Tiny garden

夢に手が届く(1)

 四月の大学構内はどこもかしこもざわついている。
 年度の始まりは単なる区切りというわけではなく、学年が繰り上がり、大学を去る者もいれば新たに訪れる者もいて、新しい授業が始まり、新たな人間関係が築かれていく慌しい時期だ。春の陽気は否応なく人の気分を高揚させ、新たな環境への期待感をも高めてしまう。
 そんな空気に影響されてか、新入生となった雛子もまた多少浮かれ始めていた。

「先輩、もうすぐ先輩のお誕生日ですよ!」
 学食で落ち合い、混み合う食堂の隅の席に並んで腰を下ろしたところで、雛子は嬉々として俺に言った。
 その言葉は間違いではないが、先月辺りから何度となく聞いている言葉でもある。ついでに言えば去年も何度か聞いた。改めて言うことでもないだろうと俺は肩を竦める。
「ああ、そうだな」
 特に贈り物を用意する必要はないと、こちらも先月から言ってある。
 何も要らないというわけではないのだが、ただでさえ何かと入用な時期、彼女には散財させないようにしたかった。本人にも釘を刺しておいたが、俺は雛子さえいればそれでよかった。
 だが彼女は彼女なりに考えていたようで、ちらちらと俺を窺いながら語を継いだ。
「私、思うんですけど……せっかくのお誕生日なので、普段と違うことをしたいんです」
 その切り口からして普段と少々違っていた。
 俺はいくらか興味を持ち、続きを促す。
「違うことと言うと、例えば何だ」
「ええと、例えば、いつもは行かないようなところへ二人で出かけるとか……」
 雛子はそう言ってから、何やら得意げに胸を張った。
「聞いてください、先輩。私、大学生になったので門限がちょっと伸びたんです」
「へえ」
 高校時代の雛子は、厳しい門限があることをよく零していた。
 門限などというものが存在しなかった俺には、それが実際厳しいのかどうか判別つかなかったが、当人曰く『友達はもっと遅くまで遊べてるのに』ということらしい。しかし昨今何かと物騒だから、門限を設けたくなる親御さんの気持ちもわからなくはない。俺が言えた義理ではないが。
「これからは八時くらいまでならいいって言ってもらったんです。それだって大学生にしては少々早すぎる気もするんですけど」
 雛子は少しばかり不満げにしながらも、気を取り直したように続ける。
「でも、先輩と一緒に晩ご飯を食べたりできるようになるかなって。そういうの、ちょっと夢だったんです」
「夢と呼ぶような大げさなものか」
「だって晩ご飯を食べる時間まで二人で過ごすなんて、いかにも大人のデートって感じですから」
 そう語る雛子は未だ十八歳、定義上は子供の範疇にある。
 しかし近頃は普段から髪を下ろすようになり、大学に来るというだけで化粧をしてくるようにもなった。毎日私服を着ているせいか入学後一ヶ月も経たないうちにぐっと大人っぽくなったようであり、嬉しさ三割、不安七割というのが正直な心境だった。
 そんな彼女が『大人のデート』などと言い出せば、俺は当然面食らう。思わず返答に詰まっていれば、雛子は駄目押しのように繰り返してきた。
「駄目ですか? 絶対楽しいと思うんですけど」
 かく言う俺も部屋を訪ねてきた雛子が言いつけ通りに帰ってしまった後は、いつも身を切られるような寂しさを覚えていた。彼女を駅や自宅近くまで送り届けた後、妙に広く感じる部屋に戻ると空しくてたまらず、一人で食事の支度をするのが億劫だと思うことさえあった。結局は自分で作って食べるのだが、ここに雛子がまだいてくれたら、などと考えたことも一度や二度ではない。
 今回、彼女の門限は撤廃されたわけではなく、二時間延びただけだ。結局は彼女を帰さねばならず、それならそれでまた別の寂しさを覚えることだろう。だが彼女と共に夕飯を食べられるようになるのは魅力的な話だった。これまで一人でやり過ごさなければならなかった時間も共有できるようになる。
「それは確かに楽しいだろうな」
 俺は明るい気分になって相槌を打つ。
 すると彼女も飛びつくような勢いで言った。
「ですよね! じゃあ先輩のお誕生日はそういうふうにして過ごしませんか? 二人でいつも行かないようなところへ出かけて、帰りに一緒にご飯を食べて!」
