Tiny garden

初めてのおつかい(3)

 電車の中は、最初から最後まで混んでいた。
 私は押し潰されないように立っているのがやっとで、他のことは何もできないままだった。同じ車両に庸介が乗っていないか探してみたかったけど、周囲を見回すことさえままならなかった。

 窮屈で息苦しい時間が過ぎ、降りるべき駅に到着すると、他の乗客が私のいる乗降口へ雪崩れ込んできた。
 どうやらここで降りる人が大勢いたようだ。私もその流れに乗って降りようとしたけど、ほとんど押し流されるように進むしかなかった。
「きゃっ……」
 ホームに降りた時、誰かの肘がぶつかった衝撃でよろけた。
 そのままつまづきかけた私を、すんでのところで両手を出して、受け止めてくれた人がいた。
「大丈夫ですか?」
 庸介だ、声でわかった。
「あ……ありがとう」
 私はお礼を言いながら、彼の手を借りて体勢を立て直す。そして顔を上げたところで――、
「やっぱり近くにいたんだね――って、あれ?」
 視界に飛び込んできた見慣れているはずの顔に、途轍もない違和感を覚えた。
 眼鏡をかけている。
 目元を覆い隠すような黒いセルフレームの眼鏡と、目深に被ったストロー素材のフェドーラ帽。五分袖のシャツはカーキとベージュのカモフラ柄で、前を開けて白いシャツとゴールドチェーンを覗かせている。下はダメージ加工を派手に施した細身のジーンズ、足元はキャメルのエンジニアブーツだった。
 およそ私の知る限り、庸介に縁のなさそうなアイテムで固められていた。
「……何事?」
 私が思わず問うと、庸介は俯きながら私の手を引き、人波から外れた上り階段の陰まで連れていった。
 その後でぼそぼそと、気まずげに答える。
「変装でございます」
「ああー……こういうのなんだ」
 変装って言うから、もっと本格的なものをイメージしていた。サングラス、マスク、トレンチコートみたいな――夏場ならかえって目立ってしょうがないか。
 だけどこの方向性は本当に想像つかなかった。カモフラ柄を着た庸介も、金のチェーンをぶら下げている庸介も、ダメージジーンズをはいた庸介も、全部初めて見るから違和感がすごい。
 街中では割と見る感じのファッションでもあるから、変装という意味では正しいのかもしれない。
「これって、手持ちの服なの?」
 好奇心から尋ねると、庸介は空いている方の手で眼鏡の傾きを正す。その手には妙にごつい金属の指輪が填まっていた。
「いいえ、帽子とシャツは父のものです。他は母の趣味で」
「趣味?」
「今日の件について相談したら、その……おもちゃにされまして」
 うんざりといった彼の様子から、今朝あたりに徒野家で起きた一連のやり取りが想像できた。普段は落ち着いた服装ばかりの庸介が『尾行の為に変装をしたい』と相談を持ちかけたから、徒野さんたちは張り切ってしまったのかもしれない。この機会に、似合うと思って買っておいたのに着たがらない服も着せてみよう、なんて考えたのかもしれない。
 その結果がこれなのだろう。
「眼鏡は結構似合ってるよ」
 そう告げたら、庸介はレンズ越しに冷静な目を向けてきた。
 見慣れなくてちょっと、どきっとする。
「他に誉めどころがなくてそう仰っているのでは……」
「そんなことないよ。初めて見たからびっくりしただけ」
「びっくりで済んでいるなら幸いでした」
「今度から私服はこの路線で行ってみる?」
 私の冗談交じりの問いに、庸介は迷わずかぶりを振った。
「お隣を歩くのにふさわしい服装ではありませんから」
 そしてきっぱり言い切ると、繋いでいた手を離して微笑んだ。
「そろそろお時間です。店に入った後は離れて見守っておりますので、お気をつけて」
 黒いセルフレームの眼鏡が、目を細めた庸介の表情をより知的に、大人っぽく見せる。
 やっぱり似合うな、眼鏡。時々かけてもらおうかな。

