Tiny garden

熱情(2)

 足音が近づいてくる度に、私は靴箱の陰から覗いていた。
 そうして何度か繰り返した後、卒業証書と鞄を携えた鷲津が、こちらへ近づいてくるのを見つけた。その瞬間、真っ先に口元が緩んでしまった。

「鷲津」
 名前を呼んでみる。鷲津はびくりとして、私の方を見る。それから辺りを見回し、周囲に人のいないことを確かめてか、靴箱の前まで歩み寄った。
「学校では話し掛けるなよ」
 開口一番、そう言われた。
 卒業式を終えているというのに、鷲津は腹を立てた様子だった。何を恐れているんだろう。私は首を竦めて言い返す。
「どうして? もうこの学校とも縁が切れるんだから、評判なんて気にならないでしょう?」
「……友達がいるだろ、お前には」
 ぼそっと低い声がした。
 寂しそうではあまりない呟きを、笑っていなすことにする。
「ううん。私は鷲津といる方がいいもの」
 それで鷲津は、じろじろと遠慮のない視線を私に向けてきた。物珍しそうにしている。昨日肌を重ねた時には、目を逸らしてばかりいたくせに。いつもこんな風にしてくれたらいいのに。
「何してたんだよ、こんなところで」
 言いながら、鷲津が彼の靴箱を開けた。外靴を一度ひっくり返してから放り、上履きは袋にしまって、鞄の横に提げた。外靴を履く手つきがどこか覚束ないのを、私はじっと眺めていた。
「鷲津を待ってたの」
 靴を履き終えたタイミングで答えると、鷲津が、卒業証書を落とした。慌てて拾った彼は、振り返って私を睨む。
「勝手なことするな。何か用でもあったのか」
「何にも。ただ、最後の日くらい話をしたかっただけ」
「お前、ストーカーになりそうなタイプだよな」
 鷲津が鼻を鳴らす。その言葉、否定はしない。
 私はわざわざ鷲津の隣まで近づき、真正面から彼の目を覗き込んだ。彼に視線を外されたタイミングで尋ねた。
「鷲津こそ、どこへ行ってたの? 教室は一番に飛び出していったくせに、随分遅かったよね」
「別に」
 ふう、と嘆息した彼が答える。
「職員室行って、先生方に挨拶してただけ」
「へえ……。偉いんだ」
 そもそもそんな頭のなかった私は、彼の生真面目さに驚いた。だけど彼は、あまり生真面目とは言えない語調で続ける。
「ごますって来ただけだ。心証よくしておこうと思って。まあ、揃いも揃って能無し教師ばかりだったから、どうともならないだろうけど」
 靴箱が、音を立てて閉まった。
 鷲津は私をちらと見た。見ただけで声も掛けず、歩き出す。生徒玄関を立ち去ろうとする。
 彼のいない校舎には用もない。私はすぐに追い駆けた。三年の時を過ごした場所と、あっさり決別した。

