Tiny garden

君が好き、と言えたら

 その日私は、やりたいことのいくつかを実行に移した。

 まずは教室で話すこと。
 クラスメイトの目も気にせずに、木谷くんと普通に話すこと。
 話したのは大した内容じゃなくて、本当に他愛ない会話だった。
「木谷くん、今日、数学で当たるよ」
 あまりにも他愛ない話だったせいか、木谷くんは気が付かなかったみたいだ。私が教室で、皆の前で、声を潜めずに話しかけたのは初めてだった、ってことを。
「……あ、今日六日か。当たるなきっと。何ページからだったっけ」
 でも、気が付かないでいてくれた方がよかった。私も構えずに、自然なままで話が出来たから。
「二十七ページから。公式さらっておいた方がいいかも」
「そうする」
 木谷くんが机から数学の教科書を取り出し、ぱらぱらめくり始める。その隣で私は、木谷くんの手元を覗き込む。一緒に二十七ページの、先生が当ててきそうなところを探してあげる。
「俺、黒板に出て問題解くの苦手なんだ」
「わかるよ。私も緊張するから、すっごく苦手」
「チョークで音立てそうになるよな」
「なるなる。あれ、嫌だよね」
 ごくごくありふれた、恋人同士じゃなくてもするような会話。こんなことでさえ、今までは人目を気にして出来なかった。気にするようなことでもないのに、臆病だった私は気にし過ぎて、いろんなことをしないままでいた。
 でも、今日からは違う。
 木谷くんと話をするんだ。ごく普通に。当たり前みたいに。
 他愛ない、ごく短い会話にさえ、クラスメイトたちは笑っている。冷やかすような目で見てくる。からかうような声を上げてくる。でも平気。ちょっとは恥ずかしいけど、気にしない。
 今日は天気のいい日だった。教室の窓から太陽の光が四角い柱みたいに射し込んできていて、皆の顔も、教室ごときらきら眩しく見えていた。だからなのか、皆の視線もそれほど悪い気がしなかった。

 それから、木谷くんと一緒に帰るってことを、誰にも隠さないようにした。
 今日は私が日直で、木谷くんには少し待っていて貰わなければいけなかった。彼の方から言ってきた。
「じゃあ俺、公園で待ってる」
 木谷くんは私が、皆の目を気にしていることを察して、そういう風に決めていてくれた。――どちらかが学校の用事で少し遅くなる時には、校内じゃなくて学校近くの公園まで行って、そこで待つことにしようって。廊下や生徒玄関で待っていれば、クラスの子たちに気付かれて、冷やかされるだろうから。
 今はもう、冷やかされたっていいんだ。気にしないようにするって決めた。だって本当のことだもの。私は木谷くんと一緒に帰りたいし、木谷くんも私と一緒に帰ってくれる。だからどちらかが遅くなる時は、お互いに相手を待つ。今度からは、もっと近くで。
「ううん」
 私は木谷くんに向かって、かぶりを振る。
「廊下か、玄関で待ってて。外はまだ寒いから」
 その提案は、木谷くんを驚かせたみたいだった。でも、どうして、とは聞かれなかった。目を瞠っただけの彼が、やがてほんのちょっと表情を明るくする。
「わかった。廊下にいる」
 私はほっとした。
「ありがとう。なるべく、急ぐね」
 やっぱりどうしても、人前で話をするのは慣れてない。頬が赤くなってしまったかもしれない。でも聞こえるように言えたし、木谷くんがわかってくれたのがうれしかった。お蔭で日直の仕事もはかどった。あまり待たせずに済んで、一緒に学校を出た。


 まだ少しだけ、風の冷たい季節。
 だけど今日は陽が射していて、帰り道もぽかぽかと暖かかった。そういえば日が長くなってきたような気もする。日直を終えた帰りでも空はまだ暮れる前だった。アスファルトに伸びる影もそれほど長くはない。
 二つの影は隣り合って、ゆっくりゆっくり歩いてる。ローファーとスニーカーの足音がリズムよく重なっていく。歩調を合わせて歩いてる。
 木谷くんの影は私よりも背が高い。私の影は小さくて、その差を目の当たりにする度に、懐かしい気持ちがよみがえってくる。
 背が高くなりたかった。
 背が低くても、小さくても、いいことなんて何もないと思ってた。
 今でもそれはちょっと思う。ちびでいることに利点なんてなかった。だけど――ちびの私にも、出来ることはたくさんあった。自分で思っていた以上に、いろんなことが出来た。自分の中にこんなに力があるなんて、知らなかった。背が高くなくたって大丈夫だ。私は私のやりたいこと、きっと全部出来るようになる。

