼女の後ろ姿を見送り、星名さんが通りの先にあるバス停前で立ち止まったのを確かめてから歩き出す。
 歩きながら改めて、彼女の言ったことについて考える。
 それは、つまり、次は期待してもいいということだろうか。
 星名さんは、二度目のデートでは早すぎると言っていた。では、三度目ならどうだろう。
 期待と不安と、今夜のデートについての反省点を心の中で唱えつつ、徒歩三十分の距離にある自分の部屋まで歩いた。冬の夜道は静かでしんと冷えていて、考え事をするには最適だった。空にはいくつもの星が滲むように光り輝いていて、あの人の名前をふと思い出す。
 と、その時、携帯電話が鳴った。居酒屋で星名さんと私用のメールアドレスを交換していて、どうやら試しに送ってくれていたようだ。俺は道端で立ち止まり、今日のお礼が書いてあるのだろうと思いながらメールを開く。
 件名は『伺うのを忘れていたのですが』とあった。画面をスクロールして内容を眺めると、こう続いていた。
『課長の年末年始のご予定も教えてください。仕事始めの日にお渡ししてもいいのですが、他の人と違うものを買ってきたことがばれると、恥ずかしいので……』
 正直に言おう。
 このメールを見た瞬間、俺は笑ってしまった。
 正確には笑ったというより、にやついただけだった。口元が緩んでどうしようもなくなった。好きな人から特別扱いされて嬉しくない人間がいるだろうか。ましてそれが次の機会に繋がる内容だとすれば、一層だろう。
 彼女に踊らされている自覚もなくはない。
 だが恋の始まりだって自覚している。こんな時に浮かれずにいるのはもったいない。少なくともこのメールのおかげで俺は、いい気分で年を越せそうだと思う。

 来年はもっと幸せになれたらいい。
 もちろん一人きりではなく、あの人と二人でだ。
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