Tiny garden

ふたたびの予感

 初めて、木谷くんの家の奥へと案内してもらった。
 広くてきれいなリビングを通り抜けた先に、対面式のキッチンがある。そこもとってもきれいでぴかぴかで、まるでドラマに出てくるセットのおうちみたいに見えた。私たちの他に人がいないから、足音以外はしんとしている。
 木谷くんは私の手を引いたまま、キッチンにある食器棚の引き出しを開けた。そこから片手でスプーンを取り出す。鈍く光る金属のスプーン。
 その間、木谷くんはずっと黙っていた。
 会話が途切れてしまったり、上手く続かないのはたまにある、珍しくもないこと。だけど今日の沈黙は何だかぞくぞくするようで、何も言わずにいると怖くなる。私はつい口を開いた。
「広いおうちなんだね、木谷くんの家」
 ちらっと、木谷くんが私を見る。その後で思い出したように笑んだ。
「そうかな。家族といると狭いくらいだ」
 狭い、かなあ。ここに他の誰かがいたって、十分広いと思うけど。
 でも今は、どこもかしこも広すぎてがらんとしている。私たちの話し声も響いていた。
「一人でいると、さすがに広く感じるけど」
 低く、木谷くんは呟いた。
「でも今は並川さんがいてくれるから」
 私が、いるから。
 繋いだ手の先を辿って、木谷くんの顔を見ている。笑っているのにどこか寂しそうな表情。木谷くんも私を見ている。今日はずっと、元気のない様子だったけど、それでも私を見つめていてくれた。
 視線は結ばれたまま。手も繋いだまま。ここへ来てから、私たちは離れずにいる。
 好きな人と一緒にいられてとても幸せなのに、どうしてか、胸が痛かった。
「……寂しくない?」
 語を継ぐように、私は尋ねた。
 私がいるから、木谷くんは寂しくない? 私がここにいるから。手を繋いで、片時も離れずにいるから、今は寂しくない?
 寂しがらせたくない。不安がらせたくない。木谷くんには、幸せな思いだけでいて欲しい。その為にできること、私にはある。あるはず。
「うん」
 木谷くんは顎を引いた。そして、私の手も引いてくれた。
「部屋に戻ろう」

 ドアを開けてくれた木谷くんは、私に、先に入るようにと促してくれた。
 そして私がそれに従い、背後でドアの閉まる静かな音を聞いた直後に――抱き締められていた。

「あっ」
 思わず、声が出た。
 だってびっくりする。いきなり、抱き締められたりしたら。後ろから腕を回されて、肩をぎゅっと抱かれた。スプーンが部屋の床に落ちるのが見えて、あ、と思った直後、木谷くんの腕がゆっくりと下がった。
 木谷くんは膝をついていた。立ち尽くしている私に、まるで縋るように抱きついていた。お腹の辺りに腕を回されて、くすぐったかった。首には彼の呼吸も感じた。熱い。服越しに体温を感じている背中も、熱い。木谷くんの髪が耳や、頬にも触れてくる。くすぐったい。どうしたらいいのか、わからない。
「……ごめん」
 短い言葉が聞こえた。
 どうして謝るんだろう、そう思った瞬間、お腹から片腕が外れた。
 代わりに頬を撫でられた。優しい手つきは、だけど力を込めて私を振り返らせる。後ろを向けば、すぐに木谷くんの顔が見えた。すぐ、近くに。
 背後から抱き締められて、肩越しに見た、彼の眼差し。それは一瞬だけ揺らいだ。

 初めてじゃない、と唐突に思った。
 記憶のような、予感のような、不思議な気持ちが湧き起こってくる。
 前にもあった。こんな風に近づかれたこと。おでこがくっつきそうなくらいに近づかれて、いつもよりも傍で見つめられたこと。三十五センチメートルの距離が、ゼロになってしまったこと。
 初めてじゃない。だから、どうすればいいのかわかっていた。逃げたい気持ちももうなかった。望んでいた訳じゃなかったけど、嫌でもなかった。好きだから。木谷くんが好き、だから。
 目をつむった。

