Tiny garden

小さな手

 クリスマスの日の朝。経理課のドアを開けると、星名さんが既にいた。

 一人で机を拭いていた彼女は、俺の姿を見るなり手を止め、ほんの少し気まずげにした。それでも一応は微笑みながら、会釈をしてくる。
「あっ、おはようございます、課長」
 昨夜見た作り物めいた寝顔とは違う、ごく自然な表情。
「……おはよう、ございます」
 俺はぎくしゃく視線を逸らす。
 その顔を直視するのが難しかった。どうしてなのかは、自分の中でもまだはっきりしていない。
 唇の感触を覚えていた。柔らかさと、冷たさを。だからといって幸せな気分になれるはずもなく、昨夜はほとんど眠れぬまま過ごした。星名さんはどうだったのだろう。疲れていたようだから、帰ってからはゆっくり休めたのだろうか。
 酒を飲んだわけでもないのに、頭も足も重い朝。憂鬱な心を奮い立たせて出社してきたものの、いざ彼女の顔を見ると気分が沈んだ。仕事の前に話ができたらと思っていたはずだ。星名さんはいつも誰より早く経理室に来ているから。だからこんなに早く出社してきたのに、こうして彼女を目の前にした今、喉が詰まったように言葉が出てこない。
「昨日はすみません、せっかく誘っていただいたのに」
 机を拭く手を止めたまま、星名さんがそう続けた。深々とお辞儀をするのが視界の端にだけ見えた。
 ドアを静かに閉め、室内へと立ち入る。自分の机へと歩き出しながら返答を考えた。何を言っていいのかまるでわからない。眠れぬ夜の間に考えていたことは、一つとして形にならないまま心の内に留まり続けていた。
 早朝、オフィスに二人きり。まだ暖房が入ったばかりの空気は冷たく、すぐにコートを脱ぐ気にはなれなかった。
 それよりも先にすることがある。
「その、気にしないでください」
 とりあえず、それだけ言った。まだ目を合わせる勇気はなかった。
 星名さんは微動だにせず、こちらの反応を待っている。直視していなくてもわかった、彼女の姿勢のよさ。年上の人らしい立ち振る舞いの気品。
「疲れていたならしょうがないですよ。年末ですし、俺のせいで残業にも付き合っていただいてましたし。だから昨日のことはあまり……」
 ほとんど自棄気味に語を継ぐ。まくしたてた俺をどう思ったか、やがて彼女はふふっと笑い声を漏らした。いつも通りの当たり障りない笑い方だった。
「課長、ありがとうございます」
「お礼なんてそんな……とにかく、お気になさらずに」
「わかりました」
 もう一度お辞儀をした彼女は、すぐに拭き掃除を再開した。真っ白な布巾を持つ手は小さく、寒さのせいか赤らんでいる。俺はその姿を横目に見つつ、内心でそっと息をつく。

 気にしないで欲しいのは俺の方だった。
 疲れていたのも、多分、俺の方なのだと思う。
 映画館で寝入ってしまった彼女の唇を、無断で奪ってしまったことは罪には違いないだろうし、本人に知られるわけにはいかない。彼女自身があの時気づかなかった以上、俺もそ知らぬふりをしている方がいいはずだった。
 あの時は、知っていて欲しかった。昨夜彼女を誘った相手が、何を思い、彼女に何をしたかということ。気づいていてくれて、眠りから覚めた瞬間にはっきり拒絶される方がまだよかった。昨夜のように、いてもいなくても同じような態度を取られるくらいなら。何も知らないままではいて欲しくなかった。俺がどんな思いで唇に触れたのか、そのくらいは気づいて、その上で拒絶して欲しかった。全て壊れてしまってもいいとさえ思っていた。
 罪悪感は、あった。過去形だった。駅で彼女と別れた直後までは確かにあった。だが一人になり、まんじりともせず考えるうちに、その思いは形を変えてしまったようだ。
 気づかなかった彼女が悪い。残った感触の柔らかさも、冷たさも、俺の隣で隙を見せた彼女のせいだ。下心すら持たせてくれないつれなさで寝入ってしまった、彼女が悪いんだ。
