Tiny garden

その時君は泣くだろう(4)

 鷲津の部屋のカーペットの上、二人で寄り添うように座った。
 手が触れて、指先を絡めても、彼は文句を言わなかった。だから私もそのままでいた。並んで座って、ただ話をしているだけなのに、今までで一番どきどきしていた。
 入れたての紅茶は温かくて、美味しかった。そのことを告げると、コーヒーを飲んでいる鷲津が肩を竦める。
「俺がお前について知ってるのは、コーヒーよりは紅茶が好きらしいってことくらいだ」
「それだけ?」
 私は少しがっかりする。そんなに自分のこと、話してこなかっただろうか。思い返してみれば確かに、私のことを話す時間はあまりなかった。そのくせ一番伝えたかった想いは、ちっとも正しく伝わらなかった。
「鷲津をどのくらい好きかは、ちゃんとわかってくれてるでしょう?」
 尋ねてみたら、呆れたような目を向けられた。
「お前の性格の、そういうところはよく知ってるよ」
 言った後で彼は苦笑する。
「基本的なことは何も知らないような気がする。誕生日も、血液型も、趣味も、普段どんな風に過ごしているのかも。お前の話を聞いてやる機会もなかったもんな」
「言われてみれば、そうだね」
 今度は素直に頷いた。それだってお互いに、だ。
「私も鷲津のこと、あんまり知らないな。どこの大学の何学部に進んで、何を専攻してるのかとか……。教えてもらってない」
 好きな人のことなのに、ちょっと前まではクラスメイトでもあったのに、誕生日も血液型も趣味も知らない。肌を何度も重ねて、いっぱいキスをして、一緒にお風呂だって入った仲なのに。
「別に急ぐことはないんだろうけど」
 鷲津が、頬を掻くような仕種をした。
「そういう、細かい話もさ。これからはしていけたらいいなと思う」
 彼のその言葉が温かで、私は静かに息をつく。辿り着いたのは奇妙なくらいに穏やかで、落ち着いた空気だった。なのにかえって胸がときめく。今置かれている状況に、ひたすら優しい気持ちだけが湧き起こる。
 彼がここにいてくれてよかった。それだけを強く思う。
「何か、恋人同士の会話って感じだね」
 私が水を向けると、鷲津はやっぱり呆れたようにこちらを見た。
「端的な言い方だよな」
「駄目? 端的だと」
「そんな簡単に言い表されても困る。それほど安っぽいものじゃないと、俺は思ってるから」
 ちらと、彼の顔にも困惑の色が浮かぶ。
「まあ、客観的に見れば安っぽい関係にしか見えないだろうけどな。……身体から入ってる、訳だし」
 照れも入り混じった複雑そうな渋面。それは数秒後に、ぎこちなく綻んだ。
「お前が思いたいなら、好きなように思えばいい。俺は今更、他人の目を気にするつもりもないし、意味もないしな。俺は違うように思うけど、お前が思うようなことを、多分他の人間からも思われるはずだ」
 それはつまり、傍から見れば恋人同士のようである事実を、彼自身も肯定する気でいるということ? もっと『端的な言い方』をするなら、私と恋人同士みたいに見られても、構わないってこと?
 端的でも何でも、いい意味にしか解釈出来なくて、私は密かににやけていた。鷲津の中の認識がどうあれ、私は彼を独り占め出来て、その上で恋人同士のような関係になれたらそれでいい。彼にとって私が、誰より最も必要な存在であれたらよかった。つまるところこの関係は願ったり叶ったりだ。
「じゃあ、好きなように思うよ」
 私は応じて、繋いだままの指先に軽く力を込めてみる。解かれなかった。幸せだった。

