Tiny garden

夢に手が届く(2)

 四月二十九日、ショッピングモールは酷く混んでいた。
 祝日、それも大型連休の最中であることを踏まえれば予想できた人出ではあったが、モールへ向かうバスは満員、モール内のテナントも客入りがよく、シネコンへ続くエスカレーターには隙間なく人が並んでいた。
 幸いだったのはシネコンが予約の利くものであったという点だ。雛子は観たい映画を選んだ時点で席の予約を入れてくれた。おかげで俺たちは時間を無駄にすることなく映画を観られた。
「先輩、パンフ買ってきてもいいですか?」
 モール最上階にあるシネコンのロビーにて、雛子は売店を指差して言った。
 シアターは複数あるが売店は共通らしく、そこには長い行列ができている。カウンター下のガラスケースにはパンフレットの見本が収められている他、カウンターの後ろにはジュースのサーバーやポップコーンを作る機械などが置いてある。カウンター上部のメニューを見ると、飲み物や軽食などの取り扱いもあるらしい。
「ああ」
 俺が頷くと彼女は嬉しそうに破顔する。
「じゃあすぐ買ってきます。ついでに飲み物も買ってきましょうか」
「俺も行く。二人分買ったら手が塞がるだろう」
「平気ですよ。先輩はコーヒーでいいですか?」
 彼女は何でもないことのようにかぶりを振ったが、俺は断固としてついていくと言い張った。
「せっかく二人で来たんだから、ばらばらに行動することもない」
 それで雛子は少しはにかみながら、俺と共に売店の行列に並んだ。
 シネコンなるものに足を運んだのは初めてのことだが、やはり広い。モールのワンフロア分の面積に十以上のシアターがあり、それぞれ違う映画を上映している。人気作なのか吹き替え版と字幕版を分けて上映している作品もあり、街中にある小さな映画館とは規模からして違うようだ。
「私が観たいの、あれなんです」
 売店に並ぶ間、雛子がふとロビーに設置されたモニターに目をやる。
 大きなモニターには現在上映中らしい映画の予告編が延々と表示されており、そのうちの一つが彼女が今日観るつもりの映画のようだ。俺はタイトルくらいしか聞いていないが、とある人気小説を実写化したもので、ミステリー仕立ての恋愛物だということらしい。
 恋愛映画か、と内容を知った俺は少々戸惑ったが、何でもいいと言った手前今更不平を唱えるのはよくない。それに雛子が俄然楽しみにしているようなので、たまには付き合ってやるべきだろう。
 彼女とこういうところへ来るのは初めてだ。たとえ映画が好みに合わなくても楽しみようはいくらでもある。
「好きな小説が実写化するのって、何だかどきどきしますよね。原作の好きなシーンが削られていないといいんですけど」
 雛子がそう言ったが、俺は件の原作を今日まで読んだこともなかったし、興味もなかった。ついでに言えば小説が映画になった作品自体にも興味を持ったことはない。
「実写になるということは、自分ではない誰かが想像した本の中の世界を覗くということだろう」
 俺は肩を竦める。
「それが自分の想像と食い違ったら、確かにがっかりしそうだ」
「でも、誰かの思い描く物語世界を見せてもらうっていうのも愉快なものですよ」
 彼女は今日の映画を本当に楽しみにしているようだ。表情が輝いている。
 そして売店の行列が進み、順番が回ってくると、彼女は喜び勇んでパンフレットを買い、飲み物を買い、更には大きなポップコーンまで買い込んだ。
「こんなに食べきれるのか」
 購入したてのポップコーンはバターのいい匂いがしていたが、二時間もない上映時間の中で食べきれるかどうかは怪しいサイズだった。紙製の容器はバケツほどの大きさで、空になれば俺の顔すらすんなり入ってしまいそうだ。
「平気ですよ。それに映画と言えばポップコーンです」
 雛子はあっさりと笑い、それから辺りに視線を巡らせる。
「ここのポップコーンがなかなか美味しいって評判で、皆買うんですって。一度食べてみたかったんです」
