Tiny garden

君と僕の境界線

 僕と小春は、同じ大学に通っている。
 だから構内でばったり出会ってしまうのも、やむを得ないことと思っている。
 しかし出来れば会いたくなかった。気まずさを引き摺ったままの現状では。

「あ、恭平さん」
 小春が僕の名前を呼んだ。声のトーンは柔らかかったが、表情は瞬時に厳しいものへと変わる。
「……やあ」
 僕は従妹に会釈をする。やけに白々しい声が出た。
 大学の通用門前は昼時とあって、人通りが多い。距離を置いて向き合ったまま、気まずく制止している僕らを、すれ違う人々は怪訝そうに見ていく。小春の顔を見た人は、必ず二度振り返る。
 人目を引く美貌の従妹は、当たり前だが機嫌のいい風ではなかった。溜息をつき、僕へと告げた。
「お久しぶりですね」
 やはり声は柔らかい。しかし、その言葉は突き刺さるように僕の耳にこだました。
 久しぶりのはずがないのだ。僕と彼女とは同じ部屋に住んでいるのだから。一つ屋根の下で暮らす僕らは、近頃ほとんど口を利いていなかった。いわば冷戦状態にあった――全ては僕の責任なのだが、僕の方には関係修復を図る手立てがほぼ皆無と来ている。何をどうすれば彼女の機嫌が直るのかまるでわからず、僕は無為無策のまま数日を過ごしていた。
 冷戦を引き起こしたのは互いに軍備を拡張させたせいだろう。小春の方はただただひたむきに僕への攻勢を強め、僕の方はと言えば防戦一方ながら、守ることに関してだけは長けている。世間体を愛する心がそう易々防衛線を突破させず、ひたすらに腰を引けさせている。お互いに武装解除の機を失したまま、結局冷戦へと突入してしまったのだ。
 僕と彼女の間には、はっきりと境界線が引かれている。
 意識の違い、温度差、或いは住まう世界そのものが境界線の向こうとこちらで分かたれている。

 小春は、気持ちはもう決まっていると僕に告げた。後は僕の気持ちだけだ、と。
 僕の気持ちは決まりそうになかった。世間体は大切だ。彼女の父、つまり伯父からの信頼を失いたくはない。しかし、小春をどこの馬の骨ともわからない奴に奪われるのも嫌だった。僕はこの歳になってようやく己の嫉妬深さと浅ましさを実感することとなった。
 そして肝心のところがわからない。結局、僕の心はどのような形で、小春へ向いているのだろう。保護欲か、性欲か、恋愛感情か。そのどれでもないのか、或いは全て、なのか。そこが判然としない以上は何の行動も取れない。僕は答えを求め、あれから日々煩悶していた。
 大体、小春の気持ちもはっきり聞いた訳ではないのだから、僕があれこれ悩むのもおかしな話ではある。小春が僕へと寄せる好意は一体どれほどのものか。全くわからぬうちから出方を考えるのも勇み足だろう。もしかすれば放っておくだけで冷めてしまうような好意かもしれない。――冷められてもいいと、僕自身がそこまで思えている訳では決してないのだが。
 やはり僕の気持ちは決まりそうにない。僕が望んでいるのは現状維持であり、或いは今の、冷戦状態の維持でもあった。ろくに口も利かない状況でも一つ屋根の下にいられるうちは目が届く。彼女が誰かに取られてしまわないかと心を配っておくことも出来る。この間のようにさりげなく、及び腰ながらも『悪い虫』を排除することだって、可能かもしれない。何度使える手かはわからないが、とりあえずは現状が一番望ましい形だった。

