Tiny garden

熱情(1)

 予想通り、卒業式当日は快晴だった。
 雲一つない空を見上げれば、気分がすっとした。高校生活に拘束されるのも今日で終わり。これからは私だけが、彼を拘束していられるといい。そんな願望を心のうちで育みながら、私は式に臨んだ。

 とは言え、式の間はずっと上の空だった。
 送辞も答辞も来賓の長過ぎる挨拶も、まるで頭に入ってこない。ぼんやり聞き流していた。
 考えていたのはもちろん、鷲津のことだ。鷲津との、昨日のことだ。私と彼との間に起こった、決定的な関係の変化――きっと彼は、それでも私を全て許容はしないだろうけど、今はそれでいい。身体の許容だけでもしばらくは十分だ、と思っている。
 制服の下で、身体は覚えている。たった一度の出来事でも、十分に覚えてしまった。昨日、直に触れた場所。全身で触れて、重ねた部分。彼のすべすべした、滑らかな白い肌。器用そうに見えるだけで、実際はもたついてばかりのの指先。言葉自体よりも余程正直なかすれた呻き声。そして、熱いくらいに感じられた体温。何もかもが私の心と身体に、深く、根づくように印象を残していた。
 一度きりでは終わらせない。近いうちにまた、私を許容してもらいたい。そうしてだんだんと彼の中にも、私を根づかせたい。私を離せなくなるように、私なしではいられなくなるように、彼の身も心も全て閉じ込めてしまいたい。
 卒業式はほぼ滞りなく、穏やかに進んでいった。卒業証書授与の段になり、うちのクラスに順番が回ってきた時も、私はやはり鷲津のことを考えていた。鷲津が担任に名を呼ばれ、返事をし、ぴんと背筋を伸ばして壇上へ登っていくのを、皆とは違う目で見ていた。
 あの制服の中身を知っている。彼が卒業証書を受け取る姿を眺めやりながら、想像の中で一枚一枚、剥がしていくことも出来る。ブレザーの潰れていないボタンを外し、袖を抜き、次に赤いネクタイを緩める。それから音を立ててネクタイを抜き取り、その後はカッターシャツのボタン。小さなボタンを外していけば、白い白い肌が覗くはずだ。昨日の出来事が夢でなければ、そこにはたくさんの口づけの痕が残っていることだろう。どんな風に仕上がっているか、早く見てみたいと思う。
 あとは、スラックスの下だけど――彼は昨日、全てを脱ぐことを拒んだ。どうやら恥ずかしいらしい。発言から察するに、コンプレックスがあるようだ。別に気にしないのに、と私は言ったけど、昨日は妥協を得られなかった。次こそは彼の全てを見たいと思う。
 卒業証書を受け取った鷲津が、生真面目な動作で壇上から降りる。くすくす笑いや囁き声が漏れ聞こえる中、私だけが違うことを考えていた。

 すぐに、私の番が訪れた。壇上に登った時はさすがに緊張した。それでも心の片隅では彼のことを考えた。鷲津は私を見ていてくれるだろうか、と思った。見ていてくれたらいい。昨日、制服で覆い隠していた全てを見てもらったから、今はまだ拘束されているこの制服越しに、本当の私を見ていてくれたらいい。
「卒業証書。三年D組、久我原聖美」
 校長先生の声が響く。卒業証書の文面を、他の生徒の時とと同様に読んでいく。ルーティンワークの読み上げでもそれなりに心にも響いた。
 卒業証書を受け取った瞬間、ふと笑いたくなった。礼を失しない程度に、ほんの少しだけ笑っておいた。そんな私をどう見たか、校長先生も笑ったようだった。もちろん、制服で覆い隠された私の胸中は、知りもしないはずだ。

 これからは私だけが、鷲津を拘束していく。
 他の誰にも鷲津のことを笑ったり、馬鹿にさせたりはしない。他の誰にも触れさせたりしない。鷲津は私だけのものだ。私だけのものにする。あのすべすべした白い肌も、器用そうに見えるだけの指先も、かすれた呻き声も、熱いくらいに感じられた体温も、誰にも渡さない。私だけのものだ。
 彼を笑う人たちには、一生理解出来ないだろうし、理解させてやるつもりもなかった。

 卒業式後、教室ではお仕着せのセレモニーが行われた。担任の先生が花束を受け取るのを横目に見ながら、私はずっと鷲津のことばかり考えていた。
 帰り際にでも、声を掛ける機会はあるだろうか。昨日まではクラスメイトの目を避けてきたけど、もう避ける必要もないはずだ。堂々と話し掛けたい。最後くらいはせめて、学校でも話をしてみたかった。
 思えば私たちの関係は、今日で立ち去らなくてはならない、この教室から始まったはずだ。窓辺に立った鷲津に、一目で惹きつけられてしまった日のことを、私はまだ鮮明に覚えている。その思い出の場所で、もう一度だけ話をすることが叶うなら。そう思うのは、恋する女の子としては普通のことのはずだ。

