Tiny garden

廊下を走っちゃいけません

 ふと気が付くと、白っぽい天井が見えた。
 オレンジの陽射しが切り込むように四角く、映っている天井は、見覚えのある模様をしていた。
 私はゆっくりと目を動かして、辺りの景色を見る。
 白っぽい天井を、白っぽいカーテンが遮っていて、部屋の中は見渡せない。カーテンに仕切られたごく狭い空間の中、白い布団とシーツ、ベッドのパイプが目に入った時、私はここに寝かされているんだとわかった。
 消毒薬のつんとする匂いが鼻を突く。
 ここは、病院?
 ――いや、違う。ここには何度か来たことがあると思う。確か、ここは。

「お、気が付いた」
 誰かの声にはっとした。いつも通りの素っ気なさに、私はその人の顔をすぐ思い浮かべることが出来る。
 制服姿の耕太くんは、ベッドサイドの椅子に腰掛けていた。
 いつもあまり笑わない彼は、それでも心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「大丈夫か?」
「え? うん……」
 大丈夫って、何がだろう。頭がまだぼんやりしてて、上手く働かない。
 とりあえず起き上がろうとすると、
「あ、じっとしてろって」
 すかさず耕太くんに止められた。再び枕に置いた頭が、途端にずきずきし始める。ポニーテールの結び目の、もう少し右の方。
「お前、頭打ってんだからさ」
「頭? 私が?」
「そうだよ。覚えてねえの?」
「覚えて、って……」
 私は耕太くんの顔を見上げながら、呆然とした。
 確かに頭は痛んだ。ぶつけた後みたいにずきずきしている。
「階段から落ちたんだよ。つるっと」
 耕太くんは手振りつきで説明すると、呆れたように溜息をつく。
「勘弁しろよ、頭打って記憶喪失なんて漫画じゃあるまいし」
 それで私はちょっと考え込んで、思い出そうとする。
 覚えて、いた。記憶喪失なんかじゃない。
 階段……そうだ。私は階段を駆け下りようとして、最初の一段を踏み外したんだ。あの時、上靴がつるっと滑ったのと、身体が宙に浮くような感覚と、ぞっとする悪寒を覚えていた。忘れてはいなかった。
 頭を打った瞬間のことは、不幸中の幸いと言うべきか、あんまりよく覚えてなかったけど。でも結構ずきずきする。覚えてなくても関係ないかもしれない。
 私はようやくはっとして、慌てて尋ねた。
「ここ、保健室だよね?」
「そうだよ」
 耕太くんが仏頂面で頷く。
「もしかして、耕太くんが連れてきてくれたの?」
「そうだって」
 どこかいらいらしたみたいに耕太くんは答えた。
 機嫌が悪そうなのもいつものことだけど、ありがとうを言おうとした気持ちが急にしぼんだ。これだから耕太くんは苦手だ。何て言っていいのかわからなくなる。お礼くらい言う暇、くれたっていいのに。
「あの……」
 私は、びくつきながらも尋ねてみる。
「先生は?」
「何の? うちの部?」
 耕太くんは眉を顰めて私を見た。どうしてそんなきつい顔をするんだろう。
「う、ううん。養護の先生」
 保健室の中は不気味なくらい静かだ。窓が開いているらしく、風の音が時々するだけ。校舎の一番端っこにあるから、耕太くんが私を運んでくるのは、大変だったんじゃないかと思う。
 何でそんなこと聞くんだ、と言いたそうな顔をした耕太くんに、私は早口で言った。
「だって、保健室って無断で入ったら怒られるよね? 私、ベッド使ってるし」
「ああ、そういうことか。さっき断ったから、心配すんな」
「そうなんだ」
 私はちょっと、ほっとする。
 首を竦めた耕太くんは、
「すぐ戻ってくるから、ここで待ってろってよ。どっちにしろ頭打ってんだし、しばらく動かない方がいいけどな」
 と言ってから、笑うように鼻を鳴らしてみせた。
「先生、怒ってたぞ。廊下走ったりするからこういうことになるんだって」
「う……話しちゃったの、耕太くん」
 廊下を走っちゃいけないのは、どこの学校だって同じだ。階段だって駆け下りるのはいけない。でも、私は時々それを破って、ついつい走ってしまうことがある。他の校則違反はしないのに、廊下を走ることだけはしちゃうって子、多いんじゃないかな。