「君はこれからお昼ご飯?」
 場違いな問いだとは思ったが、僕は尋ねた。小春が財布を手にしているのを認めたからだった。
 小春はぎこちなく頷く。
「ええ。恭平さんもですか?」
「うん」
 僕も首肯した。これは嘘ではなかった。
 すると小春は長い睫毛を伏せ、何か思案したようだ。ちらと視線が僕へ戻り、更に問われた。
「どちらで、お昼ご飯になさるんですか」
 意外な、場違いな質問だった。冷戦下において、昼食を取りに行く先を気にされるのはいささか奇妙な気分だった。こんなことで嘘をつく気にもならず、正直に答える。
「食堂まで。大学の近くに、安い食堂があるんだ」
「どうりで、学食ではお会いしたことがないと思いました」
 小春の言葉通り、僕は学食をほとんど利用したことがなかった。学食も比較的安価なのだが敷居が高い。ちょうど小春が入学してくる前年に改装が施され、カフェテラスと呼ばれるこじゃれた場所に成り代わってしまったからだ。小春のような女子学生が利用するならともかく、僕のような冴えない男には足を運びにくくなってしまった。
 その頃見つけたのが、近所にあった大衆食堂だ。はっきり言ってきれいなところではないし、質より量、そして安価さが売り。メニューにもこじゃれたものなどなかったが、僕にはそれで十分だった。気取らないあの店の空気が肌に合った。
 きっと今頃は僕と同じような学生や、サラリーマンやらで混み合い始めている頃だろう。そう思った僕は、従妹に暇を告げようとした。
「じゃあ、僕はこれで――」
「恭平さん」
 小春が僕を呼び止める。
 踵を返しかけた僕が動きを止めれば、彼女は意を決した表情でこう切り出した。
「お昼ご飯、ご馳走してくれませんか」
 僕は呆気に取られた。従妹がそんなことを言い出すのは初めてだった。共に暮らしていても、金品などの共有、やり取りは断固としてしたがらないのが従妹だった。その堅実さから、僕も気を遣わずに共同生活を営んでこられたのだが――珍しいこともあるものだ。
「もし奢ってくださったら、この間のことは許してあげます」
 どこか慣れない、演ずるような傲慢さで小春は続ける。
「一緒に暮らしているのにいがみ合うのももう飽きましたし、これで手打ちということにしませんか」
 手打ち。小春の桃色の唇からよもやそんな言葉が飛び出すとは。
 そこまでしてこの冷戦状態を終わらせたかったのだろうか。彼女も思い悩んでいたのかもしれない。彼女にとっては、一度の昼食で先日の僕の言動をご破算するのが最良と思ったのかもしれない。そこまで悩ませていたなら申し訳ないが、しかし昼食程度で許されるものなのか、とも思う。
 らしからぬ物言いにどことはなしの違和感を抱きながらも、ともあれ僕は応じた。苦笑しながら、表向きは物わかりのいい従兄を装う。
「それでいいの? 君は」
「ええ」
 小春が形のいい顎を引く。
 すかさず僕は安堵したように語を継いだ。
「わかった、そうしよう。そういうことなら学食へ行こう」
 すると、小春は落胆したらしい。表情にありありと表れていた。抗弁も即座にされた。
「嫌です。恭平さんの行きつけのお店がいいんです」
 僕は驚く。反応にも困った。
「いや、君ね。そうは言われてもあの店は、君を連れて行くようなところじゃない」
 あの食堂に小春のような娘がいたのを見たことがない。ああいう店には若い娘は行かないものだ。あまりに不似合い過ぎる。
「あまりきれいなところでもないし、君の好きそうなメニューがある訳でもない。さすがに連れては行けないよ」
 僕は正直に訴えた。しかし小春は頑として言い張るのだ。
「恭平さんのよく行くお店に行ってみたいんです。そうでなければ手打ちには出来ません」
「だからね、君を連れて行って喜ばせられるようなところじゃ――」
「連れて行ってください」
 眉尻を上げた従妹の、何より場違いな硬い表情。何が彼女をそうさせているのかはわからない。しかし彼女が見かけによらず頑固で、易々と引き下がる性質ではないことは身に染みて理解していた。いくら不似合いさを説いたところで無駄だろう。
 結局は折れる他なく、僕は彼女を件の食堂まで案内することとなった。