 なのに――最後のホームルームが終わった途端、鷲津は教室を飛び出していき、追い駆けようとした私は別のクラスメイトに呼び止められた。
「久我原、話あるんだけど、いい?」
 声を掛けてきたのは、佐山という男子生徒だ。戸口で、行く手を遮るようにして現われた。彼は確かサッカー部で、体格がよかった。たちまち廊下が見えなくなる。鷲津が、見えなくなる。
「佐山、何か用なの?」
 私が愛想も作らずに聞き返せば、佐山はああ、と頷いた。人懐っこい笑みを浮かべてくる。――そういえば、彼はそういう人だったっけ。クラスの中では誰とでも分け隔てなく話すようなタイプの人。私も特に仲がよかった訳ではないけど、普通に口を利いたことはあった。鷲津よりはずっと多い。
 だけど、話って何だろう。話し掛けられる用事が思い浮かばないような相手でもあった。
「今日の夕方、空いてる? ちょっと出てこれないかな」
 佐山の問いは、『特に仲がよかった訳ではない』人間に対しては気安過ぎるほどだった。当然私は面食らい、慎重に尋ね返した。
「空いてるけど……どうして?」
 途端、佐山の表情がぱっと明るくなる。
「卒業パーティをやるんだ、クラスの連中で集まって」
「ふうん」
 そんな話、初めて聞いた。いつ計画していたんだろう。
 もっともここ最近は鷲津に感け過ぎて、クラスの友達の話すら上の空だった。全て聞き流していたのかもしれない。
「急に決まった話でさ。まあ、来れる奴だけ誘おうって思ってたんだけど、結構皆、集まってくれるみたいで」
 佐山は急くような口調で続けた。
「よかったら久我原もどうかな、って思ったんだ。あ、久我原と仲のいい子は、皆来るって言ってる。だから久我原も来てくれないかな?」
 楽しげに輝く表情を、私も何とも言えない気持ちで眺めていた。急いでるのに。鷲津を追い駆けなくちゃならないのに――とは言え、体格のいい佐山を突き飛ばせるほどの力は、私にはない。
 私が黙っているのを、逡巡していると見て取ったのだろうか。佐山は更に言葉を重ねてくる。
「久我原のことは、俺が誘いたいと思ってたんだ」
 思わせぶりな言い方だった。どういう意味だろう。
「どうして?」
 訝しさから聞き返せば、佐山は愛想よく答えた。
「ほら、卒業したらなかなか会えなくなっちゃうし。進学先も違うしさ」
 佐山も、私の進学先を知っていたらしい。話した覚えはなかった。
 鷲津が私の通う大学を知っていたのは、偶然聞こえたからだと言っていた。さすがに筒抜けの声でべらべら喋ったことはなかったはずだけど……どうだっただろう。他人に無関心そうな鷲津が知っていたくらいだ、社交的な佐山の耳には、クラスメイトの進学先くらいは容易く飛び込んでくるのかもしれない。そう思い、私は自分を納得させた。
 納得した上で、別のことを佐山に尋ねた。
「それって、皆に声を掛けたの?」
 私にとってはそれが一番重要だった。鷲津が来るなら、私も行く。でも、きっと彼なら来ないだろうとも思う。
「え?」
 佐山は細い目を瞠り、ちらと気遣わしげな表情を見せた。
「いや、皆ではないよ。なんて言うか……誘っても来ないだろうなって奴には、さすがに声掛けてない」
「ふうん」
 鷲津のことだろうなと、察してしまった。佐山のような性格でも、鷲津みたいなタイプは苦手なんだろう。
「こういう言い方したら悪いけどさ、誘いづらい奴もいるから。パーティって言うからには賑やかになるだろうし、騒がしいのが好きじゃなさそうな奴は、呼ばない方がいいと思って」
 佐山の物言いは嫌味ではなくて、むしろ悪びれた様子ですらあったけど、どちらにしても癇に障った。
 思わず、言いたくなった。
「――じゃあ、私も好きじゃないかな。騒がしいのは」
 告げた途端、佐山の顔色がさっと変わった。
 と同時に、まだぽつぽつと居残りのいた教室の空気も変わったようだ。皆が急に話すのを止めて、静かになる。私の言葉が響いた途端、ぴんと張り詰めたようになる。
 皆、私たちの話を聞いていたんだろうか? 何の為に?
「え……でも、久我原、来れるんだよな?」
 不安そうにする佐山に、私はかぶりを振る。
「ううん、無理みたい。約束があるから」
 嘘をつく。嘘じゃないようにするつもりでいるけど。
 佐山はびっくりした顔になっていた。感じの悪い人ではないけど、どうしても比べたくなってしまう。
 眺めているなら、鷲津の顔の方がいい。これは単に好みの問題。
「さっきは空いてるって言ってたのに――」
「これから約束するの。ごめんね、佐山」
 引き止めるような言葉はすげなく断ち切った。
 未練はなかった。このクラスにも、この教室にも。

 佐山を放って、他の誰にも声を掛けないまま、私は教室を飛び出した。
 もう二度と、ここへは来ない。私が行くのは鷲津のところだ。これからは、いつだってそう。もう私たちを拘束するものなんて、何もないはずなんだから。

『俺、お前のこと好きな奴がいるの、知ってる』
 廊下を走りながらふと、昨日の鷲津の言葉を思い出す。鷲津はそう言っていた。私のことを好きな人がいるのにと、まるで悪いことでもするみたいに怯えた様子で告げてきた。
 でも、これは悪いことではないはずだ。私は鷲津が好きで、堪らなく好きなのだから、彼だけを選び取るのは当然だ。他の人なんていなくてもいい。鷲津がいれば何も要らない。
 鷲津の言う男子が、佐山のことだったのかは知らない。さっきの佐山は思わせぶりな態度だったようにも思うけど、日頃から親しい相手ではなかっただけに、何とも言えないのが正直なところだった。そして、どうとも思わなかった。それが佐山でも、そうじゃなくても、鷲津の単なる思い込みでも、どうでもよかった。
 私には鷲津がいればいい。彼が欲しい。切実に欲しい。
 制服も要らない。卒業証書も要らない。クラスメイトと別れを惜しむ時間も要らない。何も要らないから――。

 全速力で駆け込んだ生徒玄関、靴箱にはまだ、鷲津のスニーカーがあった。
 思わず私はほくそ笑み、靴箱の陰で、彼を待つことにした。
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