Tiny garden

恋人強盗(1)

 鉄は熱いうちに打てという言葉がある。
 星名さんから『是非誘ってください』という発言を引き出した以上、こちらにためらう理由はない。俺はなるべく早く機会を作ろうと考えていた。
 実のところ、彼女がそう言ってくれた理由がよくわからなかったりする。
 どうして星名さんは俺の狼藉を許してくれたのか。
 どうして俺に、次のチャンスを与えてくれたのか。
 それが好意――つまり俺が彼女に対して抱いている感情と同じものから来ているとは思えない。どう考えても自惚れられるほどの状況ではない。ただ、俺の告白を聞いた彼女はどこか楽しそうにしていて、その態度が俺に大きな期待と、少しばかりの焦燥を抱かせた。
 俺はまだ、星名さんという人を知らない。よく知らないうちから好きになっていた。
 果たしてこれから、彼女についてどれほど知ることができるだろうか。

 十二月はクリスマスが過ぎてしまえば、残りはほんの数日間しかない。
 慌しい時期で、デートに誘うには不適当だと思ったが、俺はどうしてもこの件を正月休みを跨いでまで引きずりたくなかった。年を越してしまう前に片づけておきたかった。
 だから星名さんには、もしご負担でなければと念入りに前置きした上で誘いをかけた。「仕事納めの日、納会の後で、よかったら少し飲みませんか」
 彼女は誘われるのを予期していたみたいに、実に自然に頷いた。
「いいですよ。お付き合いします」
 もしかしたら彼女の方も、この件を曖昧なまま来年へ持ち越したくないと思っていたのかもしれない。快い返事を貰えて、俺もほっとした。

 今回は事前に下調べをして、年末でも営業している店を探した。納会では多少のアルコールも出るから、会社から歩いていける範囲内で探し当てるのも重要だ。無事見つけたらきちんと予約も入れておく。さすがに二度目のデートでも寝られてしまうのは悔しいから、少し賑やかそうな居酒屋をチョイスしてみた。
 納会の後、星名さんとは会社近くのコンビニで落ち合った。そのまま目的の店へと連れ立って歩く。途中では軽い会話を少しした。主に経理課や業務内容についての話だった。
「今年の業務もこれで終わりですね。お疲れ様です」
「課長こそ、お疲れ様です。大きなトラブルもなく終われてよかったですね」
「そうですね。星名さんにも随分助けていただきましたし」
「いえ、私は当然の事をしたまでです」
 当たり障りのない会話はさほど弾まなかった。
 ただ、歩きながらふと沈黙が落ちた時、星名さんはこちらを向いてそっと微笑みかけてくれた。それだけで彼女がこの時間を楽しみにしてくれていることがわかり、いくらか気が楽になる。
 午後五時を過ぎた居酒屋はそれなりに客が入っていて、がやがやと賑々しかった。納会からそのまま流れてきたようなスーツ姿のグループも何組か見かけた。きっと俺たちもそう見られているはずだ。コートを脱ぎ、テーブルを挟んだ向かい側に座る星名さんもネイビーのスーツ姿だった。
 ここまで寒い中を歩いてきたからだろう。暖かい店内で星名さんの頬はほんのり赤くなっていた。仕事の後だからか後ろでまとめた髪が解れかけていて、スーツ姿とは正反対の色気を漂わせている。
 彼女は俺の視線に気づいたか、咎めるように微笑んだ。
「そんなに見ないでください」
「あ……すみません」
 慌てて詫びると、星名さんは尚もくすくす笑う。
 気分を害した様子はなく、例によって楽しそうだ。勤務中のてきぱきした態度とはまた違う雰囲気に見える。職場でずっと感じていた近寄りがたさ、話しにくそうな印象が雲散したような気もした。
「嫌なわけじゃないんです。ただ、私まで緊張してしまうかも」
 星名さんはフォローするように言ってくれたが、よくよく考えればそれは俺が緊張していると受け取られているということでもある。
「俺は別に緊張なんて……」
 すぐに反論すれば、彼女は小首を傾げた。
「してませんか?」
「……ちょっとは、してますが」
 見栄を張っても仕方がない。俺は結局、素直に認め、星名さんからはまたしてもくすくす笑いを頂戴した。
 だが、緊張はしてしかるべきだろう。もちろんずっと好意を持っていた、意中の相手とのデートだというのもあるが――俺には狼藉を働いた過去があり、あまつさえそれを本人に打ち明けてしまっている。彼女はそれを許してくれたが、だからと言って過去が消えてしまうということもなく、未だに俺たちの間にはっきりと横たわっている。
 星名さんは俺の好意を知っていて、俺が何をしでかしたかも知っていて、その上でこうして二人で会ってくれているのだ。それが何を意味するか、少しくらいは前向きに期待を抱いていてもいいはずだった。

