Tiny garden

ずるいひと(3)

 何の策も取れないうちに、高校前のバス停に近づいていた。
 アナウンスが聞こえて、ブザーを押す。隣で佐山が身動ぎをする。もう着いてしまう。どうしたらいいんだろう。

 車窓から、見慣れた高校の佇まいが覗く。その前のバス停には、既に鷲津の姿があった。どんどんと近づいていく。やがて、停まる。
 バスが停まっても、鷲津はまだこちらを見ていない。俯き加減で待っていてくれた。姿があったことだけに、場違いにほっとした。
 だけどこの状況は――どうしたらいいのかわからない。どうしたらいい? このままじゃ、鷲津が、佐山と。
 ともかく降りなきゃいけない。そう思い、私は吊り革から手を離す。佐山も同じようにしたので、急いで釘を刺す。
「佐山はついて来ないで」
 彼は答えない。振り切る手段がもう浮かばない。私は逸る思いで降り口へと向かう。
 あとはもう、賭けに出るしかない。

 バスを降りると、ようやく鷲津が顔を上げた。
 目が合った瞬間は、切なくなるくらいの笑顔だった。
「久我原、おはよう……」
 挨拶の言葉はけれど途中で萎んで、彼の視線が滑るように動く。私の肩越しに誰かを見ているのがわかった。私の背後には、その時にはもう誰かがいた。
 最悪だった。
 鷲津の顔がみるみるうちに強張る。それが誰かをすぐに判別出来たらしい。高校時代とは変わっているはずの顔つきでも気付けたらしい。心なしか、血の気も引いていた。
 バスのエンジン音が遠ざかる。
 しばらく経った。
「……佐山」
 彼が、喘ぐように声を発した。
 途端、私の背後でも声がした。
「鷲津? 何で……まさかだろ?」
 すぐに私の肩は佐山の手に掴まれ、強引に振り向かされるところだった。素早く私はその場を離れて、鷲津の元へ駆け寄る。凍りついている彼へと詫びた。
「ごめん、鷲津。すぐに追い払うから」
 鷲津は何も言わなかった。言えないみたいだった。
 きっと、会いたくない相手だったはずだ。佐山は鷲津を笑ったクラスメイトのうちの一人。鷲津にとっては顔も見たくなかった相手のはずだ。なのにここまで連れてきてしまった、私の罪は重い。
 だから私が、責任を持って追い払う。佐山を、引っ叩いてでもこの場から立ち去らせてみせる。賭けのつもりだった。向こうだって、私に真剣に好きな相手がいると知ったら諦めもつくだろう。何か文句をつけようとするつもりかもしれないけど、それはさせない。制してみせる。
 私は鷲津を庇うようにその前に立った。そして佐山と向き合い、鋭く告げる。
「そういうことだから、帰って」
 目を瞠った佐山は、私と鷲津の顔を何度もしつこく見比べた。純粋に驚いている様子だった。なぜここに鷲津がいて、私が鷲津を庇おうとしているのか、まだわかっていないらしかった。
 その証拠に、少し笑いながら言ってきた。
「え? 久我原……まさか、だよな? お前の好きな奴って……」
 私はここぞとばかりに頷く。
「そうだよ」
 これで佐山も思い知るはず。そう考えて。
「鷲津が、私の好きな人。だから佐山のことは好きになれない。絶対に」
 語気を強めて言い放った。

 朝の空気はぴんと張り詰めている。
 私の背後にいる鷲津は、何も言わないままだった。気のせいか、荒い呼吸を繰り返している。気持ちを落ち着けようとしているのかもしれない。いきなりこんな事態になって驚いただろう。しかも私が連れてきたんだから、私が疑られて糾弾されたって不思議じゃない。なのに、黙っている。
 佐山はまだ、私と鷲津を見比べていた。信じがたいとでも言いたげに、大きく目を見開いていた。口元はまだ微かに笑んでいて、彼の動揺が十分に伝わってきた。
 縋るような気持ちで、私は鷲津に手を伸ばす。彼の手はすぐ傍にあった。触れると冷たい。軽く握っても、彼は抵抗一つしなかった。
 この手を離さない。ずっと繋いでいられるように、何にでも立ち向かってみせる。何だってしてみせる。

