Tiny garden

真っ白なつま先

 僕が帰宅した時、小春は、居間のソファーに横たわっていた。
 すうすうと安らかな寝息が聞こえてきたから、僕は呟くように告げてみる。
「ただいま、小春」
 当然、返答はない。
 テーブルの上には、彼女の字でメモが残されていた。僕が携帯電話を持っていないので、小春はよくこんな風に、メモを書き残してくれていた。
『ご飯はお台所にあります。お味噌汁はちゃんと温めてください。冷蔵庫にサラダを入れてあるので、好き嫌いせずに食べてくださいね』
 全くしっかりしている。
 もしかすると、僕の帰りを待っていてくれたのかもしれない。メモを残しただけでは不安があったのか、出来るだけ起きていようと居間に留まっていたのだろう。しかし僕の帰りは遅く、小春は寝間着一枚だけでソファーにて寝入る羽目となってしまったのだろう。だとしたら、悪いことをした。
 今晩は友人らとの飲み会だった。酒席でいい具合にアルコールを摂取して、午前様にて帰宅した。ほろ酔い加減の為に夕飯などどうでもよろしい気分だったが、小春の厚意をむげには出来ない。無理にでも腹に詰め込もうとたった今、心に決めた。

 小春はよく出来た娘だった。ご両親のしつけがよいのだろう、炊事に洗濯に掃除と、家事全般は難なくこなしてみせた。お蔭で彼女と暮らし始めてからの数ヶ月、僕はひもじい思いもせず、着る服のないことに朝になってから慌てることもまるでなくなった。狭い部屋に積み重ねた本の山が雪崩を起こし、その中に埋もれて一夜を過ごすということも――あったのだ、小春がこの部屋にやってくる以前には。だから彼女の存在は、そういう意味では大変ありがたかった。
 しかしここのところ、僕はこの従妹の扱いに悩まされていた。
 二つ年下の従妹は、容姿の面でも実に申し分ない娘だった。単に美しいというだけではなく、年頃の娘らしい愛らしさも、人当たりの良い笑みも、品のよさも、そこはかとない色気をも有しているという、実に恵まれた娘だった。現に、彼女を目にした大学の友人らは、僕と彼女に血の繋がりがあると聞くと、何かの間違いではないかと訝しがった。従兄妹同士では血の繋がりも緩いものではあるが、それでも僕と彼女には似通ったところがまるでない。友人らの疑問もむべなるかな。
 いっそ多少なりとも似ていればよかったのだと思う。僕と小春の顔立ちが似ていたならば、血縁を否応なく意識する羽目になっていただろうから。それがないから僕は、小春の存在を持て余し始めているのだ。

 ソファーのスプリングが軋む音がした。
 小春が身を捩ったようだ。まだ目は伏せられている。起きた様子はなく、安堵する。
 しかし若く美しい娘が寝間着姿で、毛布も掛けずに寝入っている光景は何とも、視線のやり場に困るものだった。蛍光灯の明かりが、彼女の長い髪や、寝間着から伸びるほっそりした手足を照らしている。寝顔は、あえて見なかった。
 僕は踵を返し、自室から毛布を持ち出すと、彼女にそっと掛けてやった。それから遅すぎる夕飯を摂り始める。ソファーの方は見ないよう、目を逸らし続けていた。

 僕は小春から目を逸らしていた。それは彼女の美貌のせいでもあるし、僕が彼女に抱くえもいわれぬ感情のせいでもあるし、はたまた彼女のご両親、特に伯父から受けている絶大なる信頼と無言の重圧のせいでもあるだろう。
 彼女が美しいのがいけないのだ、とは言わない。言えまい。それはよくある犯罪者の口実のようなもので、美しい娘が美しいことに何の罪もあるはずがない。
 美しいものに対し、純粋に美しいと感じるだけではいられぬ、僕の心がいけないのだろう。僕が小春へと寄せているのは、俄かには理解しがたい感情――恋情のような、性欲のような、或いは単なる保護欲のような、全く複雑な感情だった。恋情と呼ぶにはいささか情緒に欠けるようで、志向が弱いと思える。人に恋をすればもう少し、切なさだの、いとおしさだのを覚えてもいいはずだ。しかし僕にはそれがなく、僅かながら抱く好ましい思いは自己保身よりも強いものにもなり得ない。単純に性欲と呼ぶのも問題があるような気がした。倫理的にも問題だが、理屈としても、性衝動の対象が彼女でなくてはならない理由がどこにも見つからない。美しい女はそれほど多いものではないが、探せばよそにもいるはずだ。小春でなければ駄目なのか、あれやこれやと想像の中で試してはみたが、結局他の女では駄目だったのだ。僕としては、小春への感情を保護欲と呼ぶのが一番得心出来るものであり、またもっともらしく対面も保てて都合がよい。だが実際、それだけなのかと問われたものならたちまち言葉に詰まってしまうだろう。僕は元来単純な人間であるはずなのに、こんな複雑な感情を持つとは。わからないものだ。
 しかしそういった複雑な感情も全て、世間体の前では即座に萎んでしまう。僕が最も恐れているのは従妹の本心でも、自分自身の衝動でもなく、僕に従妹を託した人々の信頼を失うことだった。小春のご両親は当初、小春が家を出て大学へ通うことすら反対していたと聞く。それを、従兄の傍にいるのなら問題ないだろうと小春に説き伏せられ、渋々承諾したとのこと。同居に当たって僕が仰せつかったのはお目付け役としての務めだった。つまり、小春に悪い虫がつかぬようにと――そこで僕が悪い虫になってしまっては大問題だ。裏切り者のレッテルを貼られ、未来永劫親戚一同に白眼視されるだろう。小春の実家どころか、僕の実家にさえ出入り禁止を食らうかもしれない。それは大層まずい。
 だから僕は、美貌の従妹から目を逸らすようにしていた。今晩のようにたびたび友人らと約束をし、飲みに出かけたり徹夜で語り明かしたりしながら、なるべく小春の起きているうちには帰宅しないように努めていた。その企ては功を奏し、ここのところはほとんど小春と顔を合わせずに済んでいた。
 もっとも、胸が痛まない訳ではない。こうして夕飯を用意してくれている彼女のことを思えば。