 どうも雛子は必要以上に浮かれているようだったが、それも春、新しい季節を迎えたからなのだろう。
 今となっては幸いなことに、俺は誕生日をどう過ごすのがいいのか、どういうものを理想的な誕生日と呼ぶのか、そういった知識がほとんどない。だからこの件に関しては、こうでなくてはならない、必ずこうしなくてはいけないといった凝り固まった考えが存在せず、彼女の希望に合わせることができる。
 俺は何度も言ってある通り、雛子さえいてくれればそれでいい。
「なら、お前はどこへ行きたい?」
 昼食を取りながら、俺は雛子に尋ねた。
 雛子はきょとんとしてからおかしそうに吹き出す。
「私に聞くんですか? 先輩のお誕生日なのに」
「俺は特に希望はない」
 正確に言えば、希望自体はなくはない。だが俺の行きたいところと言えば図書館、書店、古本屋といった二人で通い慣れた場所ばかりだ。あとはせいぜい、静かで居心地のいい自分の部屋くらいか。
 普段からして俺たちはあちこち出かけて行くような過ごし方をしていない。いつも行かないようなところというのは、大体が端から興味もない場所だった。
「全然ないんですか?」
 彼女が瞬きをする。
「思い浮かばん。お前が決めていい」
「そんな……。どこでもいいんですよ、たまにはレジャー的なことをしてみるとか、ちょっとだけ遠出をするとか」
 俺が選択権を譲ろうとすると、雛子は必死になってヒントを与えようとしてくる。
 それでやむなく考えてはみるのだが、やはり浮かんでこない。
「レジャーと言っても、そもそもほとんどやったことがないからな。例えばどんなものがある?」
「えっと、そうですね……」
 雛子が小首を傾げて考え始めた時だ。
「――え、何なに? お二人さん、デートの相談?」
 突然騒々しい声が頭上から降ってきて、俺たちはほぼ同時に顔を上げた。
 予想するまでもなく、現われたのは大槻だった。間の悪いことにちょうど雛子の真向かいの席が空き、大槻は滑り込むようにしてそこへ座ると、持ってきた食事には目もくれず身を乗り出してくる。
「もしかして連休中どこ行こうって話? 楽しそうでいいねえ」
 うるさいのが交ざってきた、と俺は顔を顰めたが、雛子は特に気にしたそぶりもない。それどころか親しみを込めて微笑んだ。
「大槻さん、こんにちは。実は鳴海先輩のお誕生日がもうすぐなので、その話をしてたところなんです」
 そこまで詳細を説明しなくてもいいのに。
 途端、大槻は目を瞠り、すぐに豪快に笑った。
「そうだったそうだった! 確か今月の末だよね!」
「そうです。二十九日ですよ」
「鳴海くんは一足先に二十一歳かあ。おめでとう!」
「おめでとうございます、先輩!」
 大槻が拍手をし始めたのを、雛子までもが真似をして手を叩く。昼時の賑やかな学食にも二人分の拍手の音は響き、何人かの学生たちがこちらを振り返った。
「……今日じゃない。当日言ってくれ」
 俺は恥じ入りながらそれだけ言うのがやっとだった。 
「んで、誕生日はどうすんの? 雛子ちゃんとどっか行くの?」
 好奇心に目を光らせながら大槻が尋ねてくる。
「はい、その予定なんですけど」
 そこで雛子はちらりと俺を見て、
「行き先が決まらないんです。先輩は特に行きたいところないみたいですし、私たち、普段から同じところばかり出かけてますし……」
 と打ち明けると、大槻はまるで責めるように俺を見た。
「行きたいところないとか言うなよ。せっかく彼女が誕生日祝ってくれるって言ってんだからさ」
「そうは言っても、行ってみようかと思う場所があるならとっくに足を運んでる」
 俺は反論した。ないものはないのだから仕方ないだろう。
「どうせなら普段行かないような場所に行ってみようかなって思うんですけど、私もこれといって思い浮かばなくって」
 雛子が眉尻を下げて息をつく。
「そっかそっか。じゃあ俺が代わりにアイディア出してあげるよ」
 なぜか大槻が自らの胸を叩いた。そして偉そうな口調で一言、
「こう見えても俺はデートの達人、むしろデートの匠だからね!」
「達人だの、匠だのよく言うものだ」
 あまりにも信用ならない名乗りに俺は眉を顰めた。
 だが雛子はと言えば素直なのか何なのか、大槻の言葉を鵜呑みにしたように食いついた。
「では是非、匠のご意見をお聞かせください」
