Tiny garden

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ちょっと贅沢をした日

 清水も俺も、通勤は同じ地下鉄南北線だ。
 麻生から乗ってくる彼女と北二十四条から乗り込む俺が、車内で出くわすことも何度かあった。

 今朝も混み合う車両に足を踏み入れた途端、小さく手を振ってくれる見慣れた顔が目に留まる。
 人にぶつからないように彼女の隣に立つと、清水はいい笑顔を向けてくれた。
「おはよ、播上」
「おはよう」
 昼休みと違って出勤途中の彼女はだるそうにしていたり、憂鬱そうな顔をしていることもたまにある。だが今朝は調子がいいようで、にこにこしながら口を開いた。
「播上、聞いて聞いて」
 地下鉄の社内だからか、いつもよりは抑えめの声で続ける。
「今日のお弁当、めちゃくちゃすごいよ」
「すごい……弁当?」
 俺が聞き返せば、彼女は喜びを隠しきれない顔つきになった。
「そう! 今日のは本当、播上に絶対見せたいって思ってるんだ」
「ずいぶんな自信作みたいだな」
「自信作っていうか、まあ、ね」
 曖昧に濁した後、清水はにやりとしてみせる。
「少なくとも播上は百パーセントびっくりすると思うよ」
 その目はきらきら輝いていて、今日のお弁当で俺を驚かせる確信があるように見えた。
 清水がそこまで言う『すごい弁当』とはどんなものだろう。気になる。
 当然、俺も突っ込んで尋ねた。
「気になるな。どんな弁当なんだ?」
「お昼まで内緒!」
 焦らされるとますます気になってしまう。
 ものすごく手の込んだものを作ってきたとか。キャラ弁かな。あるいは五月ということで、いなり寿司やおにぎりを並べた花見弁当なんかを作ってきたのかもしれない。
 もっとも、昼休みになれば答えはわかる。あえてあれこれ推測せずに、実物を見せてもらって素直にびっくりする方が楽しそうだ。
「じゃあお昼、楽しみにしてるよ」
 俺が期待を込めて告げると、清水も満足そうに頷いてみせる。
「うん!」
 一体、どんな弁当を見せてもらえるんだろう。

 待ちに待った昼休み、囲んだ社食のテーブルには俺と清水の他に渋澤もいた。
「やあやあ皆さん、本日は私のお弁当の為にお集まりいただいて」
 照れ隠しみたいに切り出した清水に、渋澤が噴き出す。
「ずいぶんかしこまってるな。どういうこと?」
 別に渋澤は清水の弁当のすごさを見る為に同席していたわけではない。たまたま昼休憩が一緒になって、同じテーブルに座っていただけだ。現に清水を待っていた俺とは違い、一足先にカレーライスを注文して食べ始めている。
 ただ、
「今日の清水の弁当、すごいらしい。今朝言われたんだ」
 と俺が口添えすると、やっぱり興味を持ったようだ。
「え……すごいって、どんなふうに?」
 その渋澤の問いには俺も答えられない。揃って清水の方を向けば、彼女は得意げに胸を張る。
「高級食材を贅沢に使用した、夢のお弁当ができたんだよ」
「高級食材!?」
 それはさすがに、俺の予想とは違っていた。
「そんなすごいものを弁当に入れたのか?」
「例えばトリュフとか、フォアグラとか?」
 うろたえる俺と渋澤に、清水もちょっと慌てた様子で答える。
「そこまですごいものじゃないよ! 高級品なのは確かだけど……」
 それから苦笑気味に付け足した。
「実家でお取り寄せをしたから、それをちょっと分けてもらったの。いいものだからちびちび大事に食べようか迷ったんだけど、どうせならお弁当にして、播上にも見せたいなって思って」
 話しながら清水は、ウサギ柄の弁当箱の蓋に手をかける。

 弁当の中には、照りよく醤油で焦げ目のついたホタテが、ぎっしり六つも並んでいた。
 それも並のホタテじゃない。貝柱の大きさは五百円玉サイズ、身は肉厚で見るからにぷりぷりしている。ほのかに漂ってくるのはバターの香り――きっとバター醤油焼きにしたんだろう。ホタテとの相性はまさにベストマッチだ。
 ホタテの貝柱が美味しいのは産卵を終え、栄養を蓄え出す五月からだと聞いたことがある。まさに今が旬の食材、となるとこの弁当、美味しいに決まっている!

