Tiny garden

その時君は泣くだろう(3)

 私は深く息を吸い込んで、それから、ゆっくりと告げた。
「もう私は、鷲津のものだよ」
 誓いを立てるように、真剣に言葉にしていく。
「どこかに行くなんてことはない。鷲津を捨てるなんてこともない。逃げたりもしないから、不安にならないで」
 鷲津の目は私を見ている。瞬き一つせずに、じっと。
「その代わり、鷲津も私のものだから。お互いに」
 そう、お互いに。
 私たちは拘束し合う関係でありたい。片時も離れることのないように。いつまでも傍にいられるように。常にお互いのことを考え、相手なしではいられない関係になりたい。鷲津は私が、私は鷲津がいてくれさえすれば、他に何もなくても、誰もいなくても生きていけるように。
「誰にも渡さない。鷲津は私のなんだから」
 絶対に、渡さない。佐山にも、あのクラスの他の子たちにも、神様にだって。他の誰にも渡したくない。
「私だけのものなんだから」
 ずっと私だけのものにして、私なしではいられないようにする。
 だって、私はもう、鷲津なしではいられないから。彼がいなければきっと生きていけない。生きていくなら、二人で一緒じゃないと嫌。
 そのくらい好きだった。身も心も何もかも好きだった。いとおしくて、大切で、失くしたくなくて堪らなかった。閉じ込めておきたかった。閉じ込められてしまいたかった。
「離さないでね」
 そう告げたら、彼はごく小さく頷いた。
「ああ」
「鷲津のことは、私が必ず幸せにするから」
「……もう幸せだよ、十分」
 いつになく優しい口調で、鷲津は言った。唇が緩やかに笑んでいた。
「誰かが傍にいてくれるのって、いいことだと思う」
「それが私なら、一番いいでしょう?」
「そうだな。久我原がいい」
 至近距離でかすめてくる吐息が熱い。唇に、触れたくなる。
「私は鷲津がいてくれたら、私だけのものでいてくれたら、それだけで幸せだから」
 彼の頬を撫でてみる。私の涙はもう乾いていて、指先にすべすべした感触だけがあった。白くて、滑らかな彼の肌。頬から顎までそっとなぞると、彼は声を立てて笑った。
「俺は、大したことは出来ない。お前が喜ぶようなこと、あんまり知らないけど……一緒にいるだけで幸せだって言ってくれるなら、一緒にいる。離さない」
 笑いながら、そんな言葉を私にくれた。
 間近で受け止められた私は、本当に幸せだった。
「ずっとだよ」
「わかってる。ずっとだ」
 恋をするというのは、相手を拘束したいと願うことだ。
 拘束することが許されるなら、それはつまり、恋が叶ったということなんだろう。
 ようやく叶った。鷲津が私のものになってくれた。幸せだった。
「鷲津が死んだら、私、後を追うから」
 私が言うと、彼は驚いたようだ。目を丸くされた。
「そこまでするなよ。お前は長生きしろよ」
「嫌。私に長生きして欲しいなら、鷲津も長生きして」
「努力はする」
 お互いがいれば生きていけると言うのなら、私たちは長生きも出来るかもしれない。おじいさん、おばあさんになるまで一緒にいられるかもしれない。その時までずっと、私は鷲津を好きでいる。それは確実。鷲津も、その時までずっと私を必要としてくれて、私を傍に置いてくれたらいい。
「好きだよ、鷲津」
 全ての想いを込めて、私は彼に囁いた。
「俺も」
 鷲津が応じる。今度は私が驚かされた。
「本当に?」
「ああ。……お前の言う『好き』とは、意味合いが違うかもしれないけど」
 彼は私の目を見つめたまま、穏やかな声音で語を継ぐ。
「俺は、お前がいるから生きていける。生きていく意味があると思ってる。だから、好きなんだ」
 その言葉の重さに、私は目を伏せる。鷲津の言う『好き』は、恋ではないのだと思う。私の抱く『好き』とは意味がまるで違うのだと思う。鷲津には私が必要なんだ。何よりも生きていく為に。
 彼の想いを大切にしていきたかった。彼がいとおしかった。
「後を追うって言われたら、死ぬ訳にもいかないしな」
 苦笑した後で、彼は尚も続けた。
「せいぜい、長生きしてみせるよ。幸せにだってなってやる。お前のことも、ずっと離さない。これから先はずっと、生きててよかった、死ななくてよかったって思いながら生きてやるんだ」
 そういう生き方も悪くない。
 私も、これから先はずっと思うだろう。彼が生きててくれてよかった。私の傍にいてくれてよかった。私を必要としてくれて、本当によかったって。
 至近距離で見つめ合う時間が続いていた。目を逸らすのが惜しいと思う。瞬きをするのだって惜しい。そのくらい、素直に見つめ合えている。幸せだった。
 だけど、黙っているのももったいないような気がした。
「キスしていい?」
 見下ろした顔に、私はふと尋ねてみる。そういえばあの日の教室でも、こんな風にたずねたことがあった。あの時は、素っ気ない答えしかもらえなかったけど――。
 鷲津は眉根を寄せていた。
「今度は、俺が聞こうと思ってたのに」
「……ごめん。先に聞いちゃった」
「別にいいけど。お前さ、そろそろ慎みってものを覚えた方がいいんじゃないか」
 呆れたように言われた。
 だけど私は首を竦める。
「そんなの、今更じゃない? 散々変態呼ばわりされてきたくらいだから」
「確かにそうだよな。今更か」
 何もかも飲み込んだ表情になって、鷲津も笑う。こういう私だからこそ、彼にも信じてもらえたんだろう。彼だって、こんな私が必要なはずなんだから。
「で、答えは?」
「答え?」
「キスしていいかってこと」
 彼の答えが聞きたかった。虚勢でも何でもない本当の答え。ここまで辿り着いたからこそ言える、素直な気持ちが聞きたかった。
「ねえ」
 私が促すと、ふうと小さく溜息をつく。それから彼は言った。
「いいよ。俺も、したかった」
 答えは、言葉の端々に溢れていた。
 だから私は目を閉じて、ほんの少し身動ぎをした。かさつく唇に熱と水分を、ゆっくり、ゆっくり分けてあげた。