 彼女の言うように、売店で買い物をする客のほとんどがポップコーンを購入しているようだ。ロビーを行き交う人々があのバケツほどもある容器を持ち歩いているのが目についた。
 そしてロビーを歩く人々は皆、家族連れやカップル、友人同士と思しきグループなど、何らかの形で連れがいた。一人きりでは到底食べきれない量に見えるが、何人かでいればこれだけのポップコーンを平らげるのもたやすいだろう。
「映画を観ながら物を食べるのは初めてだ。どれだけ食べられるのか予想もつかない」
 俺がそう打ち明けると、雛子は怪訝そうに目を瞬かせた。
「そうなんですか……あの、映画館には来たことあるんですよね?」
「昔、一度だけな。駅前にある小さな劇場へ行った」
 中学三年の話だ。こちらに戻ってきたばかりの夏休み中、孤独だった俺はに暇を持て余し、何となく気が向いて行ってみた。一度行ってからはもういいという気になり、特に興味も湧かなかった。
「……誰と行ったんですか?」
 雛子が微かに笑みながら、しかし探るような目を向けてきたので、俺は嘆息した。
「昔の俺に誰か誘うような相手がいたとでも思うのか。一人で行った」
「いえ、でも、そういうのってやっぱり気になりますから……」
 彼女は気まずそうに唇を尖らせたが、逆の立場であれば俺も同じことを聞いていたかもしれない。

 全席指定のシアター内、前方近い列の中央よりに俺たちの席はあった。
 上映前には他の映画のそれはそれは長い予告編や、観客のマナー向上を訴える啓蒙映像などがスクリーンに流れ、本物の映画が始まるまで焦れるほど待たされた。おかげで俺はゆっくりとコーヒーを飲み、ポップコーンを味わう時間を得ることができた。
「予告編が長すぎやしないか。本編を観る体力まで削られそうだ」
 既に照明が落ちた館内で、俺は左隣に座る雛子に囁いた。
 彼女はおかしそうに笑ってこちらを見る。
「始まってしまえばあっという間ですよ、きっと」
 スクリーンが跳ね返す青白い光を受けて、彼女の微笑は神秘的に映った。まるで深い海の底にいるようなその姿に、俺は別の意味で映画に集中できないような気がしていた。
 いざ映画が始まると、雛子はすぐさま夢中になってスクリーンにかじりついた。一シーンも見逃してはならぬという並々ならぬ意思を窺わせながら鑑賞し始めた。それでいてポップコーンは熱心に食べていたから、余る心配はなさそうだった。
 肝心の映画の方はつまらないとまでは言わないが、俺には少々のめり込みにくい筋書きだった。世間を震撼させた殺人事件を軸に一組の男女が出会い、心を通わせていくというストーリーなのだが、事件の恐怖がそうさせるのか何なのか、メインのカップルが恐ろしい速度で仲を深めていくのには殺人事件以上におののかされた。作中に何度も登場したキスシーンでは目のやりどころに困り、気まずい思いでコーヒーを啜り、ポップコーンを食べることで逃げを打つしかなかった。本で読む分には接吻の場面だろうと一線を越える描写があろうとどうとも思わないのに、映像となるといたたまれず直視できなかった。
 しかし雛子はかなり楽しんでいたようだ。二人の流れるような出会いのシーンにはうっとりと見とれ、コミカルなやり取りにはくすくすと笑い声を立て、殺人鬼が姿を現せば俺の手をきつく握って顔を強張らせていた。俺が正視できかねた何度かのキスシーンにおいても、彼女はどぎまぎした様子ながらも目を逸らさず見入っていたので、その横顔を眺める分には楽しかった。
 映画館の雰囲気自体もそれほど悪くはなかった。恋愛、そしてミステリーを題材とした映画だからか客層は年齢が比較的高めで、上映中に騒ぎ立てる者もいなかった。できてから一年ほどしか経っていないおかげで椅子の座り心地もすこぶるよく、音響設備も臨場感溢れるいいものだった。これで恋愛映画でなければ、と思わずにはいられなかったが、その分雛子の姿を堪能したのでよしとする。
