Tiny garden

朝よりは寒くない

 くしゅん、と可愛いくしゃみが聞こえた。
 途端に意識がはっきりしてくる。瞼の向こうの明るさで、朝になったんだと気付く。あたしはゆっくり目を開けて、すぐ目の前にあったしかめっつらを見つけた。
 台所にある小窓から、朝の光が射し込んでくる。照らされている顔はやっぱり白い。しばらくむず痒そうな顔をしていたけど、やがて落ち着いたのか、先輩もおもむろに目を開ける。目がぱちりと合う。
「……わっ」
 先輩が、驚いたような声を上げた。
 夜中からずっとあたしを抱き締めていた腕が解かれて、と同時に先輩が身を引く。触り心地のいい肌が離れると、素直に寂しく感じた。
「どうしたんですか、先輩」
 怪訝に思ったあたしの問いに、先輩は慌てた口調で答える。
「いや、だって、こんなに近くにいるとは思わなかった」
 自分で抱き寄せておいて随分な言い種だ。やっぱり抱き枕扱いだったんだろうか。酷いな、せっかく幸せだったのに。
「いますよ。一緒の布団で寝たんですから」
「それにしたって近過ぎるだろ」
 真っ赤になった先輩は、どこか恨めしげにこっちを見た。
「もう一回手が出たらどうするんだ」
 別に、出せばいいのに。――そう思うあたしは、どうやら昨晩のあたしとは決定的に違うみたいだ。たった一夜で変わってしまうなんて、この心も単純極まりない。幸せな変化には違いないだろうけど。
「とりあえず、布団に入ったらどうですか」
 あたしの方が余程冷静に告げていた。先輩の肩や背中が、掛け布団からはみ出しているのにも気付いていた。朝の空気はきんとするほど冷えている。今は何時くらいなんだろうか。
「台所は寒いですよ」
 尚も促すと、先輩は慎重な動作で再び布団に潜り込んできた。膝がごつんとぶつかると、焦った様子で言う。
「ご、ごめん」
「謝らないでくださいよ。ここは先輩の家、先輩の布団なんですから」
 最初に侵入したのはあたしの方だ。あたしが借り受けたはずの寝袋は、もう長いことほったらかしのままだ。きっと冷え切っていることだろう。
 その点こっちの布団の中は、二人分の体温で温かい。
 台所は冷え切っていて、鼻の頭まで冷たくなっていたけど。
「今、何時ですか」
「……七時半」
 先輩が白い腕を伸ばして、枕元の腕時計を拾う。文字盤に示された時刻を読み上げた後、大急ぎで腕を引っ込めた。
「あと三十分でストーブが点く。タイマー、八時に掛けたから」
 へえ、とあたしは内心で唸った。もっと早めに点けとくのかと思ってた。先輩はお休みの日でも、そうそう朝寝坊をするタイプじゃないだろう、なんて。
「お休みの日は、いつもこのくらいに起きてるんですか」
 あたしが尋ねると、先輩は場違いだと言わんばかりの、訝しそうな顔をした。
「いや、そうでもないけど。どうして?」
「意外と朝寝坊なんだなあ、と思って」
「そりゃ君が泊まってくって言ったからさ。俺一人なら、ちゃんと早めに起きるよ、自慢じゃないけど」
 どこか得意げに先輩は言う。相変わらず素肌の触れない距離で。
 そしてあたしは、先輩の言葉を不思議に思う。

 どうして、あたしが泊まっていくとなると、朝寝坊をすることになるんだろう。
 今朝、この温かい布団の中にこうして二人でいるなんて、昨日の先輩は知りもしなかったはずなのに。
 あたしだって知らなかった。考えてはいたけど、先輩がおいでって言ってくれなかったら、ふてくされながらも寝袋の中にいただろう。そして一人で朝を迎えて、いつもの時間に目が覚めて、先輩の部屋のストーブが点いていないことに気付いて、寒いと膨れていたかもしれない。だけど寝袋を出て文句を言いに行く気にはなれなかっただろう。寒いから。寝袋のまま台所まで転がって、先輩を起こしに行ったんじゃないかと思う。
 だけどそうはならなかった。あたしと先輩は同じ布団の中にいて、ストーブが点いていなくてもほどほどにぬくぬくとしている。ストーブのタイマーを遅めにセットしておいて、むしろ好都合なこの状況。