 だからって、もちろん正当化は出来ないけど。現にこうして頭を打ってるんだから怒られるのも無理ない。養護の先生は怒ると恐いから、今から震え上がってしまう。
「言わない訳にいかないだろ、お前はうんともすんとも言わねえし、どうしてこうなったのかって話になったら」
 また耕太くんが鼻を鳴らす。今度は少し、不満そうに。
「大体、俺だって一緒に怒られたんだぞ。お前が階段で鈍くさく転ぶから悪いんだよ」
「ごめん」
 私は気まずい思いで言った。
 それからふと、耕太くんの言葉を反芻して、気になったことを聞き返す。
「でも、耕太くんまで怒られることなんてないよね。転んだの、私なのに」
 すると、
「は?」
 耕太くんがまばたきをした。
 口を開けて、声は出さずにしばらくそのまま、ぼうっとする。
 何か、おかしなことでも言っちゃったかな。私は落ち着かない気持ちでいた。もうそろそろ起き上がりたいと思ったけど、この空気じゃそれも出来ない。身動きするのも申し訳ない気がして、ひたすらじっとしていた。
 それより、おかしいな。耕太くんの今の顔、どこかで見たことがあったような気がする。機嫌の悪い顔以外、あんまりしない人なんだけどな。つい最近、こんな風にぼうっとされたことがあったような。いつだったっけ――。
 カーテンレールの擦れる金属音が聞こえた。微かな音。夏の風が吹き込んできて、白っぽいカーテンが膨らむ。
 気が付けばもう、日が暮れ始めていた。今は、部活の練習も終わった後だったはず。その辺りの記憶はまだぼやけてるけど確か、そう。
 部活の練習が終わってから、ええと、何があったんだっけ。
「お前さ」
 耕太くんが不意に、小さな声で言った。
「もしかして、本当に忘れてる?」
「何を?」
 私も考え事を止めて、何だかぼんやり答える。
 忘れてるって、何をだろう。
「いや、だから……」
 そう言い掛けて、だけどすぐ、耕太くんは口を噤んでしまった。気まずそうな顔をして。
「やっぱ、何でもない」
「耕太くん?」
「忘れてる方がいいんだったよな、お前」
「何が?」
 ぼそっと聞こえた言葉は訳がわからない。
 訝しがる私を放っておいて、耕太くんが丸椅子から立ち上がる。溜息をつきながら言ってきた。
「鞄、取ってくる。お前のも音楽室にあるだろ?」
「う……うん、多分」
「多分かよ、頼りねえな」
 毒づくように言った耕太くんは、くるりと背を向けた。
 カーテンをくぐろうとするところを、私は慌てて、
「あ、こ、耕太くん」
 起き上がりながら呼び止めた。
「今度は何だよ?」
 狭い空間を仕切る、白っぽいカーテンに手を掛けた耕太くん。こちらを振り向かない。その後ろ姿に、恐る恐る告げた。
「あの、ありがとう。保健室まで連れてきてくれて」
「別に。俺のせいだし」
 耕太くんはそう言って、後ろ向きのまま肩を竦める。
「まさかお前に、本当に忘れられるとは思わなかった」
「え? ええと――」
 私が反応に迷っている間に、カーテンが大きく開かれて、すぐに閉じた。
 保健室のドアが閉まり、足音が遠くなっていく。耕太くんは廊下を走らなかった。

 後に残された私は、やっぱりぼうっとしていた。
 だって何かおかしい。耕太くんは奇妙なことを言ってるし、変な態度だった。私が何か忘れてるみたいに言っていた。私は何のことか、さっぱりわからないのに。
 忘れてること――何か、あったっけ。
 階段を落ちる瞬間のことは覚えてる。上履きがつるっと、踏み外した瞬間は。それから身体が浮いて、すぐに落ちて。落ちる、と思った時は背筋がぞっとした。
 頭を打った瞬間のことは、正直、曖昧だ。すごく痛かったような気もするけど、何だかはっきりしない。ただ、コブになってるくらいだから、結構盛大に打ったんじゃないだろうか。おかしな打ち方しなくて本当によかった。
 あと、忘れてることと言えば、あり得そうなのは部活のこと。吹奏楽部の件で、何かあったかな。今日の練習は終わってるし、明日の練習もいつも通りに行われるって聞いてる。パーカスのパートで連絡することも、特別なかったと思うんだけど……。
 あれ?
