Tiny garden

男は皆、オオカミなんだ

 小春が部屋に帰ってきたのは、ちょうど僕が夕飯を食べ始めようとした時だった。
 入ってくるなりふらふらとソファーに腰を下ろした彼女は、少し疲れた様子だった。僕の方をちらと見て、ただいま、と唇を動かす。昨晩の残りのシチューを口に運びながら、僕はおかえり、と会釈をする。六畳の居間に一瞬、奇妙な沈黙が生まれる。
 溜息一つの後で、おもむろに小春は言った。
「恭平さん、質問があります」
「何かな、小春」
 シチューを飲み込んでから尋ね返せば、彼女は笑いを含まない声で、
「男の人が皆、狼だという話は、本当でしょうか」
 僕は即答せず目を瞠った。付き合いだけは長い従妹に、やや世間知らずな面があることは承知している。だがことにこういった――恋だの、性だのが絡む問題については僕の苦手とするところであり、これまで従妹との会話にも上ったことがなかった。こんな問いをされるとは予想だにしていなかったのだ。
 背筋がひやりとして、僕はたどたどしく答えるのが精一杯だった。
「質問の……意図がわからない。君が聞きたいのは、僕についてのことなのか?」
 すると小春はかぶりを振る。
「いえ、違います。一般論としてです」
 生真面目な従妹はそう言ってから、困り顔になって続けた。
「私の友達に、そう聞いたんです。ですが私にはどうしてもそうは思えなくて、男の人の方がよくご存知だろうと恭平さんに尋ねてみたのです」
「なるほど」
 小春の説明を聞くと、やはり多少はほっとした。安堵する心に気付くと苦笑せざるを得ず、僕はそうした。
「てっきり僕は、君が僕のことをそう感じてしまったのかと思った」
「まさか、そんなことありません。恭平さんは英国紳士もかくやという人です」
「顔は純和風だけどね」
 彼女の言葉に自分で逃げ道を作ってから、僕は問いに答えるべく、思案を始めた。

 男は皆、狼なのか。――僕に限って言うなら、そうではないと言えるだろう。僕と小春は従兄妹同士で、たまたま通っている大学が同じであり、そして互いの実家より遠かったという理由で今春から二人暮らしを始めている。年長の僕が、小春の両親からお目付け役を頼まれた格好だった。狭いアパートでの同居は何かと接点の多いものだったが、僕は小春の前では紳士的な態度に努めていたし、見境なく手を出すほど愚かでもない。
 従兄妹同士という緩やかな血の繋がりと、歳の近い男女の同居。僕らの関係は世間的に見るといささか、好ましくないものとされている。僕らにやましいところは全くないが、それでも人の目は気になるところだった。従妹に先の問いを向けられた時、従妹にとっての僕が危険な存在であると意識されているのかと、ひやっとしたものだった。そうではなくて安堵した。僕らの関係は、生活を共にしているという以外の何物でもなく、そこに恋だの性だのが入り込む余地はない。従兄妹同士というのは友人でも、兄妹でもない、他人が思うよりもずっとよそよそしい関わりなのだ。
 これで小春が従妹でなければどうだっただろうか。親戚だからというフィルターを外せば彼女はなかなかの美貌の持ち主だ。僕の前では行儀もよく、控えめで気立てのいい娘でもある。決して嫌いなタイプではない。しかし僕なら、小春と例え血のつながりがなくとも手を出さなかっただろう。理由は簡単、僕という男は性欲よりも世間体の方をより深く愛しているような人間からだ。同居している、物理的な距離が近しいだけの恋仲でもないような女に手を出すことは、僕にとっては不名誉な流され方と言えた。そんなことをしてみろ、そら見たことかと色眼鏡を掛けた連中が挙って馬鹿にするに違いない。僕はそういう連中が好きではないから、この度の従妹との同居にも細心の注意を払っていた。
