白い羽(5)
――感謝?感謝って、何のこと?
好きにはなれないのに感謝はしてるって、どういう意味?
疑問に思う私から、鷲津は身体を引いた。腕がすんなり外れた。机の端に引っ掛けている、私の膝に両手を置く。膝を立てさせた後で、軽く力を込めてくる。私は抵抗せず、ぐらりと膝頭が開く。
脚に触れられるのは、どこに触れられるよりもずっとくすぐったい。でも、気持ちがいいのとは違うようでもある。滑らかな指が私に溶け込もうとする、その過程こそが気持ちいい。
彼の手になぞられる身体は、けれど普段よりも鈍感だった。上手くのめり込めない。頭の片隅で、不安とも疑念ともつかない感情が疼いている。
「ねえ」
私は、鷲津に声を掛ける。
彼は顔を上げない。私の太腿を撫でながら、胸にも噛みつこうとしている。さっきまでは見向きもしなかった私の身体に夢中だ。
こっちは、それどころじゃないのに。
「感謝してるって、どういう意味」
吐息と共に尋ねる。
答えはなく、彼がちらとだけ視線を上げた。すぐに逸らされた。
「私、何か鷲津に、感謝されるようなことした?」
したような覚えはなかった。
もしあったなら、私はそうする。鷲津に感謝されるようなことがあるならいくらでもする。何でもする。何度でも繰り返す。
だから教えて欲しかった。私を、好きになれないって言うなら。それでも私と会ってくれるなら、せめて教えて欲しかった。
「した」
二人分の呼吸に紛れてしまうような、微かな答えが聞こえる。
「それって、何」
更に尋ねた。また、吐息と一緒になった。
「教えない」
愛想のない声。それで私は眉を顰める。
「どうして? 知りたい。教えてよ」
「聞いてどうするんだよ」
「また同じこと、するから。これからも、鷲津に感謝してもらえるように」
私に出来ることがあるなら、知りたい。彼に喜んでもらえること。彼に感謝してもらえるようなこと。これからもするから。いっぱいするから。
だけどその時鷲津は、弾かれたように顔を上げた。表情が強張っていた。むしろ、怯えたような口調で、思わずといった様子で告げてきた。
「もうしない。もうしないから……気にするな」
「え?」
「いいんだ、済んだことだから」
早口気味にそう繰り返す。悪いことをして、言い訳をする時みたいに。
もちろん、私は知らない。何も知らない。彼が何に怯えているのか、何を『もうしない』のか、何が済んでしまったことだと言うのか。それなのに彼はびくびくしている。私を見て、酷く怯えている。
「言いたくないなら、聞かないけど」
私は、結局、そう言った。
本当は食い下がりたかった。でも、鷲津は言ってくれないだろうと思った。教えてはくれないだろうし、知ったところで、それが鷲津の心を占めてしまっていることもわかってしまう。悔しくて、妬ましくて堪らなかった。私よりも強く鷲津を拘束している、虜にしている何か、が。
「じゃあ、聞かないでくれ」
あからさまに安堵した様子の鷲津が、表情を少し緩めた。隠そうともしないそぶりに腹が立った。
やっぱり、止めた。
今日は彼の好きなようにさせてあげようと思ったけど、止める。させてあげない。
おもむろに、彼の顎を片手で掴む。軽く引き寄せた。鷲津は気を抜いていたのか、ほとんど逆らわずに身体を傾げてきた。
不意打ちのタイミングで乾いた唇に口づける。かさかさした唇を舌で割る。ようやく気付いたように鷲津が反応を見せたけど、もう遅い。その時にはもう、舌までしっかり絡めている。
思い知らせてあげる。私の全力。私が、どれほどに鷲津のことを好きでいるか。私がどれだけ彼を愛せるか。離せなくなるほど焼きつけて、刻みつけて、いつか好きにならずにはいられないようにしてあげる。
好きにはなれないかもしれない、彼はそう言ったけど、少し前までは私に感謝をすることさえ出来なかったはずだ。そういう態度じゃなかったの、ちゃんとわかってる。だんだんと丸く、柔らかくなっていく彼を目の当たりにしているから。