 乾杯用に二人でスパークリングワインを注文した。納会では申し訳程度ながらもビールが出されていたので、違うものにしようと意見が一致したからだ。
「では……仕事納め、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
 早々に乾杯を終えた後、俺たちは改めて向き合い、ゆっくりと酒を飲み始める。
 星名さんは経理課の飲み会でもあまり量を飲む方ではなく、ビールとカクテルを一杯ずつ嗜む程度だった。そのせいか俺はまだ酔っ払った彼女を見たことがない。酔わない人なのかもしれないし、そういう隙を他人には見せない人なのかもしれない。どちらにせよいつか、今夜ではなくても、拝んでみたいものだと思う。
「年末の忙しい時期にお誘いして、迷惑じゃありませんでしたか」
 飲みながら俺は尋ねた。誘う前にも散々聞いたことではあるが、一度は触れておくのが礼儀だろう。
 当然、彼女も即座にかぶりを振った。
「お気になさらないでください。一人暮らしの年越しなんて気楽なものです」
 年越しという言い方が何となく新鮮だった。若い子との会話では出てこない単語のように思う。
「何か、年越しらしいことをするんですか?」
 更に突っ込んで尋ねると、今度はもっともらしく頷かれた。
「明日から大掃除をします。こればかりは年内に済ませてしまわないと」
 正直、耳の痛い言葉だった。
「そうですね。俺も、気合入れてやらないとな……」
 繁忙期のおかげで荒れ放題の我が城を省みて、俺は思わず呟く。途端に星名さんには興味深そうな顔をされた。
「でも、課長はお部屋をきれいにされてる方でしょう? お仕事だってとても真面目ですし、お家でもそうだろうって私は思っていましたけど」
 買い被られているのか、それとも探りを入れられているのだろうか。俺が言葉に詰まったのを見て、星名さんはまた笑う。
「そんなに気まずそうな顔しなくても。大丈夫ですよ、その為の大掃除ですから」
「確かにそうですけど。普段からもっとやっておくべきだったって、今、思ってるところです」
 俺は嘘もなく応じたものの、笑われっぱなしなのは少々悔しかった。こちらからも探りを入れてやろうと思い立ち、切り出してみる。
「じゃあ、この大掃除で見違えるほどきれいにしておきますよ。いつ星名さんを招く機会がやってきてもいいように」
 すると彼女は表情を変えず、考える間も置かずに答えた。
「ええ。是非拝見したいですから、その時はどうぞ呼んでくださいね、課長」
 ……これは、どういう反応と見ればいいんだろう。
 意味をわかっていないだけか、あるいはわかった上で軽くかわしてみたのか、それとも――何にせよ拒絶されたわけではない。もう少し踏み込んで、いろんな話を聞き出してみてもいいかもしれない。
 アルコールが回り始めた頭は鈍ることなく、むしろ急くように策を練り始めている。
 頼んだ食事類もぽつぽつと運ばれてきて、ここへ来る時とは打って変わって会話も弾み始めた。
「年末年始は、大掃除の他にご予定あるんですか」
 プライベートな質問に及んでも、星名さんは快く答えてくれる。
「はい。ちょっと遠出をするつもりでいるんです」
「遠出……帰省ですか?」
「いえ、違います。ただの旅行なんです」
 二杯目のワインを伏し目がちに飲み、グラスを置いてから彼女は俺を見て、はにかむように笑った。
「温泉旅行に行く予定で……あの、地味な年越しでお恥ずかしいんですけど」
「そんなことないですよ。むしろ楽しそうで素敵です」
 俺は旅先で年末年始を迎えたことはあまりない。あってもせいぜい田舎の祖父の家程度で、年が明けてすぐお年玉を貰うのが楽しみだった。子供の頃の記憶なんて現金なもので、そういう事柄ばかり覚えている。
 だから星名さんが旅先で年を越す予定だと言ったのは、何だかいいもののように思えた。離れた土地で聴く除夜の鐘はどんなふうに響くのだろう。ありふれた年明けも、自分の部屋でくつろいで迎えるのとはまた違ったよさがあるはずだった。旅館やホテルなら大掃除の必要もなく、きれいだろうし。