 男が皆、総じて狼であるというのなら、僕のような人間は存在しないはずだ。そこまで考えて、僕は小春に答える気になった。

「僕もそうではないと思うよ」
 そう言ってやると、ソファーの上の小春はほっと表情を和らげた。今の今まで硬い面持ちで、僕の答えを待っていたのだった。この生真面目な従妹は、僕の前では常に姿勢を正している。これだけでも僕らの間の距離がわかりそうなものだ。
「そうですよね。恭平さんにそう言って貰えて、ほっとしました」
「しかし、君の友人は何だってそんなことを?」
 今後は逆に僕が尋ねた。
「男は皆が狼だなんて、やぶからぼうに言われたら僕はかちんと来るな。いきなりそれは男性蔑視もいいところだ。発言の場が場なら差別問題にも発展しかねない」
 僕は内心、憤っていた。従妹の交友関係の詳細は知らないが、おかしなことを吹き込む奴もいたものだ。彼女も少し友達付き合いを考えた方がいいかもしれない。
 その時小春の顔に、僅かな躊躇いの色が過ぎった。彼女は睫毛を伏せ、小声になって話し出す。
「友達も、差別のつもりで言ったのではないと思います。私への忠告らしいんです」
「忠告?」
 やはり僕のことなのかと思ったが、小春はそうは言わずに続けた。
「私も、男の人が皆、狼だなんて思っていません。というより、狼のような男の人になんて出会ったことがありません。だから友達のいうことがどうしても腑に落ちなかったんです」
 純粋な彼女ならそうだろう。大学で交友関係が広まり、あれこれ吹き込んでくるような耳年増の友人を得て、戸惑っているのかもしれない。
 ちょうどその時、僕は一杯目のシチューを食べ終えた。お替わりをしようと腰を浮かせかけ、ふと思いつき、小春に声を掛ける。
「小春、君は夕飯は?」
「あ、外でいただいてきました」
 小春は答え、お構いなく、と笑った。
 そこで僕は台所まで二杯目のシチューをよそいに行き、居間に戻ってから、再び話題を戻すことにした。
「確かに、一部にはまるで狼のような男もいるのだと思う」
 既に夜分遅かった。シチューは二杯で止めておこうと思いながら、僕は語を継ぐ。
「しかし僕もそういう男にはほとんど出くわしたことがない。大抵の男は分別があるし、それよりも好みが激しいものだ。どんな女にも見境のない奴なんて、或る意味では猛者だよ。皆、好きでもない女の前ではそうそう羽目を外さないものだ」
「でもそれでは、好みの女性の前では狼になってしまう、というケースになり得ませんか」
 小春は整然と反論してきた。
「友達の言っていたのもそのような意味でした。男の人は好きな女性に対して狼になる。いつも狼なのではなくて、油断した隙を突いて本性をあらわにするんだと聞きました」
 なるほど。一瞬納得しかけて、僕は歯切れの悪い答え方をする。
「まあ、そういう奴の方が多いだろうと思うけど」
「それならやはり、多くの男の人は狼だという結論でもおかしくないように思います」
 不安げな小春の言い分ももっともだ。僕の言ったことは、つまり小春の友人の言葉の通りにもなるだろう。そういう意味では、男は狼だと言っても差し支えないのかもしれない。僕と小春の間にはそんな事例はあり得ないものの。
 言葉を選びながら、慎重に答える。
「しかし……ね、主観的な意見になってしまうけど、じゃあいつ狼の顔を見せるのかという話になると思うよ」
 狼の顔丸出しで街を練り歩く奴はそうそういない――見ないこともないが、この場合はさて置く。
「いつ、でしょうか」
 眉根を寄せる小春を見て、僕は少し笑った。
「それは本当にごく近しくなってから、最終の段階でのことだろうね。男の好みが激しいのは先に述べた通りだけど、その好みを見極めるまでにも大分時間が掛かるものなんだ。相手のことをよく見、考え、この人となら恋に落ちてもいいだろうと思えた時、男は本性を曝け出すものなのだと思うよ。そこまでは男の側にも隙があるから、女の方にだって吟味し選択する余地はあるはずだ」