 だから、昨日のことは気にしないでいてくれる方がいい。相変わらず、人畜無害の年下上司として扱ってもらえる方がいい。何も壊れないまま、変わらないまま、昨夜の記憶を俺だけが抱え込んでおく方がいい。どうせ次の機会なんかないだろう。彼女は俺につれないままだ。そう思う。

 いい加減考えるのに疲れて、視線を上げた。
 星名さんはまだ拭き掃除をしている。一つ拭く度に床に置いたバケツで布巾を洗い、別の机へと取り掛かる。経理課のデスクは全部で七つ、寒々しく赤らんだ手が次々ときれいにしていく。
 その小さな手を目にした時、ふと尋ねたくなった。
「手、冷たくありませんか」
 俺の問いに、星名さんはきょとんとしてみせた。
「え?」
「こんなに寒いのに水仕事していて。手が冷たくなりませんか」
 外を歩いてきた俺ですら、この部屋の寒さがきつく感じる。羽織ったカーディガンの袖をまくり、手を真っ赤にしている星名さんは寒くないんだろうか。震えもせず淡々と掃除を続けているけど。
「ああ、それなら平気です。慣れてますから」
 どうってことなさそうな口ぶりで彼女が答える。その間も手は休めない。実際、机を拭くスピードに慣れた様子が表れていた。
 呆気に取られた俺は、気付けば更に尋ねていた。
「星名さん、もしかして毎日掃除を?」
「いえ、まさか」
 星名さんが笑う。
「たまにだけです。朝、皆よりも早く来た時にはそうしています」
 でも彼女は、ほぼ毎日のように誰より早く出社しているはずだ。それなら毎日ということになるじゃないか。曖昧な答え方をされて気分はよくなかったが、ともかく言った。
「いつもそうしてくれていたなんて、気がつきませんでした」
「いつもと言うほどではないんですよ。皆の前でやると、若い子たちが何かと気を遣うでしょう」
 星名さんは優しい面持ちで応じる。いつもならほっとできる表情が、今日はやけに心さざめかせる。
「私が好きでやってることですから、皆に『自分もやらなきゃ』って思わせたら大変です。誰も見ていないところでするくらいがちょうどいいんです」
 そこまで言ってから、彼女ははっとしたように俺を見た。人差し指を唇の前に立てて、声を潜めてくる。
「ですから課長も内緒にしていてくださいね。そして気にしないでいてください」
 その唇は、昨夜、確かに触れたものに違いなかった。
 だけど今はもう遠い。指先一つで遮られるほどに遠い。
 気にしないでいてと言われて、気にせずにいられる訳がなかった。星名さんの目立たない心配りは、こうして居合わせなければずっと目立たないままだった。上司にすら気付かせないごく密やかな心配り。――いや、気付けない方がおかしいのか。間抜けだったのか。
 思えばクリスマスイブの残業だって、彼女に言わせれば『好きでやったこと』なんだろう。俺の誘いに乗ったのだってそうだ。彼女は心を配ってくれた。新天地での業務にてこずる俺へ、いつだって救いの手を差し伸べてくれた。
 それをいいことに余計な感情を抱いた、俺が悪かったのだろう。きっと彼女は誰にだって配慮するに決まっているし、誰の残業にだって付き合ってくれるのだろう。誰のデートの誘いにだって乗るのかもしれない。それが心を配るべき対象だったなら。
 わかっていた。思い知らされただけだった。それでも。
「あ、課長。ちょっと失礼いたします」
 彼女がこちらに歩み寄ってくる。映画館の中で見た表情とは違う、控えめな微笑の星名さん。手には絞ったばかりの布巾が握られている。小さな手だった。誰にでも差し伸べられるだろうその手は、冷え切って真っ赤に色づいていた。
「机、拭かせていただきたいんです。すぐ済みますから、もしよろしければ――」
 瞬間、俺は彼女の手から真っ白な布巾を奪い取った。固く絞られた布巾はそれだけでも十分に冷たかった。
「俺が拭きます」
 直後に告げた言葉も、やけに冷酷に響いた。
「えっ、でも……」
 星名さんは何か言いかけて、すぐに口ごもった。俺が力を込めて机を拭き出したせいだろう。自棄になっていた。
 次の機会なんてあるはずがない。そう思ったばかりだ。
