ずるいひと（４）
鷲津が去っていったのは、ちょうど鷲津の家へ向かう時、私が通るのと同じ道だった。母校の校庭沿い、青々と茂る桜並木の横を抜けていく。そこで彼が待っていてくれやしないかと淡い期待を抱いたりもした。もちろん、彼はいなかった。
家に戻ってしまったんだろうか。今日は家族もいないって言っていたけど、一人きりで家にいるんだろうか。あのままの勢いで駆け込んでいったんだろうか。他の心当たりがあるはずもなく、私も彼の家を目指す。全速力で。
もう既に喉がひゅうひゅう言っていた。手足もだるくなっていた。運動不足だ。だけど立ち止まれない。鷲津のところへ行きたかった。鷲津を、私だけのものにしたかった。誰にも邪魔されないように。
だけど、思う。今更ながら思う。
私はなんてずるい奴だったんだろう。
クラスメイトの一人がどんな奴で、どんな扱いをされていたか、何の興味も持てなかった。見て見ぬふりをしていたのかもしれない。鷲津がどうして皆から嫌われていたのかを全く知らないままでいた。クラスメイトなのに、同じクラスにいたのに、関心すら持ってあげられなかった。
そのくせ、卒業間際になって鷲津を好きになった。それまでの態度を引っ繰り返して、彼に迫ってみせた。今までの無関心さなんて忘れたみたいに。そんな人間を誰が信用出来るって言うんだろう。誰が好きになれるって言うんだろう。
本当に酷い奴だ。嫌な奴だ。ずるい奴だ。そうして鷲津にも、卒業してまで辛い目に遭わせてしまった。好きな人なのに。こんなにも、好きなのに。
まだ私にチャンスがあるなら、今度こそ鷲津の全てを受け止めたい。鷲津の嫌なところも、冷たいところも全部受け止めて、好きだって思いを伝えたい。鷲津の為になら何でも出来るんだってこと、伝えたかった。
彼の家が、ようやく見えてきた。
玄関のドアの前に立った時、駆けてきた脚はがくがく震えていた。息も切れていた。ぜいぜい言いながら、チャイムに手を伸ばす。指先すら震えて、ボタンを押すのに手間取った。
チャイムが鳴った。
私は祈るような気持ちで待つ。彼がドアを開けてくれますように。もう一度、私と会ってくれますように。そう祈りながら待っていた。
ドアの鍵が開く、がちゃりという音がした。はっとした直後にドアはごく薄く開いて、鷲津の顔がちらと覗いた。こちらを見た途端、彼の目が動揺した。
「久我原……」
とりあえず、私は笑んだ。上手く笑えたかどうかはわからない。呼吸は乱れていたし、髪だって風に吹かれてきたままのぐしゃぐしゃだ。磨いたはずの肌全体は汗ばんでいて気持ち悪い。くたびれきって、ろくでもない姿になっているはずだった。それでも笑った。
「鷲津、ごめんね。変なことになって」
笑いながら言った。
「佐山のことなんて気にしなくていいからね。私もちっとも気にしてないし、あんな奴、どうでもいい。忘れちゃおうよ、鷲津がそうしたいなら」
彼は黙っていた。黙ったまま、ドアを大きく開けてくれた。入れ、ということだろう。許しを得たことにほっとして、私は喜びながらそれに従う。
後ろ手でドアを閉めてから、私は玄関で、鷲津に告げた。
「ねえ鷲津、好きだよ」
靴を脱ぐ前に告げた。鷲津は上がり框に突っ立って、硬い表情で私を見ている。内心は読み取れない。
「本当に好き。誰よりも好きなの」
私は続ける。今はとにかく信じて欲しかった。
「鷲津の為だったら何でも出来るよ。して欲しいことがあったら言って。その通りにするから。鷲津も私のこと、好きにしていいから。誰の言うことも気にしないで、本当に、好きにしてしまっていいんだから」
彼のすることなら嫌じゃない。置いてけぼりを食らうのだって、嫌じゃなかった。だからこうして追いかけてきたんだ。今でも私の気持ちは変わらない。鷲津が好き。過去の分の埋め合わせをする為に、これからもっと好きになる。もっともっと尽くしてみせる。
「でも」
彼は、低い声で言う。
「佐山は……お前のこと、真剣に好きだったんじゃないのか」
「あいつのことなんてどうでもいいの」
笑顔のままで、切り捨てた。どうでもいい。鷲津以外の人間はどうでもよかった。要らなかった。