 昔行った映画はこんなにいいものではなかった。街中に建つ古い映画館はシアターが二つしかなく、片方はアメリカ産の派手なアクション映画、もう片方は国産のファミリー向けアニメ映画を上映していた。長い夏休み中、図書館通いにも飽きた俺が選んだのは後者だったが、上映が始まるとすぐに後悔した。シアター内は圧倒的に親子連れが多く、映画が始まってからもざわざわと騒がしかった。俺の真後ろの席に座った子供がまたうるさい奴で、俺の座席の背もたれに足をくっつけてじたばた暴れるので、何度か振り向いて睨みつけ、それでもやまないとわかると小声で注意までする羽目になった。幸いその子供を連れていた母親は素直に頭を下げてくれたが、それはそれで非常に気まずく居心地が悪かった。結局、映画そのものを楽しめるような気分ではなくなり、内容も曖昧にしか覚えていない。
 こんなところに一人で来る俺の方が場違いだという気がしたからかもしれない。
 夏休み中なら混雑するのも当たり前なのに、ファミリー向けとなれば小さな子供がいるのも当然なのに、迂闊にもこちらの映画を選んだ俺が悪い。それでなくともこちらの街へ戻ってきてから孤独に耐えかねていた俺にとって、大勢の家族連れは目の毒だった。俺には映画に連れて行ってくれる家族もいなければ、注意された時に頭を下げてくれるような親もいなかった。ポップコーンを食べる気はそもそもなかったが、一人で購入したところで大量に残して持ち帰る羽目になっていたことだろう。一つ一つは些細なことだが積もり積もったうんざりするような記憶が、その後俺を映画館から遠ざけていた。
 こうして再び映画館へ足を運んだのも何かの縁だろう。
 雛子といると物の価値観まで変わってしまうから不思議だ。そもそも彼女がいなければ、今日を特別な日として意識することさえなかった。

 映画を観終わった後、俺たちはモール内にあるフードコートへ移動した。
 こちらもうんざりするような混雑ぶりだったが五分粘ってどうにか席を確保した。ここのアイスクリームがとても美味しいのだと雛子が強く勧めてきたからだ。
「前に、うちの兄に奢ってもらったんです」
 彼女はそう言って、アイスをトリプルで頼んだ。
 誕生日なのでごちそうします、先輩もどうぞと言われたが、俺は遠慮してシングルに留めた。彼女の財布事情を気遣ったのもあるが、単純に食べきれる気がしなかった。
「ところで、先輩は映画楽しめました?」
「まあまあだ。お前は相当楽んだようだな」
「そうなんです。もう、期待以上の出来でした!」
 アイスを食べながら、しばし映画の感想を語り合った。俺は映画の内容については可もなく不可もなくという印象だったが、原作を読んでいた雛子は非常に満足げだった。アイスを早いピッチで食べながらしみじみと述べた。
「主人公がヒロインを庇うシーン、原作でも一番好きなところだったんです。読んでいて自分なりに映像を思い浮かべることもありましたけど、私が想像していた以上に素敵なシーンになってました」
 彼女が目を輝かせているから、俺も無粋なことは言うまいと思う。映画にさほど強い不満があったわけでもない。ただちょっと、照れくさい内容だったというだけだ。
「でも、せっかくの先輩のお誕生日なのに、私ばかり楽しんじゃってすみません」
 ふと気がついたように雛子が縮こまる。
 俺は笑ってかぶりを振った。
「気にしなくていい。俺も久々の映画にしては楽しめた」
「本当ですか?」
「ああ。一人で行った時はあまり楽しめなかったが、お前がいると何でも楽しい」
 普段から二人で書店や図書館などに足を運ぶのも確かに楽しかった。それはもちろん俺たちが互いに読書家であるからなのだろうが、彼女がいるから楽しいというのもまた事実だ。ここ一年ほどの出来事を振り返ってみれば、ちょっとした小旅行も、OBとして出向いた文化祭も、クリスマスもバレンタインデーも全て彼女がいたからこそ楽しかったと言える。
 そして今日、迎えた俺の誕生日と、久々に観た映画だってそうだ。