 こうなると大槻は調子に乗る。それこそ偉い先生にでもなったみたいに鼻高々で語り出す。
「任せたまえ。俺が鳴海くんの誕生日を素敵にプロデュースしてあげよう!」
 面倒なことになったな、と俺は食事をしながら思う。
 しかしアイディアがないせいで手詰まり感があったのも確かだ。大槻の意見から何かヒントが得られるかもしれない。ひとまずは好き勝手に喋らせることにした。

 自称デートの匠こと大槻は、少し考えてからこう切り出した。
「まず俺だったら、女の子とは水泳がしたいね」
「す、水泳? 四月なのにですか?」
 雛子は驚いていたが、季節感はさておき大槻の言いそうなことだと俺は思う。いつだったか熱弁を振るっていたこともあった。
「俺は可愛い子の水着姿を見る為なら手段は厭わないよ!」
 今回もやけに熱く言い放った後、大槻は得意げに続ける。
「この辺にはましなのないけどさ、ちょっと遠出すれば温水プールがあったりするんだよ。ウォータースライダーあり、波の出るプールありの割と設備整ってるとこ」
「でも、水着はちょっと、さすがに恥ずかしいかなって……」
 当然ながら雛子は抵抗を示した。大槻の下心丸出しの意見など所詮こんなものだ。
 俺が内心せせら笑っていると、大槻はこちらを見て意味深長に笑んだ。
「鳴海くんはいいなって思ってるだろ? やっぱり見たいよね、雛子ちゃんの水着!」
 どうせ何を言っても無駄だろうと、俺は答えを差し控えた。恐らく顔には出ているに違いない。
 そんな俺の顔を、雛子もそっと窺ってくる。しばらく視線を留めてから少しだけ恥じ入るようにして、言った。
「あ、先輩が行きたいって言うなら、私はプールでも全然構いませんけど……」
「マジで!?」
 なぜか俺以上に驚いた大槻が、直後頭を抱え始める。
「くっそ、俺も言われたい! そんなふうに言われたい!」
 いちいち騒がしい奴だ。俺はほとほと呆れていた。
 水着が見たいかどうかという瑣末な問題はさておき、俺にはそれ以上に重大な問題がある。雛子と大槻がそれぞれ俺の反応を待っていたので、やむなくそれを打ち明けた。
「言いにくいんだが、俺はあまり泳ぎが上手くない」
 目の前で二人が揃ってぽかんとする。
 そんなことは想像もしなかった、という顔をしている。
「だから万が一雛子が溺れでもした場合、助けられる自信がない。水泳はやめておこう」
 俺がそう続けると、大槻は数瞬の間を置いてから苦笑した。
「そういう理由なんだ……。まあプールじゃ泳がないってわけにいかないもんな」
「海だって泳ぐものじゃないんですか、大槻さん」
 雛子の不思議そうな問いに、大槻は答えず腕組みをする。
「水泳が駄目なら……」
 早くも水泳に見切りをつけ、次の案を考え始めたようだ。デートの匠を名乗るだけのアイディアが出せるのか見ものだ。
 俺たちが見守っていると大槻の顔がひらめいたように明るくなり、
「若干チープだけど、カラオケとかは? 密室だし、二人きりだし、楽しいし!」
 いかにも名案だというように、俺たちの顔を見返している。
「多分君たちはカラオケデートなんてしたことないだろ? 記念すべき誕生日に耐久カラオケでも初挑戦しちゃえば?」
 それは本当に名案なのだろうか。俺は嘆息した。
「確かに、先輩とは行ったことないですね」
 雛子はいくらか納得したように頷いている。そう言うからには彼女も友人たちとは行ったことがあるのだろう。どんな歌を歌うのか、想像もつかない。
「と言うか先輩、カラオケって行ったことあります?」
 次いで彼女が尋ねてきたから、俺は一応正直に答えた。
「あるにはある」
「あるんですか!」
 彼女は酷く驚いていたが、果たしてあれが行ったことがあると言えるのかどうか。
「歌ったことはないぞ。サークルの二次会で一度だけ行った。することがなかったからずっと本を読んでいた」
「そりゃ、歌わなかったらすることないだろ。カラオケなんだから」
 大槻は呆れたように言うが、俺は歌を歌って楽しいという気持ちがよくわからない。カラオケでも何度かマイクを勧められたが固辞しておいた。幸いサークルのメンバーは誰も彼もが酷く酩酊していた為、俺が歌わずにずっと本を読んでいてもさほど咎められることはなかった。だが非常に時間の無駄だと思ったので、それ以降二次会の誘いは断り続けている。
