Tiny garden

その時君は泣くだろう(2)

 気が付けば、鷲津の顔が見えなくなっていた。
 視界がぼやけていた。目の奥までじわりと熱くなった。瞬きをすると、涙が落ちたのが感覚だけでわかった。
「……泣くなよ」
 困ったような、彼の声が聞こえる。
 だけど無理な注文だった。泣くなって言う方がおかしい。好きな人がこの世にいなかったかもしれないって考えて、泣かずにいられる? 本当は声を上げて泣きたいくらいだ。
 そりゃあ鷲津にはわからないだろう。私がどのくらい鷲津を好きでいるか、わかっていないだろうから。――あの日、鷲津がどんな気持ちでいたか、私にはちっともわからないように。私が、あの日からどのくらい鷲津を好きでいて、会えない間にどのくらい彼のことを考えていて、会えた日はどのくらい彼に夢中になっていて、彼の為ならどんなことでも出来るんだって、ちっとも知らないだろうから。
 鷲津がいなくなっていたら、この気持ちだってなかった。存在していなかった。そう思うと、無性に怖くて堪らなくなる。
「泣くなって。ちゃんと、生きてるだろ」
 少し無神経な言い方で、彼は私を叱ってみせた。服の袖で涙を拭おうとする。だけどこっちは泣き止めはしなかった。拭いてもらったうちから熱い雫が、次から次へと溢れた。
「だって――」
 言い返そうとしたけど、全然声にならない。泣き声を堪えるのに精一杯で、何も言えなくなっていた。
 よかったって思うんだ。あの日、鷲津を止められて。あの日、鷲津のことを好きになれて。本当によかったって、ほっとしてもいるんだ。だけど――やっぱりそんな運命は嫌だ。怖過ぎる。もし、間に合わなかったらと思うと。
「もうしない」
 鷲津は言った。
「もうしないから。今はもう、そんなこと考えてない。死にたいなんて思ってないから」
 慌てているみたいだ。早口になっていた。
「打ち明けようかどうかだって迷ったんだよ。この間、ホテルに泊まった時、話そうかと思った。でもこんなこと話してもどうにもならないって思ったから、言わなかった。今日だってさっきまでずっと迷ってて……いっそ言わない方がよかったか? ああもう、泣くなって。本当にしないから」
 そう言われてもすぐに泣き止めるものではなかったけど、幸い私は現金な性質だった。しゃくり上げつつ、どうにか呼吸を整えて、確認を取る。
「い、一生だよ?」
 金輪際、そんなことは考えて欲しくない。鷲津は私が幸せにするもの。自殺どころか、長生きしたくなるくらいに幸せにするもの。だから、駄目。絶対駄目。
「……わかってるよ」
 私の短い言葉で、どこまでわかってくれたんだろう。ともあれ彼はそう言った。だからもう一つ確かめておく。
「一生、考えるのだって、なしだからね?」
 本当はそんなこと考えられないくらいに鷲津を幸せにして、私に夢中にさせたい。けど、時間が掛かってしまうかもしれないから、その間に考えられたら嫌だから。考えるのも駄目。鷲津が考えるのは、私のことだけでいい。
「お前に捨てられたら考えるかもしれない」
 案外真面目な調子で鷲津が答える。それで幾分かはほっとした。じゃあ一生、考えずに済むだろう。だって私は、鷲津のことが一生好きだもの。
 私は目を擦りつつ、しばらくぐすぐす言っていた。他に言いたいことはたくさんあった。なのに、まだ言葉に出来そうにない。
 彼の前で泣く日が来るなんて思わなかった。好きだと言ってもらえなくても、きつい言葉を向けられても、ちっとも辛くなかったのに。

