Tiny garden

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故郷の味が恋しい日

 ある日、ふとラーメンが食べたくなった。
 俺にとってラーメンと言えばやはり函館ラーメン。濁りのない澄んだスープと縮れていないストレート麺のシンプルなやつだ。最近、清水と故郷の話をしたからだろうか。無性に食べたくなって仕方なくなった。
 もちろん今住んでいる札幌もラーメンで有名な土地だ。美味しい店は何軒でもあるし、俺も実際に食べに行ったことが幾度となくある。
 だが札幌ラーメンは大抵ラード入りでこってりめなのが主流だ。寒い土地で売るなら油膜でスープと麺の温度を下げないようにするのはいい工夫だろう。函館ラーメンは油脂の少ないさっぱりしたスープなので、残念ながら今食べたいものは札幌ラーメンではなかった。

 ないなら作ればいい。
 簡単ではないが、単純なことだ。
 それともう一つ、ラーメンを作るにしても『いつ食べるか』という問題もある。スープを煮込むのには当たり前だが時間がかかるし、仕事帰りに材料を買って夕飯にするのは難しい。かと言って朝からラーメンというのも違う気がする。
 だから、弁当にラーメンを持っていくことはできないだろうか。
 そうめんやうどんや冷やし中華を弁当にすることはよくある。スープジャーを使えば熱々のスープを持っていけるだろうし、麺は硬めに茹でていけばいい。チャーシューや煮卵といった具は弁当においても定番のおかずだし、前の日から準備していけば手間取らずに持っていけるはずだ。

 思い立ったが吉日とばかり、俺は仕事帰りにスーパーに立ち寄りラーメンの材料を買い込んだ。
 そして帰宅後、夕飯を作りがてらスープの仕込みを始めた。
 函館ラーメン特有の澄んだスープを作るにはひと手間もふた手間もいる。まずは買ってきた鶏ガラと豚骨をきれいに洗い、下処理をする。そして煮込む時には決して沸騰させないことが大事だ。スープが濁らないよう火力を調整しつつ、丁寧に灰汁を取る。
 チャーシューはこれも定番の豚もも肉を、圧力鍋で仕上げて作った。固ゆでにした卵はたれにつけておけば明日には美味しい煮卵になっている。タケノコの水煮を炒め煮にして作ったメンマと小口切りにしたネギを添えれば具材は完璧だろう。
 じっくり煮込んで塩味に整えたスープは、透き通った黄金色をしていた。あとは朝になったら温め直して、スープジャーに詰めるだけだ。
 それにしても、ラーメンスープを作るだけでも結構な重労働で、ずいぶん汗も掻いたし気づけば夜更かしになってしまった。こんな作業を日々こなさなくてはならないラーメン店の苦労は相当なものだろう。しかも毎日同じ味に仕上げなくてはならないのだから余計にだ。
 次にお店でラーメンを食べる時には、感謝の気持ちを忘れないようにしよう。そう思った。

 翌日、ラーメン弁当を持っていった俺は、清水と渋澤に揃ってぽかんとされた。
「ラーメンをお弁当に?」
「なんてまた、酔狂な弁当を思いつくんだ」
「酔狂まで言われることでもないだろ」
 驚かれるだろうとは思っていたが、さも無茶をしたみたいに言われたのは予想外だった。
「そうめんやうどんを弁当にすることだってある」
「まあ、そうめんは私も経験あるけど……めんつゆ持ってきてね」
 清水はそこで小首を傾げてみせる。
「そう考えると、確かにラーメンもなくはない、のかも」
「全然ありだよ。絶対美味しいに決まってる」
 強気に言い切って、俺は弁当箱を開ける。
 いつもとは違い、麺とチャーシュー、煮卵などが詰まった弁当箱の中身に、清水と渋澤がまた目を丸くした。まあ見ていろとスープジャーを開ければ、途端にもうもうと湯気が溢れ出てくる。
「……いただきます」
 手を合わせ、先にスープを味見する。
 ありがたいことに火傷しそうなほど熱く、理想の温度をキープしてくれていた。スープジャーの形状上、麺はつけ麺のように少しずつ投入することにする。
 具材もいくらか載せたら、まずは一口啜ってみた。
 ――うん、悪くない。
 予想していたより美味い。スープは熱々だし麺は伸びてない。さすがに茹でたてのものを食べる時よりは劣るものの、弁当として食べるなら十分だ。
 そして何より、苦労した分スープが美味い。
 澄み切った鶏がら豚骨の塩味スープ、癖のない香り、シンプルだからこそ奥深い味わい。これこそが俺の食べたかった函館ラーメンだ。
「……どう?」
 清水が、まるで自分の料理を味見させる時みたいな心配顔で尋ねた。
「思ってたより美味いよ。いい味に仕上がった」
「えー、すごい!」
 一転、我が事のように嬉しそうな顔になった彼女が拍手をしてくれる。
 渋澤は少々疑わしげだったが。
「ラーメンをわざわざ弁当にしてくる必要あったか?」
「どうしても食べたかったんだよ」
 ラーメンに対する、抑えきれない欲求が募った結果だ。ましてや数年帰ってない故郷の味、たまに恋しくなるのも仕方のないことだろう。それを自力で生み出せたのだから、俺は満足している。