 しばらくしてから、鷲津は私の両肩を押さえて、身を起こすようにと促した。私が素直に従うと、彼も肘をつきながら上体を起こす。
 フローリングの床の上、私は彼に馬乗りになっている。気分が落ち着いてから初めて状況の異常さを察した。人の家の玄関ですることじゃない。
「背中が痛い」
 しかめっつらになった鷲津がぼやく。それからふと、おかしそうに顔を歪めてみせた。
「何やってるんだろうな、俺たち。こんな玄関で……」
「いつ人が来るかわからないって点ではスリリングかも」
 私がフォローにならないことを口にすると、吹き出された。
「その解釈は前向き過ぎるだろ」
 ひとしきり笑った後で、更に照れたような笑みを浮かべる。彼の表情が違うなと、改めて噛み締める一瞬。
「部屋に行くか」
 彼が言って、私もちょっと笑ってしまった。
「そうだね。お邪魔していい?」
「いいけど……今日は、せっかくだから、話がしたい」
 鷲津の手が私の髪を梳く。慌てて自分の髪に触れてみた。思っていた通り、結構めちゃくちゃになっていた。
 ぼろぼろ泣いてしまったから、マスカラだって落ちているはず。酷い顔に違いない。直す時間が欲しい。
「久我原のこと、いろいろ知りたいんだ」
 酷いはずの私の顔に見入って、彼は言う。その視線が恥ずかしくなる。
「そういえば俺、お前のこと、あんまり知らなかったから」
 知りたいと思ってもらえるのもうれしい。そんなに謎や秘密がある私ではないし、話して面白がってもらえるようなこともないだろうけど――鷲津の知りたがっていることは全部教えてあげたい。知っていてもらいたい。
「うん。たくさん教えてあげる」
 私は頷く。私も、鷲津のことを詳しく知っている訳じゃない。これからはたくさん知っていけたらいい。一緒にいる為には、そういうことだって必要でしょう。二人でいるのが一番いいように、居心地いいように、お互いのことを理解していけたら。
「だけど先に、お化粧を直してもいい?」
 そう尋ねたら、また鷲津に笑われた。
「別に直さなくてもいいんじゃないか。素顔はもう知ってる」
「鷲津の前では出来る限りきれいでいたいの」
「じゃあ、好きにしろ。その間に紅茶でも入れておく」

 それで私は洗面所を借りて、手早く化粧を直すことにした。
 何度も入ったことのある洗面所で、初めて鏡と向き合った。鏡の中にいたのは泣いた後の顔で、やけににやにやしている私だった。馬鹿みたいに幸せそうだ、化粧が崩れて酷いのに。
 でも、本当に幸せだった。
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