「つか、聴いてみたいなあ鳴海くんの歌声! せっかくだから今度、皆で行かない?」
 歌ったことはないと言っておいたはずなのに、どういうわけか大槻が興味を示してきた。
「嫌だ」
 俺は拒んだが、そこへ雛子も膝を詰めてくる。
「私も先輩の歌が聴きたいです! 行きましょうよ先輩、カラオケに!」
「嫌だと言っている」
 詰め寄られて期待に満ちた眼差しを向けられたが、そんな目をされても困る。俺は視線を逸らしながら答えた。
「大体、人前で歌うのは恥ずかしい。歌なんて授業でもなければ歌う機会もないというのに」
 最後に歌ったのはいつだったか、すぐには思い出せないほどだ。音楽を聴くこと自体が嫌いだというわけではないが、それにしても始終聴いているわけではないし、ましてや自分で歌うとなるとハードルが高すぎる。
 俺の答えを聞いた大槻と雛子は顔を見合わせ、声を落として言葉を交わす。
「雛子ちゃん。後で鳴海くんをカラオケに連れ出す計画を立てよっか」
「そうですね、私も一度でいいから先輩の歌声聴いてみたいです」
「……聞こえてるぞ、お前ら」
 というわけでカラオケも却下だ。何があろうと行きたくはない。
「んー、水泳も駄目、カラオケも駄目となると……」
 匠としての威厳を保ちたいのだろう。大槻は粘り強く考え込んだ挙句、先程よりは自信なさそうに口を開いた。
「かなりベタだけど、映画観に行くのは? 二人っきりにはなれないけど暗いし、多少くっついてもばれないし」
 先程から大槻の述べる基準がいささか不純すぎるように思えるのは気のせいだろうか。
 さておき、俺よりも早く雛子が反応して、
「映画っていうのもいいかもしれませんね。先輩、去年の五月に偶然会ったショッピングモール、覚えてますか?」
「ああ」
 俺が一人で、雛子はお兄さんと足を運んだあの店のことだろう。俺は頷く。
「実はあそこにシネコンが入ってるんです。映画観に行くなら是非そこにしましょう」
 雛子が嬉々として語った内容には俺も覚えがあった。確か、ワンフロアを丸々使用した映画館があるとか――特に興味もなかったので知っているのはその程度だが、ひとまず見ようと思えば気軽に見られるだけの距離にはあるということだ。
 映画も、雛子とは観に行ったことはないし、自分一人で行ったのも一度だけだ。あまり楽しいと思えなくてそれ以降行っていないが、彼女とならまた違う感想を抱くだろうか。
「それいいかも。ってかさ、あそこならシネコンだけじゃなくて何でもあるし」
 すぐさま大槻も口を挟んできて、
「ゲーセンも入ってるし、服も見れるし、飯食うとこも揃ってるしさ。あと君たちの大好きな本屋さんもあるよ。どでかいやつ」
 その本屋は既に訪ねたことがある。俺と雛子は密かに目を合わせ、彼女が思い出し笑いを堪える。
 ただ、『何でもある』というのは好都合かもしれない。どこへ行くか決めかねているなら尚更だ。雛子は俺の誕生日を今までにないものにしたいようだし、それなら何でもあるようなところへ足を運んで、いろいろ試してみればいい。水泳とカラオケ以外で。
「何か観たい映画でもあるのか」
 俺は雛子に尋ねた。
 やはり雛子はおかしそうにする。
「先輩のお誕生日ですよ。先輩の好きな映画にしましょう」
「俺は詳しくないから、きっと何を観るか決められない。お前が観たいものにすればいい」
 そう告げると雛子は一瞬だけ逡巡してから、嬉しそうに顔をほころばせた。
「じゃあ、調べておきます。楽しそうなのにしますから」
「ああ、頼む」
 どうやら話がまとまったようだ。俺はほっとしつつ、やはり最初から雛子に決めてもらう方がよかったのではないかと思う。
 とは言え、映画という意見が出たのも大槻のおかげではある。俺は一応、礼を告げた。
「ありがとう、大槻。おかげで行き先が決まった」
「まあね。何せ俺はデートの匠ですから」
 大槻は全く謙遜せずに言い、それから俺と雛子へ笑いかけてきた。
「二十一歳の誕生日、楽しんできてくれたまえ!」
 無論、そのつもりでいる。
 大人のデート、になるかどうかはわからないが、今まで以上に長く二人でいられるのは嬉しいことだ。
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