「……冗談、じゃないのか?」
 次に口を開いた時、佐山はそう言ってきた。
 相変わらず笑いながら、だけど震える声で続ける。
「久我原、本当に鷲津が好きだって言うのか?」
「そうだけど。おかしい?」
 むっとしながら問い返す。すると佐山はゆっくりかぶりを振った。
「おかしいって言うか……だって、ずっと同じクラスにいたのに?」
 だから何だって言うんだろう。確かに、私が鷲津を好きになったのはあの日、卒業を間近に控えた冬のことだったけど――あの日のあの瞬間までは、親しくもない一クラスメイトにしか過ぎなかったけど、そんなことはどうだっていいはずだ。大事なのはきっかけじゃない。今、鷲津が好きなんだっていうこと。
「こいつがどういう奴か、久我原、知ってるだろ?」
 佐山は鷲津を、顎で指し示してみせた。高校時代には見せなかった傲慢な態度。
「クラスで浮いてたじゃないか。自分からは全然溶け込もうとしないでさ、俺たちが声を掛けたって知らないふりで、学校行事にもろくに協力しないで。足並みを乱す時はいつもこいつのせいだった。団結力のないクラスだって、こいつ一人のせいで先生から怒られたこともあったよな?」
 そう、だった?
 親しくもない一クラスメイトだった頃の鷲津を、私はよく覚えていない。ただクラスの友人たちの評価が辛いことだけは知っていた。それを私はあの日まで、何とも思っていなかった。
「いつだってあからさまに俺たちのことを見下してた、そういう奴だよ、鷲津は。他人のすることをいつも鼻で笑って、馬鹿にするような態度を取ってた。せっかく輪に入れるようにあれこれ声を掛けてやったっていうのに誰のことも相手にしなかった。結局、俺まで嫌いになったよ」
 佐山は言う。鷲津のことを、そんな風に評する。
 私の知らない鷲津の姿を。――笑われていたのは、鷲津の方じゃなかったの? だって彼は、そう言ってたのに。
 繋いだ手はまだ冷たい。ぎゅっと握っても、握り返しては来ない。
「久我原は、こいつのどこが好きなんだ?」
 無遠慮に佐山は、こちらへと踏み込んでくる。
「好きになる理由なんてないだろ? 俺たちだってそうだったのに。何で好きになれるのか、教えて欲しいくらいだ。こんな奴――こんな、最低の奴」
 冷たい口ぶりでばっさりと切り捨ててくる。
「好きになったって振り向いてくれないような奴なんだろ? 鷲津ならそういうのも納得出来るよ。そういう、性格してるもんな」
 もちろん信じたくはなかった。佐山の言うことなんて聞く耳持つつもりはなかった。鷲津はそんなに酷い奴じゃない。私の、好きな人だもの。
 だけど私は、あのクラスのことなんて何も覚えてない。仲のいい友達の言葉と、卒業間際に落ちた恋以外の思い出はどうでもよくなっていて、既に記憶すら曖昧だった。関心がなかったというのもその通りなのかもしれない。私は、今の鷲津にしか関心がなかった。だからあの頃の鷲津がどんな奴だったのかは。
「そんなの――」
「わかった、わかったから」
 反論の言葉を考えながら口を開きかけた時、背後で、彼の声がした。
 と同時に、繋いだ手がするりと、解けた。
「もう放っといてくれ、俺のことなんて」
 苦しそうな呼吸の下、鷲津が言った。
「思い出したくないんだ、あのクラスのことも、高校時代の話も」
 かすれた声なのに、どこか悲鳴のようにも聞こえた。鷲津が悲鳴を上げている。私のせいで。佐山のせいで。
 思わず振り向いた私は、そこで見た。鷲津は既に踵を返していた。一呼吸の間に駆け出した。こちらを見ないまま、たちまちのうちに離れていく。足音が、背中が遠くなる。
「鷲津っ!」
 私も叫んだ。置いていかれるのは嫌だった。なのに追いかけようとしたら、手首をぐいと引っ張られた。
「追うな!」
 佐山まで叫んでいた。手を振り解こうともがいても、ちっとも外れなかった。
「離して! 離してったら!」
「あいつはお前を置いて逃げたんだぞ! あんな卑怯な奴、追うなよ!」
 その言葉が突き刺さって、とっさに呼吸が出来なくなる。

 そんなのわかってる。当たり前だ。
 鷲津は私を助けてはくれない。連れて行ってはくれない。だって彼女じゃないもの。恋人じゃないもの。利用されてるだけの存在、だから。
 それでも、好きだった。鷲津がどんな奴だとか、皆からどう思われてるかとか、関係なかった。鷲津が私を必要としてくれたらそれでよかった。恋ってそういうものじゃない? 違う?
 私を置いて逃げる鷲津も、ちっとも悪くない。ずるくない。当たり前のことをしてるだけだ。

 彼の背中は、もう見えなくなっていた。
 だけど私は佐山の手を、どうにか振り払った。力任せに解かせた。
「あんな奴、止めろよ!」
 佐山は言う。真剣な眼差しを私に向けてくる。嘘をついている顔には見えない。佐山の言ったこと、嘘じゃないのかもしれない。
 そうだとしても、私は――。
「止めない!」
 言い返した。
「好きなの! そういうところも全部っ!」
 鷲津の全部が好き。たとえ置いていかれたって、見捨てられたって好き。本当は嫌な奴だとしても好き。皆から嫌われてたって、私は好き。
 ただ、好きになるのが遅過ぎた。
 卑怯なのは、ずるいのは私だ。
「何もかもひっくるめて、全部好きなんだから! 追いかける覚悟だって出来てる!」
 置いてかれたって、捨てられたって、嫌いになられたって、追いかけるつもりでいた。ストーカーなのはむしろ私だ。佐山よりもずっと、おかしいのは私だ。ずるくて、おかしくて、変態で、でも狂おしいくらいに鷲津を好きでいるのが、今の私だ。
 鷲津が欲しい。私のものにしたい。誰に何を言われたって。
「久我原……!?」
 佐山が、一瞬怯んでみせた。
 その隙を突いて、私もアスファルトを蹴った。鷲津の去っていった方向へと走り出す。追いかける覚悟はとっくに出来ている。

 佐山はもう、追いかけては来なかった。
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