Tiny garden

雪よりは白くない

 先輩が、あたしに向かって大きく手を振ってみせた。
 あの人はどんなに遠くからでもあたしのことを見つけてしまう。今も、雪が降り積もった風景の中、部屋の前で待ち伏せしていたあたしを道の向こうから目に留めて、一生懸命に駆け寄って来る。ブーツの底が埋まるくらいの積雪もものともせずに。
 あたしはコートのポケットに手を突っ込んで、何となく溜息をつく。
 今日も見つけられてしまった。雪景色に白いコートを着込んでも隠れきれなかった。
 あたしが雪よりも白くないからだ。

 ようやく部屋の前まで辿り着いた先輩が、あたしの頬に手を伸ばす。
「ほっぺた、真っ赤だよ」
 そう言うけれど、息を切らしている先輩の方が赤い頬をしている。色が白いから赤味が差すと良く目立つ。
 寒い中でもあたしの頬は、この人ほどは赤くならない。あたしは先輩が羨ましい。
「結構待ってた? 寒かったっしょ」
 尋ねられたからあたしは曖昧に頷いた。
「せいぜい二十分くらいです。雪、止んでたから寒くはなかった」
 それから、提げていたスーパーの袋を掲げる。
「夕飯、一緒に鍋でもどうですか」
「いいねえ」
 先輩はうれしそうに笑った。吐く息までが真っ白だ。
 曇天模様の空も、雲を透かした昼下がりの陽射しも、雪に覆われた町並みも、全てがあたしよりも白い。
 白いコートから飛び出した自分の手を見て、再び溜息をつく。こんな白い景色の中じゃ、あたしは何より目立つだろう。先輩が遠くからでもあたしを見つけられたのは、やっぱり白くないせいなんだ。

