Tiny garden

その時君は泣くだろう(1)

 鷲津の家は静かだった。
 いつ来ても彼しかいなくて、しんとしていた。
 だから、抱き締めてくる彼の鼓動がよく聞こえた。速いのか遅いのかはわからない。ただ規則正しく続いている。その音と身体の温もりがなければ不安になっていたかもしれない。鷲津は、眠ってしまったみたいにずっと黙っていた。
 私たちはまだ玄関にいた。フローリングの床の上で重なり合っていた。玄関マットがあったとしても、彼の背中は冷たいはずだ。フローリングは硬いはずだ。なのに彼は身動ぎ一つしない。黙っている。呼吸さえ潜めている。

 どうしていいのかわからなくて、私は目を閉じていた。何もしなくていいと言われるのは予想以上に苦痛だった。鷲津の為ならどんなことでも出来る、その一心でここまで駆けてきただけに――何か、出来ることがあったらいいのにと思う。傍にいるだけじゃなくて。こうして抱き締められているだけじゃなくて。鷲津がもっと、幸せになれるようなことが私に出来たらいいのに。私が鷲津を幸せに出来たらいいのに。
 でも、鷲津の幸せってなんだろう。彼のこと、私はまだ少ししか知らない。彼の望むことなら何でもしてきたつもりだけど、それで彼が幸せになれたかどうかはわからなかった。鷲津は私を利用してきたはずだけど、それで満足していたんだろうか。彼の望むようになっていたんだろうか。そのことすら私は知らない。
 知っているのはただ、彼が――私に感謝しているということ。どういう意味合いで、いつ、何をしたことに感謝されているのか、ちっとも知らなかったけど。感謝してくれてることは知っている。たったそれだけは。

「……鷲津?」
 沈黙に耐えかねて、ふと、名前を口にしてみた。
 途端に腕の力が強くなる。息も出来ないくらいに、きつく抱かれた。
「ちょっ……く、苦しいっ」
 思わず私は呻き、鷲津の腕がほんの少し緩む。
「悪い」
 かすれた謝罪が後に続いた。かぶりを振って応じれば、押さえるように頭に手を置かれた。そのまま髪を撫でてくる。出掛けには決まっていたはずの髪。今はもう、めちゃくちゃになっているだろう。
「礼を言いたかったんだ、ずっと」
 鷲津がぽつりと言った。
 顔を上げようとしたけど、髪を撫でる手に阻まれた。仕方なく、彼の胸の上で伏せたまま、彼の言葉を聞いた。
「お前がいなければ、俺はここにはいなかった」
 彼の声は震えていない。むしろ、淡々としていた。
「あの日、お前が来てくれなかったらと思うと……すごく、感謝してる」
 彼の心臓の音も、規則正しく続いている。
「覚えてるだろ? 卒業前に、教室で話した時のこと」
 もちろん忘れるはずがない。鷲津の解釈はどうあれ、私にとっては初めての一目惚れの瞬間であり、初めて愛の告白をした記念すべき日でもある。あの日のことは、きっと一生忘れない。
 私は頷きたかった。だけど彼がそうさせてくれず、声でだけ答えた。
「うん」
 くぐもった返答をどう思ったか、彼は溜息をつく。
 その後で言った。
「誰もいないと思ってたんだ。あの日……放課後、教室から誰もいなくなるまで待ってた。廊下を通りかかる奴がいても困るから、本当に誰もいなくなって、静かになるまで待ってた。結構遅くまで待ってたのに、お前はいたんだよな。どうして残ってた?」
 確かに、あの日の帰りは遅かった。私の友達だった子たちも皆、先に帰ってしまった時間帯。
「バスの時間を待っていたから」
 思い返して、私は告げる。
「外で待つのは寒かったし、だったら、校内をぶらついてようと思って。特に意味はなかったよ」
 なかった、と思う。
 今考えると運命だったのかもしれない。あの日、バスの時間まで校内にいたことも。教室の前を通りかかったことも。
 だけど鷲津はこう言った。
「そうか。じゃあ、本当に偶然だったんだな」
 違う。運命だってば。
 訂正しようとした私を、彼の言葉が遮る。
「俺、あの日――」
 不意に、声がワントーン沈んだ。
「死のうと思ってたんだ。教室で」
 でも震えずに聞こえた。意外なくらい淡々としていた。
 だから私は、その言葉の意味を、すぐには理解出来なかった。
「……え?」
 顔を上げたくなった。なのに、彼の手が許してくれない。むしろ見せまいとするみたいに強く、頭を押さえつけてくる。
「鷲津、それって」
 くぐもった声でだけ反応する。問い返した私に、彼は尚も淡々と続ける。
「自殺しようと思ってた」
「う……嘘。嘘でしょう?」
「本当。出来る訳ないって思うか?」
 問いかけ方はどことなく挑発的でもあった。私は答えに詰まったけど、瞬間、あの日の情景がそっくりそのまま脳裏によみがえった。

 誰もいない教室で、疲れた、と呟いた鷲津。
 彼が解いた赤いネクタイ。
 ほとんど口を利いたこともなかった私に対して、やけにとげのある物言いをした彼。
 そして――ネクタイは拘束の象徴。早くここを、学校を出て行きたいと言った鷲津は、卒業を楽しみにしているのだと思っていた。拘束を解かれて自由になりたいと望んでいるのだと。でも本当は、自らの手で拘束から逃れようとしていたのかも、しれない。

