小さな君へ(1)
桜の花びらはややもせず、全て散ってしまった。葉桜の季節を迎えても、特に何かが変わるということはなかった。
私個人のキャンパスライフは概ね平穏といったところだ。交友関係はじわじわと薄く延ばされて、顔見知りの数が増えた。携帯電話に登録しているメールアドレスも増えた。頻繁に連絡を取り合っている相手はほんの一握りだったけど。
広く浅い交友関係において一番厄介だったのは、プライベートに関する質問だった。こと彼氏の有無については、まるで挨拶みたいにしょっちゅう尋ねられた。これは高校時代にはなかったことだ。窮屈な場所に押し込められている間柄では、隠し事をするのも難しかったから――私と鷲津の関係ももう少し前から始まっていたなら、隠し切れなかったかもしれない。
ともあれ、その手の問いには頭を悩ませている。彼氏はいなかった。今も昔も。だけど好きな人はいる。今も変わらずに。そんな事実を浅い付き合いの友人たちに説明するのはいささか面倒だった。早く、彼氏がいるって言えるようになれたらいいのに。問いに答える時の私は、自然と苦笑していた。
そういう時、友人たちの追及をやり過ごした後で、私はいつも鷲津のことを思った。彼も新生活において、彼の通う大学において、こんな問いをぶつけられたりするんだろうか。彼女はいるかと聞かれて、苦笑を浮かべる時があるんだろうか。鷲津にはどんな友人がいるんだろう。高校時代、あのクラスで孤立していた彼は、今はどんな人間関係を築いているんだろう。
――口を利いてくれる相手だって、お前くらいしかいないのに。
この間、彼の部屋で会った時。彼は私にそう言った。
それはとても寂しい言葉だったし、けれど容易に察しのつく事実でもあった。私の記憶にある限り、高校の教室の中にいた鷲津はいつも一人きりだった。からかいや馬鹿にするような笑いを向けられて、蔑むような顔つきをしていることが多かった。あるいは無関心を装うようなそぶりを。
今も、そうなのかもしれない。進学先でも彼は孤立して、周囲の人間を蔑んだり、関心なさそうに無視を決め込んだりしているのかもしれない。そういう状況を彼自身が望んでいるのかどうかは、私にもわからない。ただ胸が痛んでいた。
鷲津は、私に何かを隠してる。
その隠し事が彼を、鳥かごみたいに捕らえてしまっている。
知りたくなった。鷲津の隠し事。私に感謝していると言ったその理由。私そっちのけで囚われてしまうような隠し事から、彼を奪い取りたいと思う。
彼を捕まえるのは私。
他の誰でも、何でも駄目。私じゃなくちゃ駄目だ。
葉桜の季節を迎えてすぐに、鷲津から連絡があった。
『……今、大丈夫か?』
電話越しの声は相変わらず無愛想で、でもどこかたどたどしい口調をしていた。こちらの都合を気にしてくれているところも彼らしい。
ちょうど大学からの帰りだった。バスを降りて家へ向かおうとしたところで、彼からの電話を受けた。私は携帯電話を片手に、夕暮れの道を歩き始める。
「平気だよ。帰るとこだから」
自宅近くの住宅街は、夕暮れ時になると静かだった。ほとんど人気がなくなる。こつこつ言う足音と、私の声だけがひっそり響いていた。
『ならいいけど』
鷲津は関心なさそうに言った。彼はもう家にいるらしい。通話先の番号が自宅のものだった。携帯電話は持たないんだろうか、聞いてみようと思ったこともあったけど、結局聞けずじまいだ。
必要ないのかもしれない、そう思うと聞けない。
「今回は割と早めに連絡くれたね」
言いつつ、思わず笑ってしまった。
前回の逢瀬から二週間。私にとってはまだ長いくらいの間だったけど、彼にとってはどうなんだろう。少しは寂しがってくれてるといいんだけどな。
『そうか?』
訝しげな声が返ってくる。
『たまたま、次の週末が空いてたから。どうせ暇だし、会ってやろうと思って』
「うれしいな。暇だと私に会ってくれるんだね」
私が言うと、鷲津の声はたちまちとげとげしくなった。
『久我原』
「ん? なあに」
『お前って本当に可愛くないよな』
いつもの台詞。でも、彼に可愛くないと言われるのはうれしい。彼の好みがどんな女の子か、薄々勘づいているから。
