Tiny garden

夢よりは暗くない

 先輩とあたしは初めから両想いだった訳じゃない。
 特にあたしの方は、以前は先輩が苦手だった。

 それは本当にごく単純で、馬鹿みたいな嫉妬だった。
 大学のサークルで知り合った先輩は、出会った頃から色白だった。その上肌の色にふさわしく穏やかで、優しい性格をしていた。出会った直後に思った。――絶対、この人とは合わない。
 先輩は、あたしにも他の子たちにも分け隔てなく優しく接した。誰かを特別扱いするということもなかったし、誰か苦手な相手がいるようにも見えなかった。そういう人だから、後輩たちからはよく懐かれていた。
 女の子にもてた、という訳じゃない。多分。もしかするとサークル内には、あたし以外にも先輩のことが好きな子もいたかもしれない。あたしみたいに、出会った時はそうではなくても、後からじわじわと熱が出るみたいに好きになってしまった女の子もいたのかもしれない。だとしても、表向きはもてるタイプじゃなかった。どっちかって言えば、いじられ役だった。
『わあ先輩、色白ーい!』
 連れて行かれた飲み会の席、先輩の両隣にはいつも女の子が座っていた。女の子たちが自分の手と先輩の手を並べて、見比べていたのを覚えてる。私より色が白いとか、きめが細かいとか言ってた。きゃあきゃあと可愛い声を立てられて、先輩も満更でもなさそうだった。内心はどうか知らないけど、遠目に様子をうかがっていたあたしにはそう見えた。複雑だった。
『しかも肌もちもち! 触り心地いい!』
『本当だあ、すべすべー!』
 手やら頬っぺたやらを撫でられて、触られても、先輩はにこにこしていた。そういう人だとはその頃既にわかってたけど、複雑に思った。女の子に囲まれてべたべたされて笑っているなんて、やっぱり先輩も男なんだって、当たり前のことを考えた。そうだよあの人も男なんだもん、女の子に触られたらうれしいに決まってるじゃない。しかも女の子たちと来たらきれいで可愛くて、先輩に負けず劣らず色白な子ばかりだ。うれしくないはずがない。
 あたしはその輪には当然、加われなかった。そりゃそうだ。自分のこの色の黒い手と先輩の手とを比べるなんて、晒し者もいいとこだもん。そ知らぬふりをしつつも、笑っている先輩が少し恨めしく、羨ましく思えた。
 それが――どういう経緯だっただろう。隅の方で慎ましく座っていたあたしが、先輩の横に引っ張り出された。あたしの色の黒さは主に男の子たちのからかいの対象で、その時も先輩と比べる為に並ばされた。嫌だって言えばいいのに、飲み会の空気を壊してしまうのが怖くて言えなかった。元々、からかわれたっておどけて笑い返してきたようなあたしだ。可愛い女の子らしく悲しんだり、めそめそ泣いたりってことは出来なかった。せっかくだからにやっとしてやろうと思った。笑うなら笑えば、ってな気構えでいようと。
 だけどあの時、先輩は初めて笑わなかった。
 むしろすごく悲しそうな顔をした。色白の優しそうな顔は、囃し立てられて隣に来た私を、複雑そうな面持ちで見ていた。お蔭であたしは笑うのに苦労したけど、どうにか場の空気は壊さずに済んだ。

 飲み会の帰り道、どういう訳か、あたしと先輩は一緒になった。先輩がわざわざ追い駆けてきてくれたのだと知ったのは、ずっと後になってからだ。
 先輩は、飲み会の席でのことは何も口にしなかった。
『駅まで送ってこうか』
 そう言われた。
 あたしはくたびれていたのもあったし、さっきのことを思い出しそうになったから、わざと素っ気なく応じた。
『いいです。あたし、バス通なんで』
 先輩はしつこかった。
『じゃあバス停まで送るよ』
『こんな時間じゃもうバスないですよ』
『それなら、家まで送る』
 こっちがあしらおうとしても、構わず食い下がってきた。
『うち、遠いですよ。止めといた方がいいです』
『なめるなよ、生半可な気持ちで言ってるんじゃないんだ』
 先輩の言う生半可じゃない気持ちがどんなものかは知らないけど、そこまで言うなら見せてもらおうと思った。とりあえずその晩は家まで送ってもらった。片道三十分の道程を。
 並んで歩きながら、あたしたちはあまり口を利かなかった。だけどぴたりと同じスピードで歩いていた。月明かりのきれいな夜で、先輩の肌が白いのを、あたしはいやでも目の当たりにした。見なきゃいいのに、横目でずっと見ていた。
 そしてあたしはその晩以来、先輩に対して、嫉妬と苦手意識以外の感情を持つようになった。