 俺だけじゃなく誰にでも心を配る人だ。思い知らされたばかりだ。
 なのに惚れ直してしまった。誰にでも差し伸べられるその手に。今は冷たく赤らんでいる小さな手に。
「手、冷たいでしょう」
 まるで詰問する口調になった。傍らに立つ星名さんが、え、と怪訝そうな声を立てた。
「お湯でも使えばよかったんだ。こんな冷たいので掃除なんかしなくたって」
 語気を強めて続ける。経理室から給湯室が遠いことは知っていた。でも言わずにはいられなかった。
 顔を上げると、彼女は瞬きを繰り返している。何が起きているのか、なぜ俺が怒り出したのか、わからないとでも言いたげだった。
 わからないだろうと思う。知らないだろうと思う。言われるまで気づきもしないだろう、と思う。
 その顔に、更に告げた。
「こんなに冷たい水で掃除なんて、平気なはずがないです」
 手の中の布巾が冷たい。俺の手もたちまち体温を奪われて、ずきずきと痛いくらいだった。
「平気なんですよ、私……かえってお湯だと手が荒れてしまいますから。若くないのでお湯は駄目なんです」
 星名さんが気遣わしげに笑う。
 余計に腹が立った。赤らんだ手をしているくせに。年下の俺より小さな手をしているくせに。
「若いですよ。星名さんはまだ」
「からかわないでください。ちっとも若くないで――」
「どっちにしたって俺は好きです!」
 笑い飛ばされそうになったから、とっさに叫んでいた。
 布巾は机上に放り出し、彼女の両手を握り締める。小さな手だった。俺の手よりずっと冷たかった。そのままぐっと引き寄せると、彼女は呆然とした様子で俺の目の前に立った。
 唇を薄く開け、俺を見上げている星名さん。
 作り物めいた面差しとは違う、素の表情をしていた。
「好きです、星名さんが」
 俺は何もかもを壊す気でいた。その表情も、この関係も、昨夜の記憶も全て。
「無理しないでください。辛い時は辛いと言ってください。疲れていたなら俺の誘いなんて断ってください。映画を観ながら寝入ってしまうくらい疲れてたなら、正直に断ってくれた方がよかったんです!」
 なぜ断ってくれなかったんだろう、と思う。
 そうしたら星名さんは、あんな目に遭うこともなかっただろうに。
「あの、それはその」
 星名さんが言いにくそうに目を伏せる。
「誘っていただいた時はそれほどでもなくて、平気だと思ったんです。それにせっかくのイブですし、デートなんてそれこそ久しぶりでしたし……」
 弁解を聞きたいわけじゃなかった。歯噛みして、俺は尚も続けた。
「俺、星名さんが寝てる間に、キスしました」
 彼女が面を上げる。
 大きく見開かれた瞳が、寒そうに震えている。小さな手はまだ冷たい。こちらにまで伝染しそうなくらいに冷たい。俺の手じゃ暖めることだって叶わないのかもしれない。
「好きだったのに」
 だから、もういっそ構わないとばかり全て吐き出した。
「せっかくのデートだと思ったのに、隣で寝られたから腹が立ったんです。相手にされてないことは前々からわかってましたけど、こうも実感させられるとやっぱりショックでした。おまけに他のカップルにも笑われて、俺はすごく惨めだったんです」
 これで本当に拒絶されるだろう。
 その方がいいと思っていた。相手にされないくらいなら。気楽で人畜無害な相手と思われるくらいなら。クリスマスイブのデートでさえ、下心を持たせてももらえないのなら。
「だから元を取りたくて、あなたにキスしました。一応断りましたけど、聞こえませんでしたよね」
 呼びかけても語りかけても、何の反応もくれなかった。映画のエンドクレジットが流れるまでは起きてくれなかった。星名さんは知らないだろう、そうして眠っている間にどんな目に遭ったか。どんな酷いことをされていたか。
 昨夜重ねた唇は、昨夜と同じ色をしている。温かみのあるピンクベージュ。もう二度と触れることはないに違いない。その唇が次に紡ぐのは、間違いなく非難の言葉だ。
「怒らないんですか」
