Tiny garden

白い羽(6)

 机の上から降りるのに、鷲津の手を借りた。
 借りたと言うより、抱えてもらったようなものだった。弛緩する手足は思いのほか言うことを聞いてくれなくて、彼に預けるしかなかった。彼も体力は残っていなかったのか、二人、床に崩れ落ちてしまった。
 お互い、まだ呼吸が荒い。服を着ていない身体は、どこもかしこもしっとりと汗ばんでいる。鷲津の吐息は熱く、短い間隔で繰り返し降ってきた。それも心地いいと思う。
 体重を預けるくらいに寄り掛かっても、彼は文句を言わない。だから素直に甘えることにした。彼の胸で、彼の鼓動を聞いていた。

「寒くないか?」
 鷲津が尋ねてきた。
 私は緩くかぶりを振る。
「ううん。まだ、大丈夫」
 暑いくらいだった。ちょうどお昼時だろうか、窓から射し込む陽の光が、二人でいる部屋を暖め始めている。奥底から滲んでくるみたいに汗が浮かんで、時々流れ落ちるのがわかった。暑い。熱い。でも、彼から離れたくない。
「風邪引かれると困るから」
 そう言うと、鷲津は自分のベッドに腕を伸ばした。掛け布団を撥ね退け、その下にあったタオルケットをぐいと引っ張る。手元に引き寄せたタオルケットで、私と彼自身とを包んでくれた。温かい。
「ありがとう」
 お礼を述べて、私は目をつむる。こうしてぼんやりしているのも幸せだった。心が、直前までの情景と充足感と、気持ちのいい疲労とで満たされている。このままふわふわとまどろんでしまいたいような、でも、起きていないともったいないような、不思議な感覚だった。
 鷲津もあれきり黙っている。私を抱きかかえるようにして、支えてくれている。眠いのかもしれないし、疲れたのかもしれない。だけど私を離すことはせず、静かに、座っていてくれた。

 いつよりも穏やかな時間がここにはあった。
 前からそうだった。全て終えてしまった後の方が、私たちの間にある空気は穏やかで、優しくなった。本当の恋人同士みたいだって、錯覚してしまいそうなくらいに。
 肌を合わせたままでも、鷲津は何も言わない。汗ばんでいる私の身体は決してきれいではないはずなのに、彼は文句一つ言わないで、私を傍に置いていてくれる。そのことが不思議に感じた。
 ドラマなんかでは、終わってしまった途端に冷たくなる男の人がいたりする。鷲津もその類だったら嫌だなと思っていたのに、そんなことはなかった。些細なことだけど、幸せだった。