 告白してきたのは先輩の方から、だった。
 その頃あたしは、どうにかして先輩に釣り合う色白の女の子になろうとしていた。化粧品もとっかえひっかえ試していたし、雑誌で美白特集が組まれていると飛びついた。色が白くなって、せめて先輩の隣に立ってもおかしくないくらいになったら、好きですって言ってやろうと思っていた。あなたが好きです、釣り合うくらいの色白になったから、あたしを彼女にして、いつでも傍に置いてください――。
 だけど、その言葉を告げる機会は、遂にやってこなかった。
 先輩が、あたしよりも早く、あたしに告白してしまったからだ。
 彼がどんな台詞であたしを口説き落とそうとしたのか、それは思い出したくもない。例によって気障で歯の浮くような気恥ずかしくて堪らない台詞だった。まだ色白じゃないあたしはその気持ちを受け取るのにも抵抗あったけど、どうしてか、どうしても断れなかった。その時も先輩は笑っていなかった。
 あれから大分経つ。相変わらずあたしは心の中が滲み出てきたみたいに色黒で、先輩は色白だ。一緒に歩いているとたまに、笑われる。だけど先輩はそういう時、笑わないであたしの顔をじっと見る。心配されているのがわかるから、あたしは先輩の分も笑っておく。そんな風にずっと付き合ってきた。とてつもなく幸せで、だけど少しだけ苦しい恋を続けてきた。
 初めての夜もそうだった。すごくすごく幸せなのに、どうしてかほんの少し苦しくなった。そういう時、いつも笑っているはずの先輩は、あたしに対して笑わなくなる。笑わない先輩を見ているのは不思議な感じがする。あたしだけが独り占めしているその不思議さが、あたしを幸せにも、少し苦しくもさせているのだと思う。


 ――寒気がして、目が覚めた。
 まだ真っ暗な闇の中、あたしはいつの間にやら布団からはみ出して、寝相の悪さを晒していた。肩がすっかり冷たくなっている。布団を敷いている台所は、まるで部屋の外みたいに寒い。ここに白い雪が積もっていてもおかしくないくらいだ。
 先輩は、隣で寝ている。すやすやと安らかな寝息を立てている。そのくせさっきは布団を移動させる余裕もなかったらしくて、結局二人、台所で寝る羽目になってる。何だかおかしい。
 あたしはくしゃみをしそうになって、慌てて布団に潜り込んだ。先輩の身体に寄り添う。冷えた肩を温めるつもりで。
 と、そこへ。先輩の腕があたしの肩に触れた。何も言わず、包むようにして抱き寄せた。
 自然と肩が跳ねた。どきっとした。素肌に触られたら、初めてじゃなくたって緊張する。当然だ。
 だけど先輩は何の反応もしなかった。何も言わなかったし、あたしの肩を抱いて引き寄せただけで、それ以上は何もしなかった。恐る恐る見上げてみても、先輩の両目はしっかりと閉じられている。そうこうしている間に、お風呂みたいな温度に包み込まれて、あたしはじんわり温まってくる。
「先輩?」
 ほんのちょっと躊躇してから。抑えた声で、そっと呼びかけてみる。
 返事はない。穏やかな寝顔の先輩は、だけど笑わずにあたしを抱き締めていた。抱き枕か何かと間違えてるのかもしれない。寝入っているとは言え、平然としてるから。
 先輩の肌は評判通り、すべすべで触り心地よかった。それでも顎の辺りはざらついていて、唇で触れると少し痛い。やっぱり、先輩も男の人なんだ。そんな当たり前のことを改めて思う。知ってるくせに。

 あたしは時々夢を見る。先輩と出会った頃のこと、先輩と比べられてしまった飲み会の夜のこと、先輩に思いの丈を告げられた日のこと。その全てが普段は思い返したくないくらい、暗く澱んで落ち込んでいる。あたしの肌の色みたいに。
 だけどこの夜のことは、先輩との思い出の中で唯一、暗くない出来事になるのかもしれない。――そう思うと堪らなく幸せで、だけど少し、苦しくなった。
 白くなりたい。先輩の持つ白さに焦がれるあたしは、先輩に釣り合っているとは言えない。肌だけじゃなく、心だって白くない。それでも肌よりはずっと、心を白くしている方が簡単で、あたしたちの為になるんだろう。
 白い心で先輩を想えたらいい。これからは、素直に。
 そんなことを考えながら、あたしもやがて目を閉じる。先輩の腕の中にいると、夢よりもずっと暗くなかった。
PREV← →NEXT 目次
▲top