いっそこの世界に二人きりならいい。鷲津と私とで二人きりになって、彼が私を必要としてくれたら。私に彼の全てを受け止めさせてくれたら、それでよかった。
「あいつの言うこと、嘘じゃないんだぞ」
鷲津はまだ、佐山にこだわっているけど。
「俺、嫌われてるんだ。皆に。クラスの連中に。いや、もっとずっと前から……どこにいたってそうだった。誰とも仲良くなんて出来ない、嫌な奴なんだ。それなのに」
「私は嫌いじゃないよ。好きなの」
他の人なんて関係ない。そう思うから、私は彼の言葉を遮った。
靴を脱ぐ。彼の前に立つ。私を見下ろしている眼差しを、じっと見つめ返す。硬い表情の彼は、私をどんな風に見ているんだろう。今でも、変態だって思う？ おかしいって思う？ 物好きだって思う？
いずれにせよ、構わなかった。
「好きなの」
私は繰り返して、それから彼の腰に飛びついた。どすん、と鈍い音がして、彼はその場に仰向けに倒れる。私の視界も沈んだ。そのまま彼の上に馬乗りになり、更に告げる。
「本当に好きだよ、鷲津」
今度は私が彼を見下ろしていた。
鷲津は、引き攣った顔でいる。紙のように白い肌。首から下も同じ色をしていること、知っている。今でこそ、着衣の下に隠れてはいるけど。
「ねえ、私のこと、好きにしてもいいんだよ」
ゆっくりと唇を近づけながら、私は言う。途中で汗をかいていることを思い出し、重ねるのは止めておいたけど。
「それとも、汗をかいてる女の子じゃ嫌？」
可愛くはないはずだ。こんな酷い有り様で、おまけに会うなり押し倒してくるような女の子、絶対可愛くはないはずだ。
玄関の床は冷たそうだった。だけど鷲津は何も言わない。文句さえ言わず、呆然と私を見ている。
「変態な女の子は嫌い？」
尚も尋ねた。
「私のこと、嫌い？」
答えがなくても、続けた。
「好きになってくれなくてもいいから、嫌いにだけはならないで。私のこと、どんな風に扱ってくれてもいいから。利用してくれるだけでもいいから。鷲津が望むなら、どんなことだってするから。気持ちいいことでも、何でもしてあげるから」
自分で言うのもなんだけど、私、上手い方だと思わない？ 鷲津しか知らないにしては。知識の元がアダルトビデオとインターネットだけという割には。鷲津のこと、結構喜ばせてあげられたと思うんだけどな。
そういう女の子なら、必要でしょう。利用価値だってあるでしょう。
「本当に何でもしてあげる」
繰り返して告げた。
「復讐したい相手がいるなら、手伝ってあげてもいいよ」
他の人は見て欲しくないけど、もし、鷲津がそうしたいなら。囚われているものを振り払うのにそうする必要があるのなら、喜んで手伝ってあげる。佐山だろうと誰だろうと、鷲津の望むようにしてあげる。
「だから言って。どうして欲しいのか。私、その通りにするから。鷲津の言う通りにするから。鷲津がそうして欲しいと思う、望み通りの女の子になるから」
見下ろした顔に訴える。笑い続けるのも辛くなってきた。自分がどういう表情でいるのか、だんだんわからなくなってきた。
でも、好き。鷲津が好き。他のものは何も要らないから、鷲津を私だけのものにしたい。誰にも渡したくない。
鷲津は、じっと私を見ていた。震える瞳で私を見つめていた。何も言わずに押し倒されたまま、私に圧し掛かられたままでいる。いつもならぶつぶつと文句を言ったり、強がってみせたりするくせに、今日に限って何も言ってくれない。きつい言葉さえくれない。
代わりに、抱き締められた。
「きゃっ……」
思わず声が出るほど強く、潰れそうな勢いで抱かれた。私の身体は倒れて、彼と重なる。そのまま溶け込んでしまうかもしれない。そのくらい、きつく抱き締められている。
強い腕力とは裏腹に、直後の囁き声は震えていた。
「何もしなくていい」
私の耳元で、鷲津は言った。
「何もしなくていいから、傍にいてくれ」
縋る口調では、その言葉をどう受け取っていいのかわからなかった。何もしなくていいなんて、寂しい。もっと私を必要として欲しい。傍にはいたいけど。傍に置いてくれるのはうれしいけど、何でもするって言ってるのに。私、何でも出来るのに。
ただ私は、私も、鷲津からは離れたくなかった。だから黙って抱き締められていた。このまま潰されて、彼の中に閉じ込められてしまったって構わなかった。