 合間にシチューを味わいながら、とつとつと持論を展開する。気分は弁護士だ。僕は今、全世界の男の弁護を請け負っている。さあ判決はどうだろう、よもやこんな名弁護を聞いても尚、男が危険な存在だとは思わないだろうね。
 彼女に一番近しい男が僕なら、きっと僕の普段からの態度は何より如実に証拠となるはずだ。物理的に近しくても尚、きちんと距離を置いていられる従兄。まるで男の模範のような僕。
「そういうことならわかります。恋愛とはそういうものですよね、恭平さん」
 ふと、小春の顔にも安堵の色が広がる。彼女が普遍的な恋愛を知っているとは意外だったが、従妹を安心させられたことには僕も満足していた。
 そうだ、そういうものだ。男とは或る意味で限定的に狼の側面を有するものかもしれないが、だからといって恐れる必要は全くない。彼女が僕を恐れる必要もまるでない、僕らは従兄妹同士でしかなく、他人が思うよりもずっとよそよそしい関わりしかないのだ。彼女の前で僕が狼の側面をあらわにすることはあり得ない。一緒に暮らしているというだけで、これ以上近しい間柄となることもないだろうから。
「君の友人がどう思っているかはわからないけど、男なんてそう、恐れるに足らずだ。あまり警戒せずに接するべきだと僕は思うよ」
 僕は言い、更に残ったシチューを掻き込んだ。
「そうですよね」
 ソファーの上の小春が声を弾ませる。
「恭平さんのお話、とっても腑に落ちました。私もようやく、男の人が狼だと言われたこと、理解出来るような気がしました」
「そうか、よかった」
「迷っていたのですが、これでようやく、確かめる決心がつきそうです」
 と、小春が言ったので、シチュー皿を空にした僕はふと瞬きをした。決心とは何のことだろう。
 ソファーの上へ目を向けると、従妹は照れ笑いを浮かべていた。
「実はですね」
 小春は僕の視線から逃げるように、そっと目を伏せてみせる。
「今日、友人の紹介で会った男の人に、二人で会わないかと誘われたんです」
「え?」
 間の抜けた声が、僕の口から飛び出した。それには構わず小春は続ける。
「悪い印象はない人でした。優しそうな人で、友人と同じゼミだとのことで、いろいろとお話もしてみました。でも二人で会うとなると初めてのことで、どうしていいのかわからなくて、その人と別れた後で友人に相談してみたんです」
 言いながら、小春は自らの爪先にそっと触れた。見慣れない青のペディキュア。彼女の手が足を包み込むようにすると、ジーンズの裾からきれいな踝が覗いた。
「そうしたら友人は、もし会うなら重々気を付けるようにと言いました。男の人は皆、狼なんだから、とも。――でもそんな風に言われるとは思っていなくて、あの人が狼だなんてとても思えなくて、それで恭平さんに聞いてみようと思ったんです」
 名前を呼ばれて、はっとした。慌てて目を逸らすと、従妹の声が追ってくる。
「だから恭平さんのお話に、迷いが消えたように思います。男の人にそこまでの警戒心を持つことなんてないですよね。変に怪しんだりしないで、一度、二人で会ってみてもいいかな、と思っています」
 その声は、どことなくうれしげに聞こえた。初めての恋に浮かれる女の声だった。二つ年下の従妹の、女の側面を目の当たりにし、僕は存外に狼狽していた。
「いや、君、それはね」
 思わず、反論が口をついて出た。
「小春、君は浮かれているようだから、少々慎重になった方がいい。男なんてものは上辺だけ優しそうに見えたって駄目なんだ。会ったその日に二人になりたいだなんて、よくない奴に決まっている。止めておきなさい」
 思いのほか感情的な語調になり、六畳の居間には奇妙な沈黙が訪れた。それはいつものように一瞬のみで、すぐに小春が語を継いだ。