 もしかすると雛子さえいれば、俺は何をやっても楽しいのかもしれない。
「これからはもっと、いろんなところへ出かけてもいいな」
 思いつきで声に出して呟けば、溶けかかった三段目のアイスを口に運んでいた雛子がきょとんとする。
「え?」
「お前の門限も延びたことだし、どこか行きたいところがあるならどこへでも付き合ってやる」
 俺は彼女にそう告げた。
 もともと俺はレジャースポットなんていうものには無縁の生活を送ってきた。動物園や水族館といった場所は学校行事で行くものでしかなく、当然親に連れて行ってもらったこともない。そういう場所にいい思い出があるはずはなかった。
 騒がしい場所は苦手で、水泳も苦手で、人前で歌うのはもってのほかという俺が雛子を連れて行けるのはいつものような場所か、あとはせいぜい公園くらいのものだった。
 だがこれからは、もう少しいろんな場所へ行ってみたい。今まで敬遠してきたようなところも、彼女とだったら楽しくなるかもしれない。何より俺は、孤独だった頃の些細な傷跡をもう忘れてしまってもいいはずだった。
 今はもう孤独ではない。二十一歳になった現在、そのことを最も嬉しく思う。
「いいんですか? 行きたいところ、すごくたくさんありますけど……」
 雛子はアイスの小さなスプーンを手にしばらく考え込んだ。そして、
「それならまずはカラオケ行きましょう」
「なぜよりによってそれを選ぶ」
 まずは、と言うならもう少し気楽に行ける場所を選んで欲しいものだ。こちらはレジャー初心者と来ているのだから。
「だって……」
 恥じ入るように軽く俯いてから、彼女は上目遣いに俺を見る。
「好きな人の歌声って、聴いてみたいものじゃないですか」
 ねだってみせても無駄だ。俺は却下するつもりで眉を顰めたが、少し考えてから意見を変えた。
「俺は歌わないからお前が延々と歌えばいい。そういうのでよければ付き合ってやる」
「私だけですか!? 駄目です、行くからには先輩も歌ってください」
「嫌だ。だが、俺もお前の歌うところは見てみたいし聴いてみたい」
 そう告げると雛子は頬を赤らめたが、さすがに一人で歌い続けるのは辛いようで、この件は一旦保留となった。
 お互いにアイスを食べ終えたところで、俺たちは早々に席を立つ。昼下がりのフードコート内は未だ酷い混みようで、席を探している人々が大勢いたからだ。
「先輩、ちょっと早いですけど晩ご飯はどうします?」
 フードコートを背に歩き出しながら、雛子が尋ねてきた。
「今日は先輩のお誕生日ですから、先輩の好きなものを食べていきましょう。何か食べたいものってありますか?」
「アイスを食べたばかりだからな。あまり思い浮かばん」
 俺は答えながらも考え込み、食べたいものを自分なりに導き出そうとした。だがこれといって思い浮かばなかった。
「ご飯に味噌汁があればいい」
 考えた末にそう答えたら、雛子には驚かれてしまった。
「渋いですね、先輩。お誕生日だからごちそうにしよう、みたいなのはないんですか?」
「ないな。いつも自分で作って自分で食べるだけだから、奮発しようという気にもならない」
「そうですか……」
 彼女は息をつくように言い、じっと俺を見上げてくる。その間、彼女の胸裏にどんな思いが過ぎったのかは定かではないが、少ししてから言われた。
「あの、私の家では誕生日って言うと昔からちらし寿司とケーキなんです。よかったらそういうのにしましょうか」
 そこで俺もふと思い当たり、彼女の言葉に応じた。
「奇遇だな。俺も子供の頃はよく澄江さんにちらし寿司を作ってもらった」
 あの頃は澄江さんだけが俺の誕生日を覚えていてくれた。祝ってくれたのもあの人、たった一人きりだった。
 そして考えてみれば、こちらへ連れ戻されてからというもの、一度としてちらし寿司を食べていない。
「じゃあ、ちらし寿司にしましょう。それなら私が作りますから!」
 たちまち雛子が声を上げたので、俺は心配になって聞き返す。
「できるのか?」