「これは確かに、めちゃくちゃすごいな……」
 俺は感嘆の息をついた。
「すご……」
 渋澤も呆気に取られた声を漏らした後、我に返ったように言った。
「こういう弁当、駅弁か空弁で見たことある」
「そう! インパクトあるでしょ?」
 思ったような反応が得られたからか、清水は頬を紅潮させて語る。
「これは播上に見せたいなって思ったの。たまにはこんなパワープレイ弁当もいいかなって! 実際、滅多にできないお弁当ではあるけどね」
 そうして彼女は箸を取り、俺に向かって力強く笑んだ。
「播上、一つ食べてみる?」
「い、いいのか?」
 清水とはいつも弁当のおかずを交換し合う仲ではある。だが今回のホタテは大ぶりのまさに高級食材、一個当たりの価格を考えると気安く『食べたい』とは言い出しづらい。
「もちろんいいよ!」
 俺の懸念を一蹴するかのように、清水は大きく頷いた。
「というか、食べてもらいたくてお弁当にしたんだよ。播上にはいつもお世話になってるし、お裾分けの意味でね」
「世話なんて……でも嬉しいよ、ありがとう」
 どちらかと言えば、事あるごとに清水に励ましてもらっているのは俺の方だ。
 でも、だからこそ、彼女の厚意は素直に受け取ろうと思った。
「はい、どうぞ」
 大きなホタテを俺に一つ分けてくれた後、清水は渋澤の方を向く。
「渋澤くんも食べる?」
 その瞬間の渋澤は、実に『食べたそう』な顔をしていた。口を薄く開けて、目はひたすら弁当箱の上のホタテを熱っぽく見つめている。それでも清水に問われれば、慌てたように手を振ってみせた。
「さすがにもらえないよ、僕は清水さんにお世話もしてないし」
「六つあるから一つならいいよ」
「本当に? じゃあ……あとで飲み物奢るから」
 渋澤も結局はさしたる遠慮もせず、清水からホタテを一つもらっていた。
 そのくらい、抗えない魅力があったということだ。

 もらったホタテを早速いただくことにする。
 箸で持ち上げるとずっしりした重みを感じるホタテを、まず一口。見た目通り肉厚で、火を通した後なのに貝柱は歯ごたえがあり、ぷりぷりした食感だ。味つけは予想通りのバター醤油、バターの香りとコク、焦がした醤油の旨味がホタテとよく合う。
 何よりこの貝柱の甘みの強さ、まさにこれぞ旬の味覚と言っていいだろう。シンプルな味つけによって引き立てられたホタテそのものの味わいは、もはや唸るしかなかった。

「美味い……!」
 俺の唸りを聞いて、清水が片手を振り上げる。
「やったあ褒められた! 素材がいいからだけど」
「いや、よく焼けてるよ。もちろんホタテもいいものだった」
 せっかくのいい食材を余計な手を尽くしてダメにしてしまうことだってある。あえてバター醤油焼きという王道の調理法を選んだ清水の判断は大正解だし、そしてホタテの味を最大限引き出せる料理ができていたと思う。
「うわ、美味いな……」
 渋澤は目をつむってホタテを味わった後、しみじみと呟くように言った。
「ありがとう、清水さん。幸せな体験ができたよ」
「どういたしまして。いいもの食べると元気になれるよね」
 清水の言葉はまさに真実だろう。美味しい料理は人を幸せにする。俺も常々そう思ってきた。
 そして本日のホタテは、俺たち三人をこの上なく幸せな気持ちにさせてくれた。

 その後は約束通り渋澤が清水にコーヒーを奢り、清水は残りのホタテを心ゆくまで味わい、そして渋澤と俺は思わぬ美味の余韻に浸り続けていた。
「思い出に残るくらい美味かったな、ホタテ」
「本当だな。こういうものを好きな時に食べられるようになりたいよ」
 渋澤が肩を竦めると、清水がそこでくすっと笑った。
「そんな生活憧れだね。出世したらできるかな?」
「出世か……そんな可能性あるかな」
 苦笑する渋澤だが、俺たちの中で一番優秀なのも奴だ。出世すること自体はそう非現実的でもないだろう。
 俺はどうにも縁遠そうなので、高級食材はたまに食べられるくらいでいい。
 と思っていたら、
「出世より簡単に金持ちになる方法ないかな」
 渋澤がそんな話題を切り出して、そこに清水が便乗した。
「温泉掘り当てるとか?」
「温泉?」
「ほら、この近くだと定山渓辺りに土地買って。そこから温泉出てきたら一儲けだよ」
「……まず、土地を買う金はどうする?」
 俺が突っ込むと、清水はなぜか真面目に考えた後で答える。
「宝くじを当てる!」
「宝くじの当選金だけでよくないか、わざわざ土地買わなくても」
「や、だって、当選金って一時的なものじゃない。ずっとお金入ってくる方がよくない?」
 温泉だって永遠のものではない気がするが。
 いやそれ以前に、なんか子供の語る夢みたいだ。
 俺が面食らっていれば、
「温泉もいいけど、石油とか出てこないかな」
 渋澤が愉快そうに言った。
「石狩に油田あったし、まだどこかで可能性ありそうじゃないか?」
「わ、すごい! 石油王になれちゃうかな?」
「たぶんそのくらいのこと、もう誰か考えついてるよ……」
 はしゃぐ二人に苦笑しつつ、こういうくだらない会話を楽しく感じつつ、でも思う。
 高級食材はやっぱり、たまに食べるくらいがいい。舌が肥えすぎてしまうと困ることもあるだろうし――それに、せっかくのいいものを誰と食べるかってことも、すごく大事だってわかったからだ。
 そういう意味で今日のランチは、本当に素晴らしい思い出になるだろう。
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