「でも……恭平さん。たった今、恭平さんが言ったんですよ、それほど恐れることじゃないって」
 的確な指摘だった。だからこそひやっとした。僕が持論をあっさり翻した理由を怪しまれなければいいのだが――そもそも理由は何だ、僕にもよくわからないが、気に食わない。
「だからそれは、あくまで主観的意見なんだ。僕はそう思うけど、現実にはそうじゃない場合もある。君の話を聞く限りじゃ、その男はどうも怪しい」
 むしろ怪しい男であって欲しい、と不意に思った。小春が容易く欺かれず、その警戒心をもってして本質を見抜いて、そいつを撥ね付けてくれればいいと。従妹の女らしさを目の当たりにするのは心臓によくない。恋に浮かれる彼女と一緒に生活なんて出来やしない。僕らの間の距離は友人よりも兄妹よりもよそよそしく、そこに恋だの性だのが入り込む余地はない。入り込んで欲しくない。他人に向けられるものならば尚更だ。僕はそういう話題が好きではないのだ。
「会わない方がいい」
 僕が繰り返すと、また奇妙な沈黙が居間を支配した。
 小春はしばらく迷っていたようで、ソファーのスプリングが軋む微かな音が何度か聞こえた。そして、ややしばらく経ってからこう言い出した。
「じゃあ、やっぱり男の人は狼なのかもしれませんね」
 当初、僕はその意見を否定した。にもかかわらず、今の小春の言葉には安堵していた。是非とも彼女にはそう思って欲しかった。男は皆、狼だ。
 思わず顔を上げると、ソファーから僕を見下ろす彼女と目が合う。笑っている。色づいた唇が女の笑みを形作る。見たことのない表情だった。瞬間、気圧された。
「ただ、いろんな狼がいるんだろうなと思います。例えば、手を伸ばせば届くくらいの距離にはいるのに、それでもちっとも手を出してこない臆病者の狼もいますよね」
 珍しく、挑発的な口調で小春が言った。二つも年下の従妹にそんな物言いをされて、なのに僕は屈辱に感じるどころかはっとさせられてさえいる。従兄妹同士だから、この距離だからこそ、彼女の女の側面を見せつけられると動揺する。僕らの間にそういった感情は入らないものと思い込み、それを盾にして臆した本心から目を背け続けていた。
 そのくせ、僕は彼女に近づく男を警戒している。さっきのように、卑怯極まりないやり方で止めようとしている。彼女が恋をする姿を見たくないから? ――それは真実。だが、僕がそういった話題が好きではない、ただそれだけの理由なのかと問われれば――間違いなく、嘘だ。
「恭平さん。止めるなら、ちゃんと止めてください」
 いつの間にか女の顔が似合うようになった、小春がそう、僕に告げてくる。
 僕はまだ狼狽えながら、ようやく様々な認識を改めた。確かに男は狼だ。そして僕は、理屈っぽく臆病者の狼のようだ。性欲よりも、むしろ恋愛感情よりも、世間体の方を深く愛しているような――それもとびきり好みの女の前では、いつか脆くも崩れ去るのだろう。目を背け続けることが出来なくなれば、呆気ないほどに。
 ソファーから垂れ下がった細い足の爪先、鮮やかな青のペディキュアが目に入る。そっと包むように持ち上げて、そこへこわごわ口づける。すると従妹はこれまでで一番深い、安堵の溜息をついた。
「小春」
 僕は狼のくせに猫撫で声で、そっと彼女に呼びかけた。
「僕は、その、出来れば君に、そんな奴と会わないで欲しいんだけど……」
 小春は僕を見下ろして、微かな苦笑いを見せた。
「恭平さんの臆病者」
 全くだ。彼女の言うことは正しい。彼女に確かめられても尚、僕の狼としての側面は臆病なままで、だけど一番好みの女の前で、静かに牙を研ぎ始めている。いつになれば剥く気になるのかもわからない牙を。
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