 わかる、ような気がした。
 わかりたくはなかった。
 私は半ば強引に、彼の手から逃れるようにして顔を上げた。そして床に倒れたままでいる彼を見下ろした。鷲津は穏やかな表情でいた。
「どうして……?」
 尋ねようとした、私の声が震えてしまった。動揺している場合じゃないのに、鷲津の真意を確かめたいのに、質問さえ上手く出来ない。ショックだった。だってそんな風には見えなかったし、今の今までそんな可能性を考えもしなかった。誰が思うだろう、好きな人が、死のうとしてただなんてこと。
「久我原には、わからないだろうと思う」
 鷲津は妙に冷静だった。私よりずっと落ち着いていた。
「俺みたいな奴は、いなくなってもどうってことないんだ。俺が死んでも誰も悲しんだりはしないし、むしろせいせいしたって思う奴もいるはずだ。だったら……生きてたって意味ないって考えても、おかしくないじゃないか」
 わからない。やっぱり、わかりたくなかった。意味がないなんてこと、おかしい。そんな理由で死のうとするなんておかしい。
「昔からそうなんだ。人付き合いが苦手だった。人に合わせるのが嫌で、そのくせ人の目がやけに気になった。あれこれ言われるのが鬱陶しいから、そういう連中からは遠ざかって、出来るだけ無関心でいようとしてた」
 こちらを見上げる彼が、微かに笑ったようだった。
「でも、無関心でいるのは難しかった。人付き合いが下手なくせに他人の目が気になるなんて最悪だ。全部、はっきりわかるからな。人に笑われてるのも、陰口を叩かれてるのも、嫌われてるらしいのも――」
 無関心そうに見えていた、と言われたことがあった。鷲津にも、佐山にも。
 私を指してそう言うくらいだから、鷲津はきっと無関心ではなかったんだろう。ほとんど口を利いたことのなかった一クラスメイトに対してさえ。クラス中、皆のことを見ていたのかもしれない。見えてしまったのかもしれない。
「毎日、辛かった。俺が悪いんだってわかってるけど」
 鷲津が一度、目を伏せた。すぐに開いて、また私を見る。真っ直ぐに。
「もうすぐ卒業だと思って、我慢するつもりでいた。でも、自宅学習が終わって学校に戻ってきたら、やっぱり耐え切れないと感じた。昔からずっとこうなんだ、進学しても同じことの繰り返しじゃないかと思った。それに」
 彼の眼差しは真剣だった。
 私には、痛いくらいだった。理解出来ない。そのくらいで死のうと思うなんて。でも、鷲津には理解出来ることなんだろう。鷲津にとっては、その時は、納得のいく答えだったんだろう。
「進学前に死ねば、親は余計な金を使わずに済むだろうと思って……そういうことを考えてるうちに気持ちが固まった。きっかけとかは特になくて、ふと思ったんだ。そうしようって。それで、実行に移す気になった」
 それがあの日のこと、だったんだ。
 もし私があの日、教室の前を通りかからなかったら。鷲津を見かけて、声を掛けたりしなかったら――。
「場所は、教室がいいだろうと思った」
 淡々とした告白は続く。
「復讐のつもりだった。俺を笑った連中に対して。無関心でいてくれたらよかったのに、それすらしてくれなかった連中に、最後に思いっ切り嫌な気分を味わわせてやりたいと思ってた」
 悪趣味な復讐だ。そのくらいならまだ、私を利用してくれる方がいいのに。
「なのに、お前が来た」
 鷲津はまた、笑ってみせた。
「最初はすごく驚いた。もしかしたら、俺が何をしようとしてたか知ってるんじゃないかとか、ばれたらどうしようかとか、そんなことばかり考えてた。早く帰ってくれればよかったのに、お前、一向に帰る気配なかったし。わざとなのかと思って、内心焦ってたくらいだ」
 彼にとっては偶然として、私にとっては運命として、あの日の教室でお互い、出会った。脈絡もなく彼に言い寄った私は、彼の目にはどんな風に映っていたんだろう。
「お前がああいうことをしてきたのも、実は、ばれてるからなんじゃないかと思った」
 そこだけは少し言いにくそうにしていた。
「俺が死のうとしてたのに気付いて、それで……久我原は、俺をからかってやろうとしてるのかとか、このことをネタに後で脅すつもりでいるんじゃないかとか、そんな風に思ってた。だってあんな迫り方されて、本気かどうかなんてわかる訳ないだろ」
「――本気だったよ、私」
 とっさに反論すると、鷲津はわかってる、と小声で言った。
「だから、今は感謝してるんだ。お前が来てくれたことに」
 穏やかな表情が視界の中で滲んだ。
「運命だったのかもしれない。今は、そう思ってる」

 運命だったんだ、本当に。
 あの日、私が教室の前を通りかかったのも。廊下から、教室にいる鷲津を見かけて、強く惹きつけられてしまったのも。そのまま鷲津に言い寄って、押し倒して、告白して、キスまでしたのも――全部運命だった。この運命がなかったら、鷲津は、多分。
 そんなの嫌だと思った。そんな運命は嫌だ。一歩間違えば好きな人がいなくなってたかもしれない運命なんて。鷲津がここにいてくれなかったかもしれない運命なんて。最悪だ。そんなの嫌だ。
 どうせなら、もっと早く好きになっていたかった。
 鷲津がそんなこと、死のうだなんてこと、絶対に考えられないくらいに。ずっとずっと前から好きでいられたらよかった。早いうちから好きになって、本気で好きなんだってこと、もっと早くに伝えられたら。

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