 さすがにラーメンをシェアするわけにはいかないから、清水には彼女が食べたがったチャーシューや煮卵を分けてあげた。
「播上はもも肉チャーシューなんだね」
「脂っこくないのが好みなんだ」
「へえ、それが函館流?」
 清水は好奇心に顔を輝かせながら続ける。
「この辺りだとチャーシューはとにかく大きいのが多いよ。とろっとろになってるやつ」
「それか挽き肉だな」
 渋澤も頷いた。
 二人とも道央の出身だけに、札幌ラーメンを食べ慣れているんだろう。俺が函館の味を求めたように、二人もラーメンが食べたい時には札幌の味を思い浮かべるのかもしれない。
「この辺だってけっこう美味しい店いっぱいあるよ」
 と、渋澤は半ば呆れたように微笑んだ。
「食べたいなら一緒に行ってやったのに。自分でスープ仕込んで持ってくるなんて、さすがの播上でも一苦労だったろ」
「確かに楽ではなかったよ。夜更けまでかかった」
「ほら。いい店知ってるから、明日の昼休みに案内してやろうか?」
 渋澤の気持ちは嬉しいし、大通一帯に札幌ラーメンの名店が数多く存在していることも知っている。実際、行ったことのある店もあった。
「でも昼休みに行くとなると、混んでて並ぶ可能性もあるだろ」
 名店はお客さんが行列を作るものだ。並んだはいいが昼休みが終わるまでに戻れないなんて大事だし、都会育ちの渋澤と違って、俺は行列ってものがあまり好きではない。
 それに、ラーメンならなんでもいいってわけじゃなかった。
「俺は、函館ラーメンが食べたかったんだよ」
 わざわざ故郷の名前を出すのも照れくさかったけど、正直に打ち明ける。
 他の味ではダメだった。あの澄んだスープとストレート麺の塩ラーメンが食べたかったんだ。

 すると、清水と渋澤の表情から急に笑みが消えた。
 代わりに浮かんだのは気遣わしげな、労わりの表情だった。
「播上……」
 清水が優しい声音で、そっと俺を呼ぶ。
「もしかして、ホームシックなんじゃない?」
「――えっ!?」
 予想外の単語を切り出されて、当たり前だが俺はうろたえた。
「お前、ずっと帰れてないって話だったよな? 故郷が恋しくなってるんだろ」
 渋澤もいつになく心配そうに告げてきて、大慌てでかぶりを振る。
「い、いや、何言ってんだ二人とも。そんなんじゃない!」
 俺は函館ラーメンが食べたかっただけで、地元に帰りたくなってるわけじゃない。そういう気持ちだったら普通に五月の連休にでも帰省していただろう。というか、もうじき二十五のいい大人なのにホームシックって。
「無理しなくていいよ。やっぱ地元離れるとつらいこともあるよね」
「気づいてやれなくてごめん。そういうの、相談してくれていいんだからな」
 清水も渋澤も優しくしてくれるが、誤解だから逆につらい。恥ずかしい。
「だから違うって! 俺は全然――」
「札幌でも函館ラーメン食べれるお店ないかな? 探してあげようよ」
「そういえばあったな、エスタの十階に。よし播上、今日にでも行こう!」
「今日!? いや本当、マジで大丈夫なんだけど……」
 そもそもラーメン、たった今食べたばかりなんだけど。
 という言葉は、清水と渋澤の気遣いを前に吞み込まざるを得なかった。

 二人があまりにも真剣に心配してくれたので、俺は終業後に渋澤とラーメンを食べに行った。
 エスタの十階には確かに函館ラーメンの店があり、夕飯時だけに行列もできていたが都会っ子の渋澤は構わず並んだ。もちろん俺も一緒に並び、やがて案内された店内で渋澤と共にラーメンを啜った。
「函館ラーメンもあっさりしてて美味しいよな」
 渋澤は満足そうにしていたし、実のところ俺もラーメン欲がようやく満たされた気がした。あれだけ苦労して仕込んだラーメンスープではあるが、当たり前だが名店の味には到底敵うはずもない。香りのよさも味の深みも、そして麺のちょうどよい硬さも全てが段違いだ。もちろん感謝の気持ちを忘れず、じっくりと味わった。
 清水には報告も兼ねて、食べる前の函館ラーメンの画像を送っておく。
 彼女はすぐに返信をくれて、
『よかったね! 私もいつでも話聞くからね!』
 そんなメッセージと一緒にサムズアップしたクマのスタンプを寄越してきた。

 彼女も渋澤もすっかり勘違いしているが――。
 まあでも、心配してくれる相手がいるのはいいよな。たまになら。
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