Tiny garden

星よりは遠くない

 寝袋で寝るなんて久々だった。
 山登り用の上等なものらしくて、冬だというのにちっとも寒くない。むしろちょっと暑い。
 もぞもぞ腕を外へ出してみると、すっとして心地よかった。明かりを消した部屋は暗い。まだ目が慣れなくて、かざした手も天井もよく見えない。色白じゃないことも自分でわからないくらい、暗かった。
「先輩、起きてます?」
 わかっていたけどあたしは尋ねた。
 すぐにもぞもぞいう音がして、遠くで返事があった。
「起きてるよ」
 先輩のアパートはそんなに広くない。なのに声が遠くに聞こえるのはおかしいと思う。あたしは普通の声で話しかけてみる。
「眠れないんですけど」
 少しの間があった。
 暗いせいか、先輩の姿はまるで見えない。でも静かなせいで、声は何とか聞き取れた。困惑している様子なのもわかった。
「じゃあ、子守唄でも歌おうか」
「いえ結構です」
「何だよ。俺の歌じゃ眠れないって言うのか」
 今度は心外そうに聞こえた。
 そんなこと言ったって、子守唄で寝られるような年じゃないし。っていうかそのくらいわかるでしょうが。いや、先輩ならわかんないか。
「何か、話しません?」
 寝袋の中から持ち掛けてみる。
 次の返事も間が空いた。寝返りを打つ気配。
「いいよ。何、話そうか」
 先輩がそう言ってくれて、ほっとする。
 でも、話す内容を探すのがまた大変だった。

 こんな風に夜を過ごすのは初めてだった。積もる話がありそうなものだけど、夜は初めてでも昼間はしょっちゅう顔を合わせているので、改めて話すようなこともない。話したいことは大体話し尽くしていた。
 眠れない夜になりそうだった。真冬で、外は雪が降ってるのに、寝袋は暑くて堪らない。そして先輩は傍にいない。気になる。
「……せっかくだからさ」
 と、先輩は穏やかに言う。
 せっかく、という単語に動揺しそうになったのも束の間、
「ちょっといい話とか聞きたいなあ」
 言葉はそう続いて、あたしは寝袋の中で肩を竦めた。
「何ですか、ちょっといい話って」
「だからさ。ほろりとするような人情ものとかそういうのにしよう」
 あたしに何を期待してるんだろう、この人。すべらない話とかするつもりないし。っていうか、せっかくって言っといてそれか、と思う。
 せっかく二人きりだからって言うのかと思った――いや、それこそあの人に何を期待するんだって話か。二人きりなのにムードに欠けるのもいつものことだ。お互い様だ。
「君も寝袋で寝てるんだし」
 と、あたしに寝袋を押しつけた張本人が言う。
「キャンプの思い出とか、そういうの語ったらどうだろう」
「キャンプなんて、ちっちゃい頃以来ですよ」
「それでいいんだよ。静かな夜に思い出語りなんて、詩的じゃないか」
 そうかなあ。詩的かなあ。
 ま、ここで喧嘩になるのもいただけない。いい話になるかどうかはわからないけど、何か話をしてみようと思った。どうせ眠れそうにないし。
「――昔、家族でキャンプに行ったことあったんですよ」
 ぽつぽつ、切り出してみる。
「へえ、ご家族で。いいね団欒だね」
「うちはアウトドア好き一家だったんです。私の色が白くないのも多分そのせいで」
「また気にしてるのか」
 先輩が溜息をつく。あたしはむくれる。
「気にします。一生気にします」
 もっとも、こうして暗いところにいるうちはあまり気にならないかもしれない。私から先輩が見えないように、先輩からも私が見えないだろうから。
「で、キャンプでは定番通りのことをしました。フリスビーとかサイクリングとかバーベキューとか」
 お約束過ぎる思い出。あまりにありふれていて、改めて人に語るようなことでもないくらい。
「楽しそうだなあ」
 でも先輩は相槌を打ってくれる。多分本気で言ってる。
「夜は家族で星空を見ました」
「いいな、ロマンチックだ」
「どうですかね。星を見上げてたら、何か自分がちっぽけな存在に思えてきてしょうがなかったんです。手を伸ばしたところで届きゃしないし、人間ってなんてちっちゃいんだろうって思いました」
 寝袋から出した手を、かざしてみる。夜空の星どころか、暗い天井にも届かない私の手。もちろん、先輩までなんて届く訳もない。
 星よりは遠くないはずなんだけど――どこにいるのか、見えないくらいだ。
「そうして星を見ているうちに、気付いたんです」
「何に?」
「人間って、いつかは死ぬんだよなあって」
 正直に打ち明けたら、今度は吹き出されたみたいだ。
「君、それ、いくつの時の話?」
「ええと、小一か……小二ですかね」
「ちっちゃい子の考えることじゃないよ。そんな早くに悟ってどうすんの」
「そんなこと言われても、悟っちゃったんだからしょうがないでしょう」
 満天の星空を見上げた時に思った。星は遠い。遠過ぎる。あんな遠くから見下ろされるあたしたちは恐ろしくちっぽけで、取るに足らない存在だ。
 星の一生に比べたら人間の一生なんて儚いものだ。あたしはそう思って、それで悟った。
「別にいいんですよ。いつかは死ぬんだから、それはそれで」
 あたしは手をかざし続けていた。ようやく五本の指の輪郭が、おぼろげながらも見えてきた。
「だから、問題はどう生きるかだって思った訳なんです」
「いけすかない子だったんだなあ」
「ええ、昔から」
 自覚はある。昔からこうだ。あたしはひねくれてて、口が悪くて、馬鹿みたいに冷めてて、色白じゃなかった。可愛い女の子のはずがなかった。見た目にも、中身にも。
 こんな風に二人きりの夜を迎えても、愛の言葉なんて口に出来ない。素直になれない。可愛くない。自覚があった。
 せっかく二人きりなのに。せっかく、星よりは遠くない位置に、先輩がいるのに。 
「先輩」
 あたしは寝袋の中で、寝返りを打った。先輩がいると思しき方を向き、声を掛ける。
「人間、いつかは死ぬんですよ」
「知ってるよ」
 先輩が応えてくれる。少し笑ったような声で。
 でもあたしは笑えずに、割と本気で言ってしまう。
「お願いですから先輩は、長生きして貰えませんか」
 愛の言葉に近い、そんな台詞を。