 そう言えば私、どうして廊下なんて走ってたんだろう。
 廊下を走って、階段を駆け下りようとして、落っこちた。でも、その前は? 何で廊下を走ってたんだっけ。
 その瞬間に、背筋が、ぞっとした。全部、思い出した。
 思い出した。ううん、そもそも記憶喪失なんかじゃない。ぼんやりしていて、考え付かなかっただけだ。私は全部、ちゃんと覚えていた。
 音楽準備室で、耕太くんにタオルを渡してあげたこと。耕太くんに、よく見てるんだなって苦笑いされたこと。慌てて言い訳をした私が、私の気持ちを、耕太くんに見抜かれてしまったこと。
 覚えていた。あの瞬間のぞっとする悪寒。耕太くんに気付かれて、いたたまれなかった。なかったことにしようって言ったのに、わざわざ、今更みたいに気付いてそれを確かめられたのが。耕太くんが迷惑がるのはわかってたから、なかったことにして貰う方がよかったのに。
 耕太くんはぼうっとした顔で私を見ていた。ちょうど、さっきみたいに。
 たまらず、逃げ出した。だけど耕太くんが追い駆けてきたんだ。何か叫んでたけど聞こえなかった。逃げなきゃいけないって強く思った。
 昔、野球をやってた耕太くんの足は速かった。追い着かれそうになった。肩を掴まれそうになって、私は大急ぎで階段に飛び込んだ。それで――。

 遠くから話し声が聞こえて、はっとする。
 保健室の外、廊下に響く、だんだんと近付いてくる声。一つは女の人のもので、もう一つはそれよりも低い声。養護の先生と、耕太くんの声だとわかった。
「――打ちどころが悪かったら大変なことになってたのよ」
 若くてきれいな養護の先生の、声はとても怒っていた。
「廊下や階段でで追いかけっこなんて馬鹿げたこと、どうしてする気になったの」
「すみません」
 耕太くんの声はぶすっとしていた。いつもと同じ、耕太くんだ。
「大体ね、君は雄太くんのお兄さんでしょう」
 先生が雄太くんの名前を口にして、私はベッドの上で唇を噛む。
「雄太くんがあんなに頑張ってる時に、君は何をやってるの。廊下で危なっかしい遊びをして、女の子を転ばせるなんて。少しは考えなさい」
「反省してます」
「双子なのにどうしてこうも違うのかしらね。雄太くんは真面目な、いい子なのに」
 違う。先生の言うことは間違ってる。
 確かに、雄太くんは頑張ってるし、野球部にとっても今は大事な時期だと思う。だけど耕太くんだって頑張ってる。吹奏楽部で一生懸命ティンパニを叩いてる。雄太君を応援する為にすごくすごく頑張ってるんだ。
 だから、そんな耕太くんがこんな時に、誰かに怪我をさせるなんてことは絶対しない。耕太くんは何も悪くない。悪いのは私だ。廊下を走ったのも、階段から落ちて頭を打ったのも私のせい。こんな時に、耕太くんを好きになってしまったのも全部、私が悪い。
 全部、本当のことを言ってくれても構わないのに、私が勝手に階段から落ちたんだって言ってしまえばいいのに、どうして耕太くんは言い訳一つしないんだろう。
「すみません」
 低い声でそう言うのが聞こえた時、保健室のドアが開いた。
 どさりと重い音がカーテンの前で、した。
「鞄、ここに置いてきます」
「ご苦労様」
 養護の先生は、厳しい口調のままで言って、更に続ける。
「彼女にはよく言い聞かせておくけど、君も反省するのよ」
「はい」
「大事に至らなかったからよかったものの、打ちどころが悪ければ大変なことになってたのよ。そのくらい、少し考えればわかるでしょう?」
「わかりました」
 耕太くんはそう答えるだけだ。本当のことを、私が悪いとは言おうとしない。
「じゃ、行ってよろしい」
「失礼します」
 先生が言い渡すと、耕太くんも素直に応じて、保健室のドアが閉まる。
 足音が遠くなる。
 耕太くんが帰ってしまう。
 私はベッドから降りた。焦る気持ちでシーツと掛け布団を直す。
 このまま耕太くんが帰っちゃったら、全部『なかったこと』になってしまう。本当になくなってしまう。そんなのは嫌だった。耕太くんに、私は忘れてないってことをちゃんと伝えたかった。
 忘れてない。覚えてる。耕太くんは何も悪くない。悪いのは私だ、耕太くんのせいなんかじゃない。
 カーテンが開いた。