 ストーブがフル稼働して冷え切った部屋を暖めている。
 曇った窓ガラスの向こうではまた雪が降り始めた。微かにちらほら見えている。目の端でそれを確かめて、あたしは買ってきた雑誌を開いた。
 たまに購入する女の子向けのファッション雑誌。コスメの記事が美白特集だから飛びついてしまった。雑誌の編集部も、白に焦がれる女の子の気持ちがよくわかってる。
「こら、ちょっとは手伝えー」
 台所に立つ先輩が抗議の声を上げた。
 続いて、包丁の音が響いてくる。割とリズムよく聞こえる。
 料理の腕なら先輩の方がまだましだから、ふたりでご飯を食べる時はいつも任せ切りにしていた。先輩だってその方が安心だと思ってるに違いない。だから『手伝え』の言葉は、もっと単純な作業を指したものだろう。
 渋々あたしは雑誌を閉じて、テーブルの上に置いた。
 部屋の中を這っていって、食器棚の戸を開ける。一番下の段に無造作に放り込まれていたカセットコンロを取り出す。一緒に置かれていたボンベをセットして、それから答えた。
「先輩、手伝いましたー」
「それは手伝ったうちに入んない」
 野菜を盛った皿を手に、先輩が部屋に戻ってくる。あたしを見る目が呆れているようだった。
「楽して美味しいもの食べようと思わないの」
「楽してても美味しいのが鍋料理ってもんでしょう」
 あたしはすかさず言い返して、皿の上の野菜をひとつつまみ上げる。いびつで不揃いな形の野菜。
 先輩はと言えば、皿を手にしたままでテーブルに視線を落とす。
 その先には例のファッション雑誌があった。表紙で笑うのは人気モデル。透けるように色白だ。
「なになに、……『春にまだ間に合う、美白対策のすすめ』?」
「読み上げないでくださいよ」
 思わず手を伸ばして退けた。
 胸元で雑誌を抱きかかえたあたしを、先輩は苦笑いで見遣って、
「まだ気にしてたんだ?」
 と言う。
「まだ、って何ですか。そりゃ気になりますよ」
 白くなれないうちは一生気になり続けてる。だから雑誌も、そこで紹介されたコスメだって買ってしまう。そんなあたしの気持ちは、先輩みたいに色の白い人にはわからない。
「別に気にするほどじゃないって、いつも言ってるのに」
 野菜の皿をテーブルに置くと、先輩はあたしの隣にしゃがみ込んだ。
 至近距離で目が合う。
 先輩は、笑っている。あたしは笑う気になれない。
「あたしはすっごく気になるんです。白くなりたいんです」
「なんなくてもいいよ。今のままでも十分可愛い」
「色が白くなったらもっと可愛くなると思いませんか」
「うーん……俺は今の君が好きだなあ」
 ろくに考えもせずに先輩が言うから、あたしの気持ちは一向にすっきりしない。
 そりゃあ本人を目の前にしたら何とでも言うだろう。でも、先輩の隣にいたらあたしの肌は余計に目立つ。白に焦がれる女の子の気持ちを、先輩にももっと理解して欲しいのに。
「大体さ、白けりゃいいってもんじゃないよ、女の子は」
 ぼそっと呟くように言った先輩に、
「じゃあ聞きますけど、白くない方が得な場合ってあります?」
 すかさずあたしが聞き返すと、先輩は腕組みをして考え込んだ。
「得なこと……?」
「ないでしょ? ないですよね?」
 あるはずない。そう思って追及するあたしを先輩は手のひらで制する。
「いや、待て。考えるから」
「考えなきゃ思いつかないくらい見当たらないってことでしょ?」
「待てってば。……そうだ」
 先輩はゆっくりと眼を動かし、窓の方を見た。
 曇ったガラスの向こうは暗くなり始めている。雪はまだ降り続いているようだ。帰り道は更に積もって大変かもな、と他人事のように思ってみる。
「例えばだけど」
 あたしの思案には構わず、先輩が言った。
「こないだ観た映画みたいに、もし世界が雪と氷で閉ざされちゃったとしても、俺は君を必ず見つけ出せる自信がある」
「何言ってんですか、先輩」
 上手いことを言ったような顔をした先輩の、温かい手に頬を捕らえられた。
 心の中であたしは溜息をつく。歯が浮くようなことをこの人はよくも言うものだ。
「本当だよ」
 しかもまだ言う気らしい。
「君のことは世界のどこにいても必ず見つけてそして助け出すから」
 先輩が目を閉じて顔を近づけてきたから、
「まさに寒い話ですね」
 あたしは力一杯その肩を突き飛ばした。
 すると先輩は後ろ回りの姿勢で床に転がった。そのまましばらく放っておいたら、不恰好にごろりと起き上がった後で言った。
「何か言えば言ったで不満なんだね、君は」
「あたしはとにかく白くなりたいですから。いっそ雪みたいに真っ白くなりたいです」
 薄暗い部屋の中、雑誌のページを再び開いて、あたしはやっぱり探し始める。白くなる為の方法。
 降り積もる雪みたいに白くなりたい。
 その気持ちは何があっても変わらないと思う。変えようがない。少なくとも先輩の傍にいる限りは、そう思っているだろう。
「それだと、溶けちゃいそうで困るなあ」
 気障な台詞を置き土産に、先輩は台所へと向かう。
 あたしが雑誌から視線を上げると、部屋の明かりを点けてから、鍋を手に戻ってきた。

 蛍光灯の光の下、透けるような白い肌をしている先輩が目に留まる。
 それこそ、呆気なく溶けてしまう雪みたいだと思った。きれいな白さ。あたしにはないもの、羨ましくてしょうがない肌。
 先輩はあたしが焦がれてしまう白さを持ち合わせている。外の雪景色に溶け込んでしまったら捜し当てられるだろうか、自信はない。
「先輩」
 あたしはふと声を掛けた。
 怪訝そうな目と視線が合った拍子に告げてみた。
「今日、帰るの面倒なんで、泊まってってもいいですか」

 数秒間の沈黙。
 その後で先輩は勢い良く頷いた。鍋の水を零しながら。
「え……はい、ど、どうぞどうぞ」
 色白の人は、赤味が差すとてきめんにわかってしまう。
 色白じゃなくてよかったなと、あたしは先輩を眺めながら心底思った。
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