 黙っている星名さんに、俺はそう促した。
 星名さんは少しの間、ぼんやりしているのと変わらないそぶりでいた。大きく見開かれた瞳は一度も瞬きをせず、やがてうっすら涙が滲んだ。冷たく小さな手はずっと俺の手の中にあった。振り解こうとはされなかった。
 ピンクベージュの唇が動いた。
「本当、なんですか」
 尋ねられたので、俺は頷く。
「はい」
「本当の、本当ですか」
「そうです」
 再度頷いた。
 星名さんがふと視線を外し、呟くように言う。
「信じられないです。課長が、そんなことをなさる方だとは思いませんでした」
 そうだろうな、自分でも思う。
 彼女にとっての俺は、頼りない年下の上司。ただそれだけだった。まさか牙を剥いてくるとは想像すらしていなかったはずだ。クリスマスイブに誘われたって、何の気構えもなく誘いに乗って来られたはずだ。そして映画館の中、警戒心すら抱かずに寝入ってしまうことも出来た。その程度の相手だ。
「怒ってくれていいです。それだけのことをした自覚があります。何だったら殴ってくれたって」
 俺がそう告げると、星名さんはためらいがちに睫毛を伏せた。
 数秒後、溜息と同時に言った。
「怒れません」
「え?」
「もう三歳若かったら、きっと怒ってました」
 星名さんがもう三歳若かったら、俺と同い年だった。
「もし私が課長くらいの若さだったら、相手が誰でもひっぱたいて、噛みついて、怒鳴っていたと思います。でも今の私はそんなこと、できそうにないんです」
 視線が上がる。俺を見上げてくる、いたずらっぽい笑み。
 意外すぎる表情に、思わずぎょっとさせられた。
「断りなくそういうことをなさるのはやっぱり、ずるいです」
 ずるい、だろう。自覚もある。
 だとしても彼女の笑顔は、この状況下にはそぐわない。可愛かった。
「でも、怒っていません。正直に申し上げるなら、課長がそういうことをなさったってまだ信じられないくらいです。だけど本当だとしても、怒れません。怒ったりはしません」
 小さな手が俺の手の中で、ゆっくりと握られた。誰かをひっぱたくような手には見えなかった。今は少し、温かく感じていた。
「若くて、素敵な人にキスしてもらえて、ラッキーだったって思うことにします」
 星名さんは笑顔のままそう言った。
 そして唖然とする俺の手を優しく、とても優しい力で外すと、机の上に放り出されていた布巾を手に取った。床の上のバケツに布巾を入れ、小さな手でバケツを持ち上げた星名さんは、軽い足取りでここを出て行こうとして――。
「あ、あの、星名さん!」
 やっとのことで我に返り、俺は彼女を呼び止めた。
 彼女が振り向く。人差し指を、ピンクベージュの唇の前に立てた。
「しいっ。もうすぐ皆、出社してくる頃ですよ」
 そうだった。ここが会社だということすら忘れていた。さっきの言葉が衝撃的で、まともに考えることもできなくなっていた。これは夢じゃないのか。現実だとしたら、彼女は何を考えているのか。
「あ……し、失礼しました。でも、あの」
 上擦る声で言いかけた俺へ、彼女は落ち着いた言葉を告げてくる。
「ところで、課長。昨日のお言葉は本当ですか?」
「昨日? ええと、俺、何か言いましたっけ」
「『また近々誘いますから』って言っていただきました」
 星名さんが微笑む。
「本当なら是非誘ってください。私、お待ちしています」
 そうしてバケツを持っていない方の手を小さく、振った。
 俺は頷くのが精一杯だった。星名さんが出て行くのを、起き抜けの寝ぼけたような気分で見送る。

 確かに星名さんは、経理の他の子よりは若くない。
 でも他のどんな子よりも、もしかしたら世界中の誰よりも、ずっとずっと可愛い。
「……次の機会、あるのか」
 声に出して確かめたくなる。
 さすがにこの次の機会は、下心なしというわけにはいかないだろうな、と思う。
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