 ただ、その年越し旅行の魅力はさておくとしてだ。こういうのはやはり気になってしまう。細かいことながら。
 つまり星名さんはその旅行に、一体誰と行くのかという点について。
「旅行、お友達と行かれるんですか?」
 俺の問いは自分で思ったより捻りがなく、ダイレクトだった。
 おかげで星名さんは軽く吹き出し、俺はあたふたと弁解する羽目になる。
「す、すみません。でも気になるんです。やっぱり、誰と行くのかっていう点は」
 鈍っていないと思っていたが、俺は大分酔い始めているのかもしれない。浮かれている場合じゃないと気を引き締め、ついでに表情も引き締めて訴えておく。
「差し支えなければ教えてくれませんか、俺の気持ちを救う意味でも」
「いいですよ。気にしてくださってありがとうございます」
 彼女は笑いを抑え込むように咳払いをした。それからまたワインを、こくんと一口だけ飲む。
 飲むペースはかなり遅い。頬がほんのり赤いのは入店した時からそうで、だから酔っているのかどうか、よくわからない。
 次に続いた言葉は酔いを感じさせないほどはっきりしていた。
「実は、一人旅なんです」
「……へえ」
 意外だ、と思った。
 何が意外なのかは自分でもよくわからなかったが、それは星名さんだからというより、星名さんくらいの女性が一人旅をするという点をそう感じたのかもしれない。
「好きなんです、旅行。だからよく、一人であちこち行くんです」
 彼女はそう言ってから、なぜか急に笑みを消した。気遣わしげに俺を見る。
「あの、引きませんか?」
「え? いえ、全然そんなことないですよ」
 意外だとは思ったものの、まさか引くはずがない。それどころか星名さんの行動的な一面を知られて嬉しかった。旅行が好きだというのも有益な情報だろう。
「よかった。たまに笑う人がいるから……」
 星名さんは胸を撫で下ろしていた。
「うちの両親なんて、未だに感心しないみたいなこと言うんです。私、もう三十過ぎなのに、危険だから一人で出かけるんじゃないって……ちょっと過保護ですよね」
 愚痴っぽく語ってはいたが、彼女の口調は温かさに溢れていた。そういう心配も迷惑がっているのではなく、むしろありがたいと思っているのだろう。その上で一人旅を楽しんでいるというのだから、彼女の旅好きは筋金入りなのかもしれない。
「昔は、そうでもなかったんですけどね」
 ふと、星名さんの口からそんな呟きが零れ落ちた。
 俺がその意味を掴みかねて瞬きをすると、星名さんもすぐに気まずそうにする。取り繕うように明るく言った。
「昔は旅行と言えば、いつも友達が一緒だったんです」
 その後で可愛らしくにこっとして、
「あ、もちろん女の子のですよ」
 と言い添えてくれる。
 個人的にはその言葉自体より、そう言ってくれた彼女の気遣いの方が嬉しかった。ついにやつきそうになる口元を誤魔化す為、俺もワインをもう一口飲む。
 星名さんもまたグラスを傾ける。もうすぐ空になりそうだ。
「飲み物、何か頼みましょうか」
 俺が声をかけると、彼女は一瞬ためらってから、
「私、この後はソフトドリンクにしてもいいですか?」
「構いませんけど……もうお酒はおしまいですか?」
「はい。まだ二度目のデートなのに、お酒で失敗したくないですし」
 ほんのり赤い頬を緩める彼女を見て、俺は不謹慎ながらも複雑な思いに囚われる。
 失敗した星名さんも、ちょっと見てみたいのに。そもそも一度目のデートでは思いっきり隣で寝られてしまったし、今更という感じでもある。
 その思いは顔に出ていたのだろう。彼女がまた、笑った。
「駄目ですってば。まだお見せできません」
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