 隣に視線を投げてみる。
 憑き物の落ちたような顔、とでも言うんだろうか。鷲津の表情は落ち着いていて、どこかくつろいだ様子もうかがえた。今までは自分の部屋にいたって、こんな表情を見せてくれたことはなかった。ようやく、吹っ切れたのかもしれない。
 だけど、この顔も好きだと思う。――くつろいでいる時の目つきの優しさ。ほんの僅かにだけ開かれた唇。それでいて肌の白さも、噛み付きたくなるような首筋も、コーヒーカップを傾ける度に上下する喉仏も、変わることなくそこにある。隙のないように見えていた彼の、隙だらけの姿が、今はすぐ隣にある。
 手を伸ばしたいような、だけどもう少しこのままで、そっとしておいて、ただ眺めてだけいたいような。猫に鰹節の例えではないけれど、彼を見ているとやっぱり、喉が鳴る。
「……腹、減ってないか」
 不意に、鷲津が口を開いた。
「減ってるなら何か持ってくる。菓子パンくらいしかないけど」
 そう言ったのは恐らく、私が物欲しそうな顔でもしていたからなんだろう。欲しいのは食べ物ではないんだけど。胸が一杯で、どこにも入る余地はない。でも鷲津なら別腹だ。
「ううん。まだ平気」
 かぶりを振って答えてから、私は軽く笑っておいた。
「そういえばこの間来た時も菓子パンだったよね。鷲津、パンが好きなの?」
「別に好きってほどじゃない。ただ、菓子パンは値段の割に腹が膨れる。一個あれば満腹になるしな」
 さらりと答えた鷲津の、華奢と呼んでも差し支えのない腹部に思わず目がいく。自分のお腹と比べたくはなかった。多少、へこんだ。
「もっと食べた方がいいよ、鷲津」
 私が真剣に助言をすれば、今度は彼の方がへこんだみたいだ。眉尻を下げてこう言ってきた。
「俺だって、好きで痩せてる訳じゃない」
 一度でいいからその台詞、私も言ってみたい。
 だけど鷲津が積極的にご飯を食べてるところも、そういえば見たことなかったような気がする。私にはいろいろとご馳走してくれたりもしたけど、一緒に何かを食べる機会もなかった。確かに。
 今になって思えば、そういう面からも彼の生気のなさが垣間見えていたみたいだ。
「久我原は、やっぱり鍛えてる奴の方が好きなのか?」
 恐る恐るといった口調で鷲津が問う。それがおかしくて、私はまた笑った。
「私は鷲津が好きだよ。でも……」
 でもこれからは、もっと生きることに力を尽くして欲しい。
 出来るだけ私と、長く長く一緒にいるんだって、そのことを何よりも強く思っていて欲しい。
「ちゃんと食べないと身体によくないでしょう。たくさん食べて、健康でいてくれる人が好き」
「……難しい注文だな」
 彼がしょげたように肩を落とすから、私はその肩を叩きたくなる。
「じゃあ今度、何か買ってきてあげる。スタミナのつきそうなもの」
「買ってくるって、うちにか?」
「うん。それで、二人で一緒に食べるっていうのもよくない?」
「なら、外に食べに行く方が早いだろ」
 ごく何気なく、鷲津が言った。
 多分、恋人同士ならどうってことのない台詞だった。でも私たちの場合はそうじゃない。外で会う時も人目を忍んでばかりいて、まだ並んで歩いたことさえなかった。今日、それが叶うかもしれないと思ったのに、結局叶わなかった。そのくらい、どうってことなくない提案。
 私が息を呑んだから、察したみたいだ。彼がぎくしゃく視線を外す。
「とってつけたみたいな感じ、するだろうけど」
「う、ううん。ちっとも」
「そうか? とにかく……今度からは、外で会うのもいいかなと」
 もごもごと口の中でそこまで言って、鷲津はちらりと私を見る。頬が赤い。
「こういうこと言ったら、お前はまた『恋人同士みたい』って言うんだろ」
「言わないよ。思うだけ」
「別に、言ってもいいけど」
 強情さを滲ませた物言いだった。彼の中では頑なに、認めたくないものがあるらしい。
「……ただ、覚えててくれ。俺がお前のことを好きでいるのは、安っぽい感情のせいじゃない」
 わかってる。さっき聞いたとおり、彼の気持ちは恋ではないのだろう。他人の目に、客観的にどう映ったとしてもだ。彼はその感情を恋とは呼ばない。知らないからなのか、信じられないからなのか、それとももっと別の感情を理解しているからなのか――。
「お前が必要なんだ、どうしても。生きていく為に」
 彼が熱い吐息と共に零した、その言葉。衝動的に唇で受け止めた。吐息も言葉も全て受け止める。彼が零す全てのものを、私は失くさずに拾い上げて、集めて、大切にしていきたい。
 そうすることで私も、彼と二人で、ずっと生きていけると思った。

 恋人同士とは、少し違うのかもしれない。
 鷲津がいなくなったら、私はその時泣くだろう。けれど私がいなくなったとしても、鷲津は泣いたりしないだろう。でも、彼が生きていく為には私が必要。だからいなくなったりしない。
 私は私自身の気持ちを、恋だと呼んでいたかった。彼がどう捉えていたとしても。他人の目にどう映ろうとも。彼を欲する衝動も、独占欲も、いとおしさも、触れたい気持ちも全て――全てを捧げても惜しくないほど一途で、甘い恋をしたのだと、今もそう信じている。
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