 予想通り、食堂内は既に混み合っていた。
 漆喰塗りの壁には大きさの揃わない紙で、雑然とメニューが記されている。飾り気のないテーブルと丸椅子に着いているのはやはり、僕のような冴えない学生かサラリーマン、或いは近くで道路工事を行っているらしい作業員。むさ苦しい顔ぶればかりが詰め込まれている。狭い店内にはいい匂いと、低い声のざわめきとが満ち満ちていた。
 そんないつもの光景に、ただひとり異彩を放つ人物がいる。僕の目の前で姿勢よくしている、小春だ。
 すれ違う人にしょっちゅう振り返られる美貌の持ち主は、今は行儀よく運ばれてきた料理に手を合わせていた。それが終わると、僕に向かって輝かんばかりの笑顔を向けてくる。
「本当に早いんですね、お料理が出来上がるの」
「……まあ、それが売りみたいなものだから」
 僕は小春に答えつつ、周りの目が気になって仕方がない。居合わせた男たちの皆が、彼女に視線を注いでいる。彼女の美しさと場違いさへ困惑の眼差しを送っている。
 彼女自身は周囲の空気に、まるで気付いていないようなそぶりだ。
「鯖の味噌煮を食べるの、久しぶりです。実家ではよく母が作ってくれていたんですけど」
 小春が注文したのは鯖の味噌煮定食。ここへ来てすぐに、何がお薦めなのかと問われたので教えてやった。やや濃い目の味付けでご飯に合うのだ。淑やかな伯母が作るような料理とは恐らく違うだろうが、美味いのには変わりない。
 僕は生姜焼き定食にした。小春と同居してからというもの、ひもじい思いをすることとは無縁だったが、彼女の作る料理はほとんどが洋食。だから昼飯には和食を選ぶようにしていた。そうすれば昼と夜が被ることもない。
「恭平さんは和食の方がお好きなんですか」
「いや、どうだろう。何でも食べるよ」
 確か同居を始めた直後にもそんなことを聞かれていたな、と僕は思う。小春は同居に当たって夕飯の用意を一手に引き受けると言ってくれた。実によく出来た、ありがたい娘だった。
 だからそんな彼女をこんなむさ苦しい店へ連れてくるのは、正直気が引けた。伯父に知れたらこれだけで叱り飛ばされそうな気もする。あまりにも不似合いなのだ。
「美味しそう」
 鯖の味噌煮を箸でつまみ、上品な手つきで口へと運ぶ。可愛らしくぱくりと食べて、それから小春はにっこりと笑んだ。
「美味しいです。恭平さんのお薦めどおりですね」
「喜んで貰えてよかった」
 僕は胸を撫で下ろし、自分の生姜焼きに齧りつく。行儀のよい従妹の手前、僕の方も普段より行儀よくすることを心がけた。

 小春は姿勢がいい。箸の持ち方がいい。上げ下げ一つとっても品があり、育ちのよさをそのふるまいで物語っている。美貌に相応しい所作が更に人の目を惹きつけている。
 例えるならば毛並みのよい、血統書つきの猫だった。毛足の長い奴だ。あれが雑種ばかりの狭苦しい小屋に放り込まれて、奇異の眼差しを向けられているにもかかわらず、行儀よくちょこんと座って気品を保ち続けているような光景だ。
 お世辞にもきれいとは言えない食堂で、むさ苦しくも冴えない男たちに囲まれて、それでも至って平然としている小春。その桃色の唇へ僕の薦めた鯖の味噌煮を一口ずつ運んでいく姿を目の当たりにして、僕は奇妙な感覚を抱き始めていた。
 見慣れた光景に彼女がいるという状況は、これが初めてではなかった。これまでいくつも体験してきた。住み慣れたあの部屋に一緒に住むようになった小春。通い慣れた大学へ新入生として現われた小春。それから行きつけの食堂に連れて行けとせがみ、今こうして共に食事をしている小春。
 僕の世界は少しずつ彼女に侵食されている。まるで僕自身の中に彼女が入り込んでくるような感覚を覚えていた。僕の居所には常に彼女がいるようだ。目には映らなくとも、傍ではなくとも、本当にいるのかどうかがわからない時でも――思考の片隅に彼女がいる。僕の心は彼女に侵食されている。
 そうして僕の全てが彼女に侵食され、僕らの境界線が曖昧になった時、僕らは一体どうなるのだろう。全てのものを共有することになるのだろうか。例えば僕が持つ感情。彼女へと向ける複雑かつ判然としない感情も、彼女によって共有されるのだろうか。或いは、彼女が僕に対して抱く、程度の知れぬ好意も、僕によって共有されることになるのだろうか。
 まだ僕らの間には境界線がある。それは僕の世間体を愛する心によってかろうじて保たれている。しかしいつまで守り切れるものかわかったものではない。今のように実に呆気なく、僕自身にもわからぬうちに侵食されていることもあるのだから。
 その上、冷戦は解除された。短く、他愛のない冷戦だった。これから彼女はどうするのだろう。以前のように僕の胸中を確かめようとしてくるだろうか。何気ないそぶりで、もしくは彼女にも自覚のないうちに僕の世界を、僕の心を侵食しようとするだろうか。では僕は? 僕は彼女を侵食するだろうか。知らず知らずのうちに彼女の世界へ、彼女の心へ侵食していたということはないだろうか。