 養護の先生は私を見て、少し驚いたように目を瞠った。
「あら、もう起きられるの?」
「はい、平気です。あの――」
「あなたもね。追いかけっこなんて危なっかしい真似はしないのよ。廊下を走り回って遊ぶなんて、子どもじみたことをして」
 私の言葉を、鋭く遮る先生。
 思わず口を噤みたくなる。
「大体あなたたち、吹奏楽部でしょう。野球部の応援練習してるんじゃないの? 野球部が甲子園目指して一生懸命やってる時に、あなたたちは何を浮ついてるの」
 だけど先生が野球部のことを口にした時、黙っていられないと思った。
 だって違う。違うもの。浮ついてなんかない。
「違うんです、先生」
 私は言って、大きく息を吸い込んだ。
「え?」
 先生が一段と目を瞠った時、私は自分で言葉を継いだ。
「耕太くんは頑張ってます。耕太くんだって一生懸命なんです。雄太くんが甲子園目指してるから、その応援をしたいって毎日一生懸命練習してるんです。耕太くんは浮ついてなんかいません」
 四分休符の間で息継ぎをする。パーカスの私でも、今は息継ぎをする。それから続ける。
「階段から落ちたのは、私が悪いんです。廊下を走って、階段から落ちたのは、私一人の責任なんです。耕太くんはちっとも悪くありません。だから、怒るのは私だけにしてください」
「……そ、そう」
 面食らった表情で、先生は頷いた。
「だけど、あの子が言ってたこととは違うわねえ」
「でも本当なんです」
 私は言い募り、頭を下げた。
「ご迷惑掛けて、ごめんなさい、先生」
「ええ、それはいいのよ」
 先生は意外にも、あっさりとそう言った。煙に巻かれたような顔をしていた。
「ただ、そうね。次からは気を付けてね。打ちどころが悪くなかったからよかったけど、一歩間違えば大変なことになっていたんだし」
「はい」
 私は頷いて、もう一度頭を下げた。
 そして、
「ベッド、ありがとうございました。もう大丈夫ですから、行ってもいいですか」
 と早口で尋ねた。
「耕太くんに、お礼を言いたいんです」
 そうも付け足した。
 先生はきれいな顔に、ぼうっとした表情を浮かべている。
「いいけど……本当に大丈夫なの? ちゃんと帰れる?」
「大丈夫です」
 コブのあるところはちょっとずきずきするけど、それだけだ。ちゃんと立てる。上履きも履けた。耕太くんのところまで追い着ける。
「じゃあ、行ってもいいわよ。一応、今日は無理しないようにね」
「はい。ありがとうございました」
 耕太くんが持ってきてくれた鞄を持って、私は保健室を後にした。
 走らないように早足で、保健室前の廊下を歩く。
 そこを通り抜けてからは、――急く思いでぱっと駆け出していた。

 まだいてくれるかな、と思ったら、本当に耕太くんはいてくれた。オレンジの光が射し込む生徒玄関で、靴を履き替えているところだった。
 玄関に駆け込んできた私を見て、耕太くんは目を瞠った。
「お前、走って大丈夫なのか!」
「うん」
 息を切らせながら私は答える。全然平気、何ともない。廊下は走っちゃいけないけど、これで最後にするから、今だけはどうか見逃して。
 私は、耕太くんのいる、よそのクラスの靴箱前に歩み寄る。一メートルくらい、距離を置いて立ち止まった。
 耕太くんは怪訝な顔をしている。ぼんやりと、あの時と同じ顔をしていた。
「あの」
 呼吸を整えてから、切り出した。
「ごめんね、心配掛けて。階段から落ちたりして」
「いや、だからさ、俺も悪かったんだって」
 耕太くんはすぐにそう言ったけど、私はかぶりを振った。
 そこからは自然と早口になる。
「あの、ね。私、知ってるの。耕太くんが悪くないってこと、わかってるの。耕太くんは何も悪くないよ。私が勝手に階段から落ちただけだもん。だから、耕太くんは気にしないで。むしろごめん、何か、巻き込んじゃったみたいで」
「そんなことねえから、別に」
 ぶっきらぼうに耕太くんは言った。
 でも、私は続ける。
「それと、ありがとう。階段から落ちた私を、保健室まで連れてってくれて」
 息継ぎをする。今度はたっぷり、全休符くらい。ごめんねとありがとうだけじゃなく、もっと言いたいことが他にあるから。