 夕飯を胃に詰め込み終えると、僕はソファーの下に座った。
 背中で従妹の寝息を聞いていた。時計の針のように規則正しく、穏やかだ。目の覚める様子はなく、放っておけばこのまま朝を迎えるのだろう。
 彼女に目を向ける気にはなれない。目を向けてはいけないのだと思う。僕の為には。世間体の為ならば。

 小春はどう思っているのだろうか。現状の、僕との間にある形容しがたい空気のことを。
 美貌の持ち主だけあって、小春に言い寄る男もいたようだ。そのような話を聞いたのがほんの半月前。それに対し、僕は会わないようにと勧めた。従兄として、お目付け役として冷静に助言をするつもりが――気付けば悋気に溢れた発言となっていた。そもそも悋気に駆られるという心情自体がお目付け役にふさわしくない振る舞いだと思う。
 小春は、僕に止めて欲しかったようだ。他の男と会うことを、僕が制止してくれるものと信じていたようだ。だからその後、僕が小春に手を出さなかったことについては、いささか呆れているようでもあった。もちろん出せるはずもない。僕が訳のわからない感情よりも世間体を優先させているうちは。
 わからないと言うなら、小春が僕へと抱く感情も理解しがたいものだった。彼女は僕のような取るに足らない従兄でも好意的に見てくれているようだ。しかしその好意はどの程度のものなのだろう。恋情か、憧憬か、或いはただの近しいものに対する親愛か。彼女のような若い娘なら、そういった愛情を恋愛感情と読み違える場合もある。僕ですら自らの感情の類するところを読み切れていないのだから、恐らく彼女もそうだろう。ならば余計に、従兄妹という関係を越えてしまう訳にはいかない。

 ぎし、とまたソファーが軋んだ。
 僕は驚いて、思わず振り返る。寝返りを打った小春の顔が意外と近くにあり、ぎょっとした。しかし彼女はまだ目を閉じている。唇を軽く開いて、そこから微かな寝言を呟く。何と言ったのかは聞き取れなかった。
 掛けてやった毛布がずり落ちそうになっている。思ったよりも寝相はよくないのかもしれない。僕はそれを直してやろうとして、ふと、彼女の足に目を留める。
 すらりと伸びた足は美しい。足先まで蛍光灯の明かりで白く、つやつやと光っていた。
 半月前のことを思い出し、僕は落ち着かない気分になった。ちらと目を凝らした先に、彼女の爪先を見た。白い。
 あの日の、青いペディキュアは塗られていなかった。
 件の言い寄る男と顔を合わせたという日の、あの青は。
 たったそれだけのことで僕は堪らなく安堵した。そして安堵したことに、すぐに罪悪感を覚えた。
 結局どうしたいのだ、僕は。何が望みなのだろう。彼女が他の男と会わなければそれで満足か。それは、お目付け役としての感情なのか。或いはあの日のように、もう一度彼女へ、この真っ白な爪先へ口づけたいと思っているのか。それは、どういった感情によって? 或いはもっと他の――何か、望むものがあるとでも言うんだろうか。