「もしかして」
 喉が渇いていたせいか、呻くような声が出た。
「先輩も、最初からこうなるつもりでいました?」
 ちらと視線を向けつつ尋ねてみる。先輩は赤い顔をして、拗ねた口調で答えてきた。
「だって、君がうちに泊まっていくっていうのに、期待を抱かずにいる方が無理だろ」
「期待してたんですか」
「……してたよ。悪いか?」
 開き直った先輩は言って、ふんと鼻を鳴らす。鼻の先まで赤かったのは、台所の寒さのせいだけじゃないはずだ。
「だったら初めから、一緒に寝ようって言えばよかったんじゃないですか。寝袋なんか引っ張り出してこなくても」
 昨晩、そう言い出した先輩の気持ちを想像すると、何だかにやけてきてしまう。滑稽にも程がある。
「先輩も案外、素直じゃないんですね」
 日頃の仕返しとばかり言ってやったら、さすがにかちんと来たらしい。
「君みたいな素直じゃない子に言われるのは癪だ」
 言うが早いかまた手を伸ばしてきて、あっという間に抱きすくめられた。すべすべの肌が全方向から、あたしをぎゅうと押し潰す。息が苦しい。幸せ。
「女の子って、びっくりするくらい柔らかいんだな」
 あたしを力の限りに抱き締める先輩が、ふとそう呟いた。
「それに肌だってすべすべだし……別の生き物って感じがする」
「肌のことは言わないでください」
 先輩に言われるとへこむ。あたしは呼吸だけは確保しようと顔を上げ、先輩を見た。先輩もあたしを見下ろしていた。笑わずに。
「すべすべなのは先輩の方です。それに先輩の方が、色が白いし」
「俺はこっちの肌の方がいいけどなあ」
 白いはずの手があたしの、白くないはずの背中を撫でる。くすぐったい。
「本当に? 本当に、あたしの肌でいいんですか」
 あたしは尋ねる。見上げた先輩の顔には、硬いひげが伸び始めている。色白の人は伸びてくるとよく目立つ。そのせいか、内心ちょっとどぎまぎした。
「いいよ。今更、そんなこと聞かないの」
 やけにあっさり答えられたので、もっとどぎまぎした。
 つまりあたしが白くなる為に重ねてきた努力は、結構無駄だったのかもしれない。先輩が好きなのは白とか黒とか関係ない、あたしの肌、な訳だから。うぬぼれじゃなく、今はそう実感してる。
 幸せだった。だけどどぎまぎしてたし、ほんの少し苦しかった。あたしは先輩の胸に顔を埋めて、しばらくぎゅうと抱きつき返していた。だけどそれだけじゃ物足りなくなって、いっそ素直になってしまうことにした。
「ねえ、先輩」
「ん?」
「別にいいですよ。もう一回、手を出しても」
 素直に、告げてみた。だから余計に顔を上げられなかった。先輩に抱きついたまま、あたしは一人で真っ赤になって、先輩の返事を待っていた。先輩も、今はとにかく素直になってくれたらいいな、と思いながら。
 ややあってから、先輩が言った。
「先にご飯にしていい?」
「うわあ、ムード台無し」
 普段の気障っぷりをこういう時に発揮すればいいものを、先輩は駄目過ぎる。呆れつつちらと覗き見た顔は、意外にも笑っていなかった。
「だって、お互いにひもじい思いをしながらっていうのも、ある意味ムードがないだろ?」
「……そうかも」
 かも、しれない。
 それに昨日の晩、先輩が言ってた。大切にしたいんだって。あたしにひもじい思いをさせないっていうのも、大切にされてることにはなる。――なんて、好きな人のことだから、ちょっと贔屓目に見てしまうけど。
 そうしたら、急にお腹が空いてきた。
「先輩、朝ご飯は何ですか」
「そうだなあ。昨日の鍋の残りがあるから、雑炊かうどんでどう?」
「最高です」
「よし決まり。部屋が暖まったら行動開始な」

 布団の中で抱き合ったまま、あたしと先輩は幸せに笑う。
 こうして二人で迎えた朝、ストーブがようやく動き始めた頃なのに、いつよりも寒さを感じなかった。だから、時々はこんな風に朝を過ごせたらいいなと思う。雪の降るような寒い朝なら尚のこと。
 あたしは雪よりも白い心で、先輩の腕の中、溶けてしまえたらそれだけで幸せだ。
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