「できます。だってご飯に酢を混ぜて、具を載せるだけですよ」
 間違いではないが随分たやすいことのように言うものだ。
 俺は不安だから自分で作ると言いかけたが、雛子の思いのほか真剣な面持ちを目の当たりにして、すんでのところで思い留まった。
 そこまで言うなら彼女の腕前を傍で見てやろう。必要があれば口も手も出そう。それはそれで楽しいかもしれない、などと考える俺は去年と比べても大分変わったようだ。

 当初はショッピングモールで食べていくつもりだったが、急遽予定を変更し、食品フロアでちらし寿司の材料を購入した。
 雛子がどうしてもと主張したので、ついでにケーキ屋で丸いチョコレートケーキも買った。竹串のように細いろうそくを二十一本貰って、雛子はやけに満足そうだった。ケーキに名前入りのプレートも載せましょうと言われたが、さすがにそれは固辞した。
 買い物を済ませた後は彼女と共に俺の部屋へ帰り、米を研いで炊飯器のスイッチを入れた。そして炊き上がりに合わせて二人で台所に立つ。合わせ酢は俺の指示で雛子が計量して作り、寿司飯に混ぜ込む具は俺が煮て、ちらし寿司を飾る錦糸卵は雛子が焼いた。
「錦糸卵って要は、オムレツを作って切るだけでいいんですよね?」
 両手で卵を割りながら、雛子が俺を脅かすようなことを言い出す。
「薄焼き卵を作るんだ。それを細く切る」
「大丈夫です。薄いオムレツを作りますから」
 慌てて指摘すると彼女は自信たっぷりに笑んでみせた。彼女はオムレツや目玉焼きくらいなら自分で作ることもあるそうで、実際フライパンの扱いは想像していたほど悪くなかった。火を使えば火傷をするのではないかと不安に思っていただけに、その点はほっとした。
 だがそんな彼女にも薄焼き卵は難儀な代物だったらしく、フライパンにいきなり卵液を流し込みすぎては慌て、固まってきたところを菜箸で掻き混ぜたせいで卵はどんどんぽろぽろになっていく。最終的には開き直って炒り卵を作り、酢や具材と混ぜ合わせた寿司飯の上に載せた。
「すみません……私、薄焼き卵を練習しておきます」
 雛子が決死の面持ちで言ったので、俺も慰めにならないことを言っておく。
「気にするな。栄養素は同じだ」
「それって、味は違うかもしれないってことですよね……」
「同じかもしれない。俺も炒り卵が載っているちらし寿司を食べるのは初めてだからな」
「同じであることを祈ってます。卵のせいで台無しなんて嫌ですから」
 彼女が気にしているようなので、食卓に並べる前に味見をしておいた。錦糸卵と全く同じだとは言わないが、特に気にならない程度に美味しかった。雛子にも食べさせてやると、ようやく彼女も安心したようだった。
 できあがったちらし寿司と味噌汁、それにケーキを自室の座卓に並べる。
 ケーキは食後でいいと俺は言ったのだが、雛子曰くこれにろうそくを立てて火を点けて吹き消すまでは誕生日パーティが始まらないのだという。小さなケーキに細いろうそくを二十一本も立てると、まるで針刺しに手持ちの待ち針を全部突き立てたような見栄えになった。それら全部に火を点けると小さな篝火が卓上にできあがり、照明を消してカーテンを引いた俺の部屋は、何やら禁断の儀式に手を出しているかのような趣になる。
「どうぞ吹き消してください」
 テーブルとケーキに灯る火の向こう側、炎に照らされた雛子が微笑みながらそう言った。
「俺がか? 何だか、恥ずかしいな」
 誕生日にこういうことをするものだ、という知識くらいはある。だが本来こういうことは子供のうちに済ませておくべきで、大人になってから急にやろうとすると照れてしまって駄目だ。俺がためらったのを見かねてか、雛子がさっと立ち上がる。
「じゃあ、一緒にふーってしましょうか」
 彼女は俺の隣までやってくると肩をくっつけるようにして真横に座った。そして目の端で俺を窺いながら、
「せーのでいきますよ、先輩。――せーの!」
 雛子の号令で俺たちは一斉に息を吹きかけ、ろうそくの炎は一度大きく揺らいでから掻き消える。すぐに部屋の明かりを点けると、雛子が笑顔で拍手をしてくれた。