 さっきよりも長い間があった。
 意外にも笑われなかった。真剣な口調で言われた。
「長生き、したいけどな。君の為に……と言えたらいいだろうけど、こればっかりはわからないだろ?」
「じゃあ養生してください」
 あたしは思う。そう願う。先輩に長生きして欲しい。まだお互い学生で、寿命なんて意識する暇もない毎日を送っているけど、でも思う。先輩にはずっとずっと長生きして欲しい。
 先輩と出来るだけ長く、一緒にいたい。末永く。
「わかった」
 短い答えの後で、先輩は優しい声を立てる。
「俺も、君と添い遂げたいって思うよ。……まだ気の早い話だろうけどな」
 添い遂げたい。その言葉が、夜の暗さに溶けていく。
 あたしが言いたかったのもそれだ。多分そういうこと。あたしの可愛くない心じゃ到底、そんな言葉は紡げなかったけど――。
 せめてもう少し可愛いこと言ってみたいもんだ。
「先輩」
 目が慣れてきた。室内に先輩の姿はない。先輩の部屋のどこにもない。奥の方に暗い台所があって、そこの床の上に布団が敷いてあるのがちらりと見えた。
「そっち行ってもいいですか」
 あたしは尋ねる。
 知っていた。先輩の部屋には布団が一組しかない。その他には寝袋しかなくて、今夜は冷えるだろうからってあたしは寝袋を押しつけられた。先輩は布団で寝ている。しかもわざわざ台所に敷いている。
 紳士的なのか何なのか。
「え……いや、いいけど、寒いよ?」
 先輩の、焦ったような声が聞こえてくる。やっぱり、星よりは遠くない距離。手を伸ばせば届くかもしれない。
「二人でいれば寒くないですよ」
 あ、これ、可愛い台詞じゃない? あたしは自分でそう思った。
 先輩がどう受け取ったかわからないけど、返事はしばらく後に、観念したように言われた。
「……いいよ、おいで」

 それであたしは、するりと寝袋を抜け出した。
 色白じゃないことは、これだけ暗ければ気にならない。だからもうためらわなかった。
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