 心に誰かが入り込み、住まったまま一向に出て行かぬ状態を、果たして何と呼ぶのだろう。
 それは保護欲だろうか。――否。では、性欲だろうか。――それも否。ならば恋愛感情だろうか。――それだけでもないように思う。
 全てであるようにも思うし、どれでもないようにも思う。
 そういう心を、では、何と呼ぶのが一番正しいのだろう。

「――恭平さん?」
 名を呼ばれ、僕は我に返る。
 狭いテーブルの向こう、小春の不安げな表情が真っ先に飛び込んできた。彼女は小首を傾げて尋ねた。
「どうかしました? ご飯、進んでないみたいですけど」
「いや、何でもないよ」
 僕はかぶりを振る。何でもないはずはなかったが、かといって彼女に説明出来るものがある訳でもなかった。まだ、説明がつかない。
 ただ、確かめたくはなった。
「これで、僕のことは許してくれる?」
 そう問うた僕に、小春は僅かな黙考の後、笑顔で答えた。
「いいですよ。ご破算にしましょう」
「ありがとう。ほっとしたよ」
 しかし嘘だった。安堵はしなかった。
 むしろ僕は初めて、この状況に言い知れぬ焦りを覚えた。
 許されて、それで終わりではない。これからだ。
 これから僕は答えを見つけなくてはならない。僕と小春の間にある境界線、それがなくなった時の、僕らの心の名前を。
 恐らくそれはその時、僕らの間で等しいものになっているだろうから。


 食堂を出て、大学へと戻る途中で小春は言った。
「今日はありがとうございました、恭平さん」
「こちらこそ。安い昼食で悪かったね」
 僕が詫びると、彼女は首を横に振る。
「いいんです。恭平さんの来ているお店に、私も来てみたかったんです」
「しかし、居心地悪かっただろ? 君みたいな女の子はいない店で……」
「そんなことありませんよ。恭平さんがいてくださったら」
 小春は愛らしく笑んでいる。
 血統書つきの、毛並みのいい猫。目の前の狼の臆病さを知っていて、だからこそ境界線を越えて侵食してこようとする彼女。
 僕は焦り出している。彼女が美貌の持ち主だからでも、従妹だからでもなく、境界線がなくなる時が近いことを察したからだ。
 もしかすると、今夜にでも。
「恭平さん、今日の夕飯は食べてくれますか」
 小春が言う。何気ない口調で言ってくる。
「今晩はスパゲッティにしようと思います。ミートソースとナポリタンならどちらがいいですか」
「……どちらでも。君の作り易い方で」
 そんな選択をする余裕もない。
 僕は答えを出さなくてはならない。心の名前、或いは何よりも愛し貴ぶ世間体を、今後どのように扱うかということについても。
PREV← →NEXT 目次
▲top