『そういう物言い、むかつくんだよな』
ぼそりと呟いた彼は、そのままのトーンで続けた。
『こっちは会いたがってるなんて一言も口にしてないのに、まるで好きで会ってるみたいな言い方だ』
会いたがってるんじゃないなら何だって言うんだろう。ボランティア? しょうがなく会ってやってるだけにしてはしっかり連絡をくれる彼がいとおしい。私のことが好きじゃなくても、とりあえず必要にはしてくれてるみたい。そのくらい、言ってくれたっていいのにね。
挑発的な言葉が脳裏を掠めたけど、告げるのは止めておいた。せっかくのお誘いをふいにしたくない。この二週間だって焦れてしまうくらい辛かったのに。
「ごめん。機嫌、損ねないで」
素直に詫びた言葉の傍らで、私の足音が逸り出す。
「気まぐれで会ってくれるだけでもうれしいよ、私はね」
譲歩のふりでそう言ってあげる。答えの代わりに溜息が聞こえてきたけど、意に介さず続ける。
「それで、いつなら会ってくれるの?」
『……土日は空いてるのか?』
心かしか控えめに尋ねてくる鷲津。歩きながら私は頷く。
「うん、両方空いてるよ。どっちでもいいけど」
『そうか』
「あと、どこで会う? また鷲津の家に行けばいい?」
『いや』
彼の声がためらった。
どうやら、彼の家はまずいらしい。となると、またホテルへ行くことになるのかもしれない。私はそれでも構わないけど、土日だと料金は割増だし、サービスタイムもないはず。必然的に会う時間は短くなりそうだ。残念。
「ホテルに行こうか?」
こちらから切り出すと、電話の向こうでもごもご答えがあった。
『ああ、まあ……そういうことなんだけどな』
やっぱりね。他に選択肢があるはずもない。
私はにやりとした。物わかりのいいふりで応じる。
「わかった、いいよ。この間のところにする?」
『あ、うん、そうだな。前のとは別のところにしようと思ってた』
ラブホテルと口にするのが、よほど気恥ずかしいんだろうか。鷲津は何だかぎくしゃくしている。彼の様子がおかしくて、私は笑いを堪えるのに必死だった。可愛い人。
彼氏がいなくても、好きな人はいる。それだけで何となく幸せになれるものだ。しみじみ思う。
こういう関係だって悪くはない。そりゃ彼女にはしてもらいたいけど。鷲津を彼氏だって言えるようにもなりたいけど、今が不幸だって訳でもなかった。ただ単純に、もっと幸せになりたいだけだ。
だから、次の週末こそ。
意を決し、私は密かにほくそ笑む。次こそは。そんな決意と幸せな思いを胸に秘め、意気揚々と視線を上げる。
けれど次の瞬間、口元が引き攣った。
家路を辿る足はひとりでに止まり、目は道の向こうへ釘づけになる。もう家が見えていた。私の家の玄関が見えていた。それとは別に。
『その、久我原。実は週末のことで頼みがある』
鷲津はこちらの様子に気付かない。話を続けている。
『お前の都合が悪くなければだけど、土日――』
なのに、彼の声さえ遠ざかってしまった。
私の家の傍にある電柱。その陰に誰かがいた。
まるで待ち構えていたみたいに、私の姿を見るや、電柱から身を離した。道の端に、どこか申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「……どうして、いるの?」
思わず、声が零れた。
だってびっくりした。驚いて当たり前だ。家に招待したことはないし、住所を教えた記憶もない。いや、住所を知られたからと言って、家まで押しかけてこられるとは普通思わない。普通なら。
でも、彼は普通じゃないのかもしれなかった。この間だってそうだった。
『は? 何だって?』
手にした電話からは鷲津の声が響く。それで私は我に返り、とりあえず彼に告げた。
「ごめん、一旦切ってもいい?」
『……ああ、わかった。後で掛け直す』
「うん、ごめんね」
早口気味のやり取りの後、私は電話を切った。
そして、こちらをじっと見ている相手に対し、恐る恐る尋ねてみた。
「佐山、私を待ってたの?」
ゆっくりとした足取りで、佐山はこちらへ近づいてくる。
一メートル置いたところで立ち止まり、ぽつりと答えた。
「ごめん」