 校門に辿り着く前に、鷲津の背を捉えた。ぴたり、後に続く。
 三月の風はまだ冷たく、コートを着込んでいても肌寒い。
「ついてくるなよ」
 先を歩く鷲津は、振り向かずに言う。校門を潜っていく。
「ねえ、今日は会えない?」
 鷲津を追う私は、彼の背中を注視している。コートの下に隠れているのは、見納めとなる制服姿。でも未練はなかった。鷲津にはもっとよく似合う格好があるから、窮屈じゃないはずの姿を既に知っているから。
 私が校門を潜った時、返事があった。
「お前さ、昨日のことで……」
 やはり振り向かず、ぼそぼそと言う。
「その、責任取れとか、そういうこと言うんじゃないだろうな」
「責任?」
 いきなり何を言うのやら。あんなこと、二人で一緒にしておいて。
 私は吹き出しそうになるのを堪える。それでも、笑い出しそうなのがばれてしまったのか、鷲津が歩みを速めた。置いていかれないようにこちらも足を動かす。
 隣に並んで、顔を覗き込んでみる。
「責任を取らなきゃいけないこと、したと思ってる?」
 鷲津は勢いよく顔を背けた。横にぴたりとついた私を引き離そうと、更に歩くスピードを上げる。小走りになる。
「別に、だって、同意の上だろ」
 私も早足でついていく。
「そうだよ」
「じゃあ責任とか、何もないじゃないか」
「ないよ」
「だったら、何だってついてくるんだよ」
 急に鷲津が立ち止まり、勢いづいていた私はつんのめりそうになった。転んだところで助けてくれるような人ではないとわかっているので、どうにかバランスを取る。
 それから振り向けば、鷲津は目の端で私を見ていた。寒いせいか、もう顔が真っ赤だ。
「さっき、言ったじゃない」
 私は苦笑いしつつ答える。
「二人で会いたいの。今日も会えない? 暇なら時間作って欲しいな」
「……昨日の今日で、か」
 奇妙なものでも見るような目を向けてくる鷲津。こういう時だけは無遠慮だ。
 そう言ったからには、彼自身も『会いたい』という言葉が額面通りではないことを感じているのだろう。その言葉一つに含まれたたくさんの意味を、ちゃんと理解しているのだろう。なら、話は早い。
「嫌?」
 いかにも意味ありげに笑って、尋ねてみる。
「昨日、私といてつまらなかった? 結構楽しめたでしょう?」
「お前っ、そんなこと、こんなところで!」
 叫んだ彼の声が裏返る。既に学校前を離れた住宅街に、それはすっとんきょうに響いた。残響を恥らうようにして、彼は目を伏せる。
「私、おかしなこと言った?」
 わざとらしく聞き返す。でも、額面通りの言葉なら、そんなにおかしなことは言ってない。健全な恋人同士でも交わしそうな会話だった。そこに深い意味が含まれていると気付けるのは、既に、知ってしまった人たちだけだ。
 そして私と彼はお互いに、それを既に知っている。
 鷲津は私の問いには答えなかった。代わりに素っ気なく言った。
「今日は駄目だ。親が仕事休んでるから、家にいる」
「ああ、卒業式だから?」
「そうだ。だからお前は、家には呼べない」
 憤然と顎を逸らした鷲津が、少し可愛いと思う。つまり彼も、私と会うとなれば彼の家で、二人きりの時にと考えているらしい。そういう意思を示してくれるのはうれしい。そして、話が早い。
「鷲津は暇なの? 予定ない?」
 尋ねれば、彼は面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「暇だけど。でも言ったばかりだろ、家には呼べないんだ」
「あなたの家で会わなきゃいいんじゃない?」
「……何だって?」
 訝しそうな顔をする彼。その表情に私は笑んで、更に続ける。
「違うところで会えばいいんでしょう?」
「外で会うのか? 人目があるだろ」
 半分当たりで、半分外れだ。人目を避けたいのは私も同じ。だって人目があったら、彼を脱がせたり、触れたりは出来ないじゃない。会うなら、二人きりになれるところがいい。
 だから、私は言った。
「ホテルに行かない?」
 瞬間、鷲津は虚を突かれた様子で、唇を軽く開いた。何かをねじ込みたくなるような隙間が出来た。そこから零れてくるのはたどたどしい言葉だ。
「な……何を言うんだ、駄目だ、外泊なんて出来ない」
 ホテルと聞いて、彼が真っ先に連想するのは普通のホテルなんだろう、と察した。可愛い人。
「泊まらないよ。休憩の方」
「休憩、って」
「だから、ラブホテル。鷲津は知ってるでしょう?」
「し、知って……そりゃ知ってるけど、行ったことはない」
 ぷいと横を向いた鷲津は、そのまま早口で語を継ぐ。
「大体、ああいうところは胡散臭いだろ。薄汚くて暗くて、いかにも犯罪の温床になっていそうだ。俺みたいな人間が出入りしていいところじゃない」
「ネットで見たところは結構きれいだったよ。お風呂も広くて明るかったし」
 私ももちろん、行ったことはない。でもこういう時の為に、下調べくらいはしておいた。今は何でもインターネットで調べられるから便利。まさかラブホテルにホームページがあるなんて、さすがに思いもしなかったけど。
 目をつけたのは駅前付近にあるラブホテルだった。最近出来たばかりとのことで、評判も上々らしい。
「それに料金もそんなに高くないの。一室四千円からだって。平日のサービスタイムは午後五時までいられて、料金も変わらないそうだよ」
「……詳しいな」
 鷲津が疑わしげに呻くので、私は思わず笑ってしまった。
「調べたんだってば。で、どうなの? 行く気はある?」

 卒業式の直後。コートの下に制服を着たまま、手には卒業証書を携えて、私たちはしばらく見つめ合った。この状況にも、往来で交わす会話としても、到底ふさわしいものではないはずだったけど――なりふり構っていられない。私は卒業を、彼とだけ祝いたい。
 卒業パーティは、二人だけで開きたい。
「行くだけ、行ってみてもいい」
 無言の時を過ごした後、やっと鷲津はそう言った。
 真っ赤な顔で、それでも精一杯虚勢を張るように。
「変なところだったらすぐに帰るからな」
「そんな、怖がらなくても大丈夫だよ」
 だからつい、からかうようなことを言いたくなってしまう。
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