「先輩、お誕生日おめでとうございます!」
「……ありがとう」
 言葉に詰まったのは照れのせいばかりではなかった。
 こんなに幸せな誕生日が俺にやってくるなんて、全く夢のようだ。

 俺の部屋では初めて、雛子と二人で夕飯を食べた。
 ちらし寿司は問題のない出来だったし、ろうそくを立てて穴だらけになったケーキも味に支障はなかった。何より彼女がいてくれれば格別の味に感じられた。
「必ず来年までに薄焼き卵を練習しておきます。完璧に作れるように」
 雛子は小さなケーキの四分の三を平らげながら熱く決意を語った。
「と言うか、来年は私一人でちらし寿司を作れるようになりたいです」
「期待している。俺もそれまでに、少しは祝われ慣れておこう」
 何気なく口にした言葉に、雛子が目を瞬かせる。
 俺は未だに照れながら、幸せも噛み締めながら答えた。
「こういうのには慣れなくてな。まだどうしていいのかわからない時がある」
 雛子が傍にいて、幸福に満ち足りていても、なぜか時々戸惑ってしまう。
 つまらない過去を思い出したり、皆にとって当たり前の経験がないことを引け目に思ったり――だがそういうのはそろそろ卒業してしまおう。二十一歳の誕生日はそのいい節目となるだろう。
「慣れておいてください。来年はきっと、更にすごいですよ」
「薄焼き卵を作るからか?」
 俺が問い返すと雛子は少しだけ拗ねてみせる。
「違います。――私、今から計画してるんです」
「何をだ」
「門限をですね、今以上に延ばせないかって交渉をしていこうかと」
 それから彼女は、大切な秘密を打ち明けるように続けた。
「当面の目標は十時です」
「十時? 遅すぎるだろう」
「大学生なら普通ですよ。それに先輩といるなら十時までだってあっという間です。現に今日だってあっという間でした」
 雛子はそこまで語ると急に視線を外して、もじもじしながら言葉を継ぐ。
「あと、最終的には外泊の許可をもらえたらいいな、なんて……その時は先輩のお部屋に泊めてくれますか?」
 突如として話がすっ飛んだように思えた。
 答えに窮した俺を見て、雛子は頬を真っ赤にしたまま微笑む。
「来年の先輩のお誕生日には、日付が変わると同時におめでとうを言いたいんです!」
 可愛い顔をして突飛と言うか、大胆と言うか、とんでもないことを言い出すものだ。
 それはもちろん、実現すれば素晴らしく幸せで、楽しいことに違いない。だが――。
「その前にすべきことがあるだろう。俺はお前のご両親に挨拶をしなければならない」
「じゃあ、先輩がご挨拶をしてから両親と交渉してみます」
「俺のところへ泊まりに行くと言って、それで許しがでるものなのか」
「多分大丈夫ですよ。だって私、大学生ですし、来年の今頃は十九歳ですから」
 そう言って胸を張る雛子は、確かに少し大人になったようだった。

 ともかくも、来年までに俺たちがやっておかなければならないことがいくつかできた。
 俺は彼女に祝ってもらうことに慣れておかなくてはいけないだろうし、彼女のご両親に挨拶にも行かなければならない。できれば就職活動に一区切りついてからと思っていたのだが、向こうのご都合もあるだろうし、雛子が望むなら早いうちに伺おう。
 雛子は門限の交渉をするのだろうし、外泊の許可ももしかしたら取りつけてしまうかもしれない。そしてその頃には薄焼き卵を難なく作れるようにもなっているはずだ。なっていなくても別に、気にはしないが。
 さすがに彼女が言った通りの誕生日が、来年すぐに訪れるとは思っていないが――いつかは叶う。確実に。外泊が無理なら、一緒に暮らせるようになるまで待てばいいだけの話だと、俺は思っている。それだってたやすいことではないが、いつかは。
 彼女がいれば、どんな夢にも手が届きそうだ。
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