「それと――それとね。耕太くんのこと、好きになっててごめん」
 玄関のすのこの上、ちゃんと立っている上履きに、視線を落としてもう一つ。
「でももし迷惑じゃなかったら」
 もう一つ、出来るだけ顔を上げて、告げる。
「これからも、こっそり、好きでいていい? 私、耕太くんの頑張ってるとこ、好きなんだ」
 ちょっと話が出来ただけでうれしかった。普通に受け答えして貰えるだけでも十分、うれしかった。吹奏楽のパーカッションで一緒に部活が出来て、本当に楽しい。幸せだった。
 これからもそれだけでいい。迷惑じゃなければ、それだけで。
 耕太くんはしばらくの間、あのぼうっとした顔をしていた。
 ややあってから、一つ溜息をつく。
「しっかり覚えてたんだな、お前」
「うん」
 私が頷くと、ぎゅっと眉を顰めた。
「今日みたいなのは迷惑だ。はっきり言って、本当に迷惑」
 不機嫌そうな顔と声で、耕太くんは言う。
「俺、あの時心臓止まったんだからな」
「あの時?」
「お前が階段から落ちた時。声掛けても起きねえし、保健室連れてってもなかなか目開けねえしさ」
 その時の私は、どんな感じだったんだろう。想像も出来なくて、余計に耕太くんに申し訳ない気がした。きっとびっくりしただろうな。それに私、重かっただろうし。
「今日みたいなこと、もうしないなら、別に迷惑じゃないけど」
 耕太くんがそう言ってくれたから、今度は私の心臓が止まりそうになる。
「本当?」
「今度からは絶対気を付けろよ」
 念を押すような言葉に、
「う、うん。気を付ける!」
 私は勢いよく頷いた。
 心臓は止まらなかった。むしろとっても速く動き出している。
 思わずうれしくて、笑いたくなって、少しだけ笑っておくことにした。
「それと――」
 だけど耕太くんはまだ、何か言いたいことがあるみたいだ。口を開いて、少し間を置いた。
 私は黙って続きを待つ。
 人気のない生徒玄関は静かだ。呼吸する音も、溜息をついたのもよく響く。
 やがて耕太くんが、躊躇いながらも言葉を継いだ。
「俺もお前に、言いたいことあったんだけど」
「私に?」
 何だろう。私が怪訝に思っていると、耕太くんは苦笑いを浮かべる。
「告白の返事」
「返事って……え?」
 また心臓が。早回しのレコードみたいに音を立てた気がした。
 でも、返事はもう貰ったのに。他に何か言うことがあるの? 何か、言ってくれるの? そんなことされたら、どうしていいのかわからなくなる。
 期待したくなる。
 私はどんな顔をしようか迷って、結局俯いていた。喜ぶ準備も、悲しむ準備も出来てない。何を言われても理解出来ないかもしれない。
「けど、今日はやめとく」
 だから耕太くんがそう口にした時も、よく、わからなかった。
 思わず顔を上げてしまった。
 目に飛び込んできたのは耕太くんの、照れたような笑い顔。
「今日はもう心臓が持ちそうにねえから。かなり長い間止まってたし」
「え……」
 今日は止めておく、って。
 じゃあ、いつ言うんだろう。返事はいつくれるのかな。笑ってる耕太くんの本心はちっとも見えないから、何となく落ち着かない気持ちでいる。
「それにさ」
 耕太くんは更に、偉そうな口調で言った。
「お前が気失ってる間、俺はすっごくやきもきしてたんだ。だからお前も俺が返事言うまで、しばらくやきもきしてろよ」
「何、それ」
 知らず知らず声に出していた。
 だけど耕太くんは笑ってる。雄太くんのことを話していた時みたいに、当たり前のような顔をして、笑っていた。
「俺の気持ちがわかるだろ?」
 考えてみた。耕太くんの気持ち。考えてみたけど、――わかるような、わからないような。
 すごくやきもきしていることは確かだ。しばらくって、いつまで? 私はいつまで待っていればいいんだろう。待てなくなることはないだろうけど、吹奏楽部の練習よりもきつい気がする。
 ただ、とりあえず思った。もう本当に廊下を走るのはやめよう。
 耕太くんの心臓がまた止まっちゃうと困るから。耕太くんに、こんなやきもきする思いはもう、させたくない。
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