 渡邉さんとは、駅を出てすぐのところで合流できた。
「主代さーん、久し振り!」
 手を振りながら駆け寄ってくる渡邉さんは、電話で聞いていた通り、すっかり日に焼けていた。タンクトップにデニムサロペットの夏らしい服装で、その焼けた肌をさらりと見せているところが可愛い。
 思えば私服の彼女と会うのも初めてだ。こういう服を着ているんだ、知れたことが何だか嬉しい。
「主代さんって私服もイメージ通りだね!」
 かと思ったら、渡邉さんも似たようなことを思っていたらしい。私を見て納得したような顔をしていた。
「どんなイメージ持ってたの?」
「上品っていうか清楚というか、そんな感じ」
「そ、そうかな……うち、親がうるさくて。渡邉さんが着てるような可愛い服は駄目っていうの」
 何せオフショルビキニだけであれほど悲しそうにしてみせるほどだ。
 今日は半袖のブラウスにレースガウチョという、確かにちょっとおとなしめの装いだった。私が思わず自分の服装を見下ろせば、渡邉さんはそれを笑い飛ばす。
「いいじゃん、主代さんっぽくて。よく似合ってるよ」
「ありがとう。渡邉さんもすごく似合ってて可愛いよ」
 私が心から誉め返すと、彼女は照れたようだった。
「ストレートに言われると照れんね……さて、そろそろ行く?」
「うん」
 真夏の太陽が容赦なく降り注ぐ駅前通りを、私たちは並んで歩き出す。
 行き先は渡邉さんお薦めのカフェだ。
「ふわふわかき氷が美味しい店なんだ。やっぱ夏と言えばかき氷じゃん?」
「わあ、すごく楽しみ! ちょうど冷たいもの欲しかったんだ」
 電車の中は冷房こそ効いていたけど、人が多くて少しくたびれていた。冷たいものでクールダウンするのは悪くない。
 駅前通りもそれなりの人出で、私たちははぐれないようにお喋りしながら歩いた。
 ついてきているはずの庸介のことも気にはなったけど、彼の為にも振り返らないよう心がけた。

 案内してもらって到着したカフェは、どこかレトロな雰囲気が漂う和風の店が前だった。
 のれんがかけられた引き戸の入り口を開けると、温かみのある木造の内装がまず目につく。店自体は新しめでありながら、木のテーブルやいすは使い込まれた後のように鈍い光沢を放っていたし、照明のシェードは美しいステンドグラスだ。鴨居をそのまま残した内装といい、丸い格子窓といい、雰囲気的には古民家カフェみたいだった。でも残念ながらビルの一階に入っているお店なので、『古民家のレプリカ』カフェというところだろうか。
「きれいなお店だね」
 一通り見回してから私が感想を述べると、渡邉さんがもっともらしい顔をする。
「いいよね。お高そうに見えるけどお手頃価格なのもいいし」
 それからメニューを卓上に開いて、お料理も飲み物もページを全て飛ばしてしまって、最後の方に掲載された『夏季限定デザート』を開く。
 そこには写真入りでふわふわのかき氷がたくさん紹介されていた。
「わあ、本当にふわふわ。どれがお薦め?」
「どれっていうか、ぶっちゃけ全部お薦め」
「それじゃ一つに絞れないよ」
「絞れなかったら二つ食べちゃえば? 夏だし」
 渡邉さんは誘惑するように言ってきたけど、かき氷を二つも食べたことがばれたら叱られそうだからやめておく。
 ちょうど少し前、私たちの後を追うように変装した庸介もこのカフェに入店していた。入り口に背を向けた渡邉さんの後ろをすり抜けて、奥のカウンター席に通されていたのを私も見ていた。ここからだとフェドーラ帽とカモフラシャツの背中しか見えないけど、妙に姿勢がいいのが違和感あるといえばある。
 ともかく庸介の目が光っている以上、かき氷は一つに絞らなくてはならない。
「でも、どれも美味しそう……」
 山盛りのふわふわ氷の上にトッピングやシロップをふんだんにかけていただくのがここのかき氷らしい。フレーバーも練乳いちごや宇治金時といった定番から、フレッシュマンゴー、チョコバナナ、ダージリンにティラミスなんてものまである。味が想像できるものもできないものも、どれも本当に美味しそう。
 お蔭で選べる気が全然しない。
「迷ったら、やっぱ定番からってとこ?」
 逡巡する私を見かねてか、渡邉さんが両手の人差し指でメニューを指す。
 練乳いちごか、宇治金時か。
「うう、この二つですら迷う……」
「マジで? 主代さん意外と優柔不断?」
 渡邉さんには楽しそうに笑われてしまったけど、この二択を迷わず選べる人なんているのだろうか。
 こういう時、庸介の手作りなら『両方を少しずつご用意しますよ』って言ってもらえるのにな。贅沢かな。
「じゃあ……練乳いちご!」
 三分ほど迷いに迷った挙句、私は赤いシロップと練乳のコントラストが美しい紅白のかき氷を指差した。
 途端に渡邉さんがにやりとして、
「本当にいいの? 宇治金時も美味しそうじゃない?」
「わあ、これ以上迷わせないで。苦渋の決断なの!」
「ほら、小豆の他に白玉も乗ってるんだよ。食べごたえありそうじゃん」
「も、もう決めたから! 練乳いちご!」
 惑わせにかかる彼女を振り切り、きっぱりと宣言をする。
「じゃあ私、宇治金時にしよ」
 渡邉さんはそう言うと、手を挙げて店員さんを呼んだ。
 そして手際よく注文を終えてから、にこにこと上機嫌で口を開いた。
「いやあ、盛り上がったね注文決め! 主代さんめちゃくちゃ悩んでたもんね!」
「お恥ずかしい限りです……。どれも本当に美味しそうで」
 言葉通り恥ずかしくはあったけど、これはこれで私の方も楽しかったりして。

 お友達と、初めてのカフェ。
 こんなに素敵なものなんだって、知らなかったな。
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