 予感の通り、すぐに唇に何かが触れてきた。
 記憶の中にあるものとは少し違った。かさかさしていなかったし、温度を感じられるくらいに長く、触れられていた。温い、柔らかい感触がしばらく続いた。
 抱き締めていてもらわなかったら立っていられなかったと思う。目をつむっているのに眩暈がするみたいだった。頭がぐらぐらして、自分の心臓の音が聞こえてきた。こめかみが震えているような気もした。息が苦しい。唇が、塞がれているから。
 お腹の辺りにまだ残っていた、木谷くんの片腕をぎゅっと掴んだ。木谷くんがびくりとするのが、背中に伝わってきた。その後で強く抱き直されて、一秒だけ離れた唇がまた戻ってくる。重なる。
 初めての時より、ずっとずっと長かった。不快でも、辛くもなかった。ただただ幸せで、だけど幸せな気持ちでいることが不思議でしょうがなかった。どうして、こんなことで。唇を重ねているだけなのに、キスして、抱き締めてもらっているだけなのに、こんなに幸せになるんだろう。木谷くんが私をどれだけ好きでいてくれるか、はっきりとわかってしまうんだろう。
 今も、私の背に合わせてくれている。木谷くんはちびの私でもいいと思ってくれている。幸せだった。

 ――なのに、
「ごめん」
 唇を離した直後、熱い吐息と共に木谷くんがそう言った。
 こつん、と額を軽くぶつけてきて、俯き加減で続けてくる。
「並川さん、ごめん」
 繰り返す言葉が苦しそうだった。
 目を開けてほどなくの視界は、涙の後みたいに滲んでいた。私はぼうっとしながら木谷くんの言葉を聞く。
「並川さんは、いてくれるだけでいいんだ」
 木谷くんの、震える声を聞く。
「本当はそう思ってた。いてくれるだけでいいって。一緒にいてくれるだけでいいんだって、ずっと思ってた。今も思ってる。それだけでも十分うれしいから、他には何も要らないって言わなくちゃいけなかったんだ」
 再び、両腕を回された。ぎゅっと、強く。くすぐったかったけど、逃げるつもりはなかった。むしろもっとくっついていたかった。木谷くんの不安がゼロになってしまう距離まで。
 離れない。絶対離れたくない。
「それなのに、俺」
 深く息をついた、木谷くんの言葉は続いていく。
「並川さんにいろんなこと、要求して。困らせてばかりだ。傍にいると贅沢になって、他のものも何でも欲しくなる。一つ手に入ったら次の何かが目に留まって、それを望まずにはいられなくなる。並川さんを困らせるってわかってるのに、どうしても止められなくなる。いつまで経っても満ち足りた気がしなくて」
 胸が痛くなる。
 満ち足りた気がしなかったのは、私も同じ、だったから。
「不安だとか、そういうことじゃないんだ。むしろうれしくてしょうがなかった。並川さんがいてくれたらそれだけで、本当にうれしかった」
 木谷くんのくれる気持ちが、私にはうれしかった。
 だけどこんなにも、ずきずきする。痛くて、苦しくて、泣きたくなるのはどうしてなんだろう。私も木谷くんも、今、同じ気持ちでいるはずなのに。
 同じ気持ちでいるから、なの?
「ごめん」
 木谷くんが、私の胸の内をそのまま口にした。
「いてくれるだけでいいから。並川さんは、一緒にいてくれるだけでいいんだ。他には何も要らない。もう困らせないから」

 私だって、もう困らせたくなかった。
 木谷くんのこと、安心させてあげたかった。

 再び、言えるだろうか。あの時と同じ言葉。あの時は逃げたい気持ちでいっぱいで、必死に心を奮い立たせていた。臆病さをどうにか抑えつけても、ようやく発することができたのはごく小さな、微かな声だけ。それでも木谷くんは、聞こえたと言ってくれた。その一言に私は堪らなく安心して、うれしくなった。幸せになれた。
 あの時、木谷くんも不安だったのかもしれない。私の思わせぶりな呟きに、心を揺さぶられたのかもしれなかった。早く、答えが欲しいと思ったはずだった。あの時からずっと、私たちの気持ちは、同じだったんだ。

 記憶よりも強い予感に衝き動かされるように、私は唇を動かした。
 好きな人の為にできることを。伝えたい言葉を、告げたかった。
「――好き。大好きだよ、木谷くん」
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