「――今日、何だか、楽しそうだよな」
 ふと、思い当たったように木谷くんが口を開く。
 私が視線を上げると、少しためらうような間の後で、続いた。
「理緒が、楽しそうに見えた。何かいいことでもあった?」
 いいこと。たくさんあるよ。やりたいことも、出来たことも、本当にたくさんあるよ。
「うん」
 私は大きく、首を縦に振る。
「あのね、私、今日は楽しかったの。今までで一番、今日が楽しかった。それに明日も楽しいだろうなって思ったら、すごくうれしくて仕方ないの」
「そうか」
 木谷くんも頷く。木谷くんも、どこか楽しそうな顔をしている。
「私、今まで、すごくもったいないことしてたような気がする」
「もったいない? 何が?」
「だって、ほんの小さなことでも、恐かったり逃げたくなったりして、自分でも悔しくなるくらいに臆病だったから。そうしていろんな面で損をしてきたように思うの」
 せっかく好きな人が出来たのに。せっかく、木谷くんと一緒にいられたのに。
 私はきっと、もったいないことをしていた。俯いて、ちゃんと向き合わずにいたせいで、いろんな楽しさ、うれしさを味わわずにいたと思う。その分は取り返したい。
「今まで損をしてきた分、取り返したい。二人で一緒にいる時は、ずっと楽しい気持ちでいたいんだ」
 そう告げたら、木谷くんは穏やかに笑った。
「理緒の新しい一面を見たような気がする」
「……あ、でも、はしゃぎ過ぎてるみたいだったら止めてね。私、浮かれてるっていう自覚はあるの」
 あんまり落ち着かないのもおかしい。好きな人が出来て、駄目になったなんて思われたくないから。しっかりしなきゃいけない時は、ちゃんと背筋を伸ばして、楽しむ時は思いっ切り楽しむ。そういう風にありたい。
「でも、止めるのももったいない気がする。はしゃぎたい時は、はしゃいでてもいいよ」
 木谷くんは言う。
「そういう理緒も、可愛いから」
 そんなことを、急に言い出す。
 瞬間、心臓が跳ねた。
 私の足はぴたりと止まって、足音も当然、止んだ。どきどきする。頬が熱くなる。可愛いだって。そんなこと言われると照れる。木谷くんがそう思ってくれるならうれしいけど、でも恥ずかしい。
 俯きたくなった。だけど、俯いちゃいけないって思った。
 もったいないもの。せっかく木谷くんがくれた言葉から逃げ出してしまうのは。可愛いって言ってくれたのに。はしゃいでもいいって言ってくれたんだから。
 一緒に足を止めた木谷くんは笑っていた。照れたようでもあったし、楽しそうでもあった。だから私も、逃げるつもりはもうなかった。
 代わりに、言ってみた。
「ありがとう。あの、――彰吾くん」
 初めて名前を呼んでみた。やりたいことのうちの、一つ。
 クラスメイトだし、彼女だから、当然知っていた名前。木谷、彰吾くん。今までは一度も呼んだことがなかったけど、でも知っていた。好きな人の名前だから。

 木谷くんは――彰吾くんは、何を言われたかわからない、というように目を瞬かせた。
 きっと、昨日の私もこんな風だったんだと思う。何を言われたかわからなくて、ぼんやりしたまま彼を見送っていた。昨日のことなのに、もうずっと前のことのように思えた。
 それから、ゆっくりと滲むようなはにかみ笑いを浮かべた。
 ただ一言だけを添えて、私へと手を差し出してきた。
「どういたしまして。……帰ろう、理緒」
 私はその手を握りながら、もう一度名前を呼ぼうとしたけど、上手く声が出なかった。でも、一度でも呼べたことがうれしかった。明日はもっとたくさん呼べそうな気がする。そうしてそのうちに、普通になっていくんだ。
 二人で手を繋いで、途中まで同じ帰り道を辿る。足元から伸びる影も手を繋いでいた。

 次は、何をしようか。
 好きってことを言えたら、確かに伝えられたら、その次にすることはたくさんある。その全部を私は、ちゃんと出来ると思ってる。全部、楽しいことばかりだ。だから。
 もう逃げない。
 彰吾くん。次は、一緒に何をしようか。
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