感謝してもらえただけでも大きな進歩だ。
そのうちに、好きって言わせてみせる。
自信がある訳じゃない。でも諦めるつもりはないし――そうだ、鷲津のことをずっと好きでいる自信はある。大いにある。
だから。
長いキスの後、私は上体を低くして、目の前に立つ彼の首筋に噛みついた。軽く歯を立てつつ、手ではシャツの裾を捲る。素肌に触れてみる。温かい。
「ひゃっ……」
鷲津は声を上げていた。私の手が冷たかったからだろう。逃れようと身を捩りつつ、文句を唱えてくる。
「久我原、お前、手が冷た過ぎ」
「だったら暖めて」
ややぞんざいな物言いだと思ったけど、言い直す気にはなれなかった。今日はもう、好きなようにしてやるって決めたから。とことん意地悪にしてあげる。
「机の上、すっごく冷たいんだから」
私は言うと、今度は彼の耳朶に噛みつく。音を立てて味わう。それほど激しくしないうちから、彼が、くたりとする。
「そこは……耳は、止めろっ、て」
彼の声は途中で引っ繰り返った。
「止めろ、立ってられなくなるから……」
なら、立っていなければいい。
緩む口元を隠しつつ、私は再び彼を引き寄せる。彼はほとんど倒れ込むようにして身体を折り、その手が、机上のトレーにぶつかった。また紅茶とコーヒーが波打ったようだ。もうどちらも、湯気を立ててはいない。
私の背中に腕を回した鷲津は、ちらと顔を向けてきた。既に頬が上気していた。睨む目は熱く潤んでいる。
「お前って、絶対におとなしくしてないんだな」
「おとなしくしてなきゃいけない決まりなんてあるの?」
挑発するのもためらわなかった。
「鷲津だって、嫌じゃないんでしょう? まんざらでもないんでしょう?」
「……可愛くない奴」
彼が呻いた。
そういう言い方をされると、こっちだって引けなくなる。
「可愛い女の子が好きって訳でもないって、この間言ってなかった?」
覚えてる。忘れられなかった。
あれは、ちょっとくらい生意気で、ラブシーンでも黙っていないような女の子の方がいいってことだったんでしょう? それどころか鷲津を翻弄して、焦らして、いたぶって、抵抗出来なくなるくらいにめちゃくちゃにしてくれるような女の子が好きだって、そういう意味だったんじゃないの?
だったら、そういう女の子になってあげる。
徹底的に、めちゃくちゃにしてあげる。
「鷲津が望んでるような女の子になりたいの、私」
耳元に息を吹きかけるように、告げた。
彼が目を閉じる。濡れた唇が開いて、喉の奥から声が零れてくる。
「本当に怖いものなしなんだな、久我原」
呆れたようにも、感心したようにも聞こえる言葉が聞こえる。
私はそれには応じずに、まず彼の服を脱がすことから始めた。相手があまり協力的じゃないから、シャツを剥がすのさえてこずった。だけどどうにか達成して、首と腕から抜いて、床に放り投げた。
次に、ジーンズのベルトに手を掛けた。だけど彼は嫌がって、私の手を外してみせた。
「止めろって」
そのまま指を絡めて、ぎゅっと握られた。
身体よりも先に繋がれた手は、意外にも、外れないままだった。鷲津の白くきれいな手が、私の手を拘束している。合わせた手のひらが、とろけていく。
「手を繋いでくれたの、初めてじゃない?」
私は思わず口にして、今度は彼から苦笑を貰った。
「お前って、よくわからないな」
「そう?」
「手を繋いだくらいでうれしがるくせに、人の服脱がすのも平気な顔でするんだから。まともなのかそうじゃないのかわかったもんじゃない」
女の子って、得てしてそういうものだと思うけど。
些細なことがうれしい。でも、『些細なこと』だけで満足出来る訳じゃない。
だから私は、鷲津が欲しい。
むしろ鷲津の方こそ、よくわからないことばかり言ってる気がするけど――それも直に、どうでもよくなった。
彼の白い肌を目にしたら、途端にのめり込めてしまった。