「すごく、幸せ」
 声に出して呟く。
 すると鷲津は、ごく微かに笑ったようだった。
「幸せだって?」
「うん」
 私は顔を上げず、彼の胸元へ頬をすり寄せた。柄にもなく甘えたような仕種も、今なら容易く出来た。
「好きな人とこうしてるの、幸せに決まってるじゃない」
 恋をしてたら当たり前のこと。だから私にはわかるけど、鷲津にはわからないのかもしれない。
 現に、首を傾げてみせていたから。
「安い幸せだよな」
「そんなことないよ」
 すぐさま言い返したけど、鷲津も冷静な口調で反論してくる。
「もっと幸せなことだってあるんじゃないのか? お前になら」
「そうかな。例えば?」
「この間も言ったけど」
 耳元では、彼の心臓の音が聞こえていた。呼吸が整っていないせいか、どきどきと速い。
「お前のことを好きな奴の方が、お前を幸せにしてくれるかもしれない」
「……また、その話?」
 いくら鷲津の言葉でも、その話にはうんざりしていた。だって私には好きな人がいるもの。他の人なんてどうでもいい。
 だけど、鷲津は淡々と続ける。
「自分が好きな奴といるよりも、自分のことを好きでいてくれる奴といた方が、幸せになれるものだろ? 俺はそう思う」
「私はそう思わないけど」
 そこまで言うなら、鷲津には好きな人がいるんだろうか。
 鷲津にとっては好きな人でも、鷲津のことは好きになってくれなくて、幸せにもしてもらえなかったような――そんな人がいるんだろうか。
 考えたくなかった。
「俺といて、幸せか?」
 彼からの質問。素早く、頷く。
「うん。すごく幸せ」
「俺はお前のこと、好きじゃないのに?」
 一瞬、言葉に詰まった。でも、なるべく間を置かずに答えた。
「それでも幸せ。だって、今も感謝はしてくれてるんでしょう?」
 視線を上げれば、ちょうど彼も私を見下ろしていた。目が合うと、気まずそうに逸らされた。ぼそぼそと返事があった。
「まあ、な」
「それなら、今はそれでいいの。十分、幸せだよ」
 好きな人に必要とされてて、好きな人にこうして会ってもらえて、そして好きな人に感謝されてるんだから、十分だ。今はこれだけでも。
 いつか絶対、好きにさせてみせるから。
「大体、鷲津の言う理屈が合ってるなら、鷲津は今、幸せってことじゃない?」
 私は彼に水を向けた。
 こちらを見ないままで、鷲津は眉根を寄せている。
「俺が?」
「そう。私は鷲津のことが好きだし、幸せにしたいって思ってるもの。だったら、鷲津は幸せになってなきゃおかしいでしょう」
「……ああ」
 そっけないそぶりで相槌を打つ彼。見上げた顔はなぜだか、悔しそうに見えた。
 逆におかしくて、思わず笑ってしまった。
「鷲津は今、幸せ?」
「考えたこともない」
「じゃあ考えて」
「無理」
 にべもなく答えた鷲津は、その後で私を、目の端で見た。そして何かを思い出したようにふと、言った。
「でも、俺のことを好きだって言ってるのは、お前くらいのものだ」
 その言葉はうれしかった。彼本人には申し訳ないけど、やっぱりうれしい。ほっとする。
「そっか。ライバルがいなくてよかった」
 私が胸を撫で下ろせば、
「いる訳ないだろ」
 鼻を鳴らして、言葉は続く。
「口を利いてくれる相手だって、お前くらいしかいないのに」

 どういう意味、と問う前に、鷲津は私を抱く腕を緩めた。タオルケットだけを私に押しやると、自分は散らばった服を拾い集め始める。
「喉渇いたろ? 紅茶、入れ直してくる」
 タオルケットに包まりつつ、とっさに答えた。
「え、いいよ。そこにあるので」
 机の上、放ったらかしになっている紅茶とコーヒーのカップがある。それに目を向けた鷲津は、肩を竦めてみせた。
「もう冷めてるし、不味いに決まってる。少し待ってろよ」
「気を遣わなくてもいいのに」
 私はそう言ったけど、鷲津はさっさと服を着て、それから立ち上がった。結局手を付けられることのなかったトレーを持ち、部屋を出ていこうとする。
 戸口で一旦、振り向いた。
「お前、昼飯はどうする? 何か持ってくるか?」
「ううん。鷲津がいてくれたら十分」
 もちろん、本気のつもりで告げた。でも、彼には笑われた。
「何言ってんだ。菓子パンくらいしかないけど、持ってきてやる」
「……ありがとう」
 私のお礼を背に、鷲津は部屋を出る。階段を下りていく足音が遠くなる。たちまち、辺りは静かになる。

 風の音が戻ってきた。
 窓の外、真昼の空はぼんやりした青だ。
 鳥の羽みたいな花びらは、今はどこにも見当たらない。鷲津がここにいないせいかもしれない、とおぼろげに思う。私はまだ、彼を閉じ込めてはおけない。
 どうしたら、ちゃんと拘束しておけるだろう。
 どうしたら、彼が私以外の他のことに、囚われずにいてくれるだろう。
 答えはまだ見えない。でも――諦める気はさらさらなかった。だって、好きだから。

 結局、その日は夕方まで鷲津の家にいた。
 二人でだらだらと過ごした。菓子パンを食べて、水分だけはやたらに摂って、カーペットの上でも一度、した。それだけ一緒にいても、彼は私のことがわからないと言っていた。
 私も、鷲津のことがよくわからなかった。
 わからなくても好きだから、一緒にいれば幸せだから、別に、いいのかもしれないけど。
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