「あの日も、お前が来たから思い留まったんだ」
 そう言って、鷲津は指の腹で私の頬を撫でた。随分と濡れているはずだった。
「正直、最初は『思い留まった』だけだったけどな。未練があったから」
 未練。死ぬことを考えていた鷲津の、未練。
 私が怪訝に思いながら瞬きをすると、視界が晴れた。涙の落ちた鷲津の顔に、場違いな照れ笑いが浮かんでいた。
「お前に言ってもわからないかもしれないけど、童貞のままで死ぬのは嫌だったんだ」
「……わかんない」
「だろうな」
 鷲津は笑っていたけど、私はちっとも笑えなかった。変な理由。死ぬのを一旦止めたくなるくらいの未練が、それ?
 そんな未練で思い留まれるなら、最初から自殺なんて考えなきゃよかったのに。
 でも、鷲津がそう考えてくれなかったら、私は鷲津を好きになってはいなかったんだろうけど。鷲津に惹きつけられることもなく、ただ漫然と卒業を迎えていたんだろうけど。こんな風に泣いてしまうくらい、人を好きになることだってなかったんだろうけど。
 あの日、私が惹きつけられたのは、消えようとしていた命の最後の輝きだったのかもしれない。堪らなく惹きつけられて、どうしても欲しくなった。拘束したくなった。拘束されてしまいたかった。それも全て、鷲津があの日あの教室にいたから、そこまで追い詰められていたから。そう思えた。そういう運命だったんだ。
「馬鹿みたいだって思うだろ?」
 彼の問いに、私は素直にかぶりを振る。
「ううん」
 馬鹿なのは、きっと私の方。
 追い詰められた鷲津と出会うまで、鷲津を好きになれなかった。彼の魅力に気付けなかった。だから私は馬鹿だ。相当の馬鹿だ。
 やっぱりもっと早く、好きになっていたかった。
 手を伸ばし、彼の頬に触れてみた。彼の頬も濡れていた。指先で拭うと、少しくすぐったそうにされた。
「いいよ、気にするなよ」
 そう言って、彼は続ける。
「馬鹿なのも事実なんだ。自分でもわかってる。久我原なら泣いてくれるかもしれない、そう思って、死ぬのを止める気になったんだからな」
 本当に、その通りだ。鷲津がいなくなっていたかもしれない、そんな可能性だけで泣いてしまった。馬鹿みたいにショックを受けて、ぼろぼろ泣いてしまった。鷲津はちゃんと生きているのに。ここにいるのに。
 いなくなっていたかもしれない。可能性だけで、想像だけで耐えられない。そのくらい好き。
「初めのうちは、信じ切れなかった」
 鷲津が、両手で私の頬を包んだ。引き寄せるようにされて、顔が近づく。前髪が触れそうになる距離。吐息の掛かる距離。
「久我原がどうして俺のことを好きになるのか、まるでわからなかった。それでなくても俺は、クラスでも嫌われてる人間だったし……きっと、他の連中とグルになって俺を騙そうとしてるんだと思った。さっきも言ったように、俺があの日、何をしようとしてるのか気付かれてるのかもしれない、とも思った。それでなかなか、お前を信じられなかった」
 かなりわかり易く、気持ちを伝えたつもりでいたのに。本当に難しい、人の心を捕まえておくのは。
「でも、罠にしてはやり過ぎだと思った。お前は俺に何をされても、何を言われても平然としてたし、俺と会う度にうれしそうにしてた。演技だとしても上手過ぎた。もしかしたらって思いたくなった」
 そこまで言って、鷲津がちらと視線を外した。
「……まあ、本物の変態って可能性も考えなくはなかったんだけどな。身体目当てかと思ったことも一度ならずあったし」
 身体目当てなんてことはない。心も、両方目当てだった。いつだって。
 そういうのも、伝えるのは難しかったんだろうな。私だって他に経験があった訳じゃない。こんな恋をしたのも初めてだったから。
「でも今は、信じてる」
 彼が視線を戻す。私の目を覗き込んでくる。
「お前の気持ち、信じられる。お前が俺をどのくらい想ってくれてるのかも、ようやくわかったと思う。お前が俺の為に泣いてくれるのもわかった。だから……」
 唇が触れ合いそうな距離にいる。
「傍に、いて欲しいんだ」
 私たちは、お互いの傍にいる。
 ほんの少し身動ぎをしたら、触れ合っていない部分は何もなくなるくらいの近さ。なのに唇はまだ触れない。鷲津が、そうさせてくれない。
「思ってたんだ。久我原なら、俺の為に泣いてくれるかもしれないって。本当はずっと前から思ってた。そうだとしたら、俺も、生きてる意味はあるだろうって。あの日から思ってた、久我原が本当に、俺のことを好きでいてくれたらいいって。罠とか嘘とかじゃなくて、本当であって欲しかったんだ。それで、お前がずっと傍にいてくれたら」
 鷲津は言う。
 この距離でもまだ、淡々と告げてくる。
「拘束したかったのは、きっと俺の方だった」
 私の頬を両手で、支えるようにして、言い聞かせるように繰り返す。
「お前を閉じ込めておきたかった。たとえ罠でも、嘘でも、逃げられないように。他の奴がお前を好きなんだとしても、そいつといた方がお前にとって幸せなんだろうとしても、俺には久我原が必要だった。いなくなってしまうのが怖くて、閉じ込めておきたいと思った」
 熱い吐息が唇に掛かる。くすぐったい。
「お前に傍にいてもらえたら生きていけると思った。少なくとも、生きてく意味はあるだろうと思った。だから、罠でも嘘でもなかったとわかった時は、本当に――うれしかった」

 うれしいと言ってもらえた、私が、うれしかった。
 ようやく、鷲津を幸せに出来たのかもしれない。前に彼自身が言っていたように、彼を好きでいる私が、彼のことを幸せに出来たのかもしれない。そうだとしたらうれしい。うれしくて、また泣きそうになった。
 でも、もう泣かない。
 これから鷲津を、もっともっと幸せにしなくちゃいけないから。私に夢中にさせて、他の辛いことや嫌なことや苦しいことがどうでもよくなってしまうくらいに、幸せにしてあげたいから。泣いてる暇なんてない。

 いつ、本当だって気付いてくれたの? ほとんど吐息だけで尋ねると、彼も抑えた声で答えた。
「俺といて、幸せだって、お前が言った時」
 本当にわかってくれてるんだ。
 しみじみと噛み締めて、私も幸せな気持ちになれた。鷲津といるのが一番幸せだった。それは今でも同じだ、ちっとも変わっていない。
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