 ソファーに眠る小春を見下ろし、僕はしばらく自問した。だがいくら時間を掛けても答えは出ず、酔いの回った頭は次第に、より単純な衝動を呼び起こした。
 彼女に触れたい。
 いや、もっと率直に言えば、触れたいだけではなかった。もう少し即物的な衝動が僕の胸裏で湧き起こっていた。しかしそればかりはやはり、どうしても踏み越えてはならないもの。だから衝動を倫理的に問題のないものへと昇華させることで、僕は様々な感情を封じ込めようと試みた。
 小春の背と膝下に腕を差し込み、ゆっくりと毛布ごと抱き上げた。思いのほか軽く、容易く持ち上がった。彼女の瞼は伏せられている。
 僕は少しの間、そのままでいた。抱えた腕と、身体の当たる胸元が温かかった。女らしい、いい匂いもした。寝顔は起きている時よりもあどけなく、幼い頃とあまり変わりのない表情をしていた。懐かしい面差しだった。
 こうして眺めていると、心まで温かみを帯びてくる。込み上げてくるのはより穏やかな感情。
 そうだ、と思う。この感情は恋情でも性欲でもない。単純な保護欲だ。僕は従兄として彼女に愛情を抱いているのだ。彼女の美しさ、愛らしさからつい邪な思いすら持ってしまったが、彼女は血の繋がった従妹。そして僕が任された被保護者だ。僕は彼女を守らなくてはならないし、正しく導かなくてはならない。まして一時の衝動を読み違えて、道を誤るようなことがあってはならない。
 僕は少し笑み、ようやく答えの出たことに改めて安堵した。この度の安堵は正しく、そして胸を張れるものでもあった。だからやましい思いはせずに小春の身体を抱きかかえ、そして居間を出る。彼女の部屋へと向かう。

 彼女の部屋には、数えるほどしか足を踏み入れていなかった。
 もちろん意識的にそうしていた。従兄妹同士ならそのくらいの遠慮は必要だ。そしてこれからも、そうしていくべきだろう。僕らの関係は変わらないし、変えてはいけない。僕にも変えるつもりはない。
 小春と同じように、いい匂いのする部屋だった。壁際に置かれたシングルベッドを目指して、僕は慎重に歩みを進めた。そしてそこへ、小春をゆっくりと横たえた。
 抱えてきた彼女の体から、腕を引き抜こうとした。
 次の瞬間、僕の首にぎゅっと力が込められた。――腕が伸びて、巻きついてきたのだ。そのまま少し引き寄せられて、彼女の顔が近づく。目は、開いていた。
「恭平さん」
 と、彼女はやけにはっきりした声で僕を呼んだ。僕の心臓は危うく、口から飛び出すところだった。
「……君、起きていたのか」
 ようやく僕がそう言えば、ベッドに横たわった彼女はちらと不満げな顔になる。
「だって、恭平さんの運び方が乱暴だったから。途中で目が覚めてしまったんです」
「それは……悪かったよ」
 僕は決まりの悪い思いで答える。寝ている彼女に対して、あれこれとろくでもない考えを巡らせていた経緯があった。小春本人には知られたくないような衝動だった。それらももう、昇華し切ってしまったはずだったが。
「でも、ここまで運んでくださったのはうれしいです」
 そう言って、小春は僕の首を捕まえたまま、半身を起こした。頬を寄せてくる。
「お帰り、お待ちしていました。せっかくですから今夜はこのまま、近くにいてください」
 美貌の従妹にそんな言葉を囁かれて、僕は非常に困惑していた。それこそせっかく昇華したと思った衝動が、再び頭をもたげてくるようで――しかし何よりも世間体。ここで流されてしまう訳にはいかない。
「小春、君は誤解をしている。そもそも君が僕に持つ情というのは……」
「私の気持ちは既に決まっています。伺いたいのは、恭平さんのお気持ちです」
 僕の言葉を遮って、小春はきっぱりと言った。決まっているとは、一体どのようにだろう。そこは明かさぬまま彼女の唇が続ける。
「恭平さんはこのまま、私の傍にいたいとは思いませんか」
 傍にいたいか、問いの答えは容易く出てきた。
 いたい、はずがない。忍耐力と倫理観を試される夜を、これ以上長くは過ごせまい。男は皆、好みの女の前では狼なのだ。僕が狼としてあるのは、どうしても、彼女の前でだけだった。しかもとびきり臆病で、そのくせ嫉妬深く、更には世間体の方を大切にしたがるような情けない狼だった。
 何より大事な世間体の為、僕は今夜も、狼の本性を押し隠す。
「いや、君、そうは言うけど。僕らは従兄妹同士なんだからな」
「従兄妹同士は結婚出来ますよ。問題でも?」
「それに君のお父さんから、君のことを頼まれているし」
「まさか、父が怖いんですか、恭平さん」
 小春がじっと、僕を睨んだ。
 僕が答えに窮すると、すかさず彼女の、毛布に包まれていた足が飛び上がった。爪先が僕の腹を軽く、突き飛ばすように蹴る。それで僕は後ろへとよろめき、彼女は毛布を引っ被って、見えなくなってしまった。
「臆病者。ちょっとは迷ったくせに」
 毛布の中から、くぐもった小春の声がする。
「もう起きて待っててなんてあげませんから」

 もしかすると彼女は、ずっと起きていたのかもしれない。
 とっさに浮かんだ仮定を確かめる術はなかった。僕はただ情けない思いで、毛布からはみ出した足と、真っ白な爪先とを眺めていた。
 彼女の爪先が、再び色づくことがなければいい、と思う。だが臆病者の狼は、その為の最も効果的な手立てを取れずにいる。
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