初めてのおつかい(2)
庸介ともう一つくらい思い出を作りたい。そんな思いを抱えつつ過ごしていた夏休みの終わり頃、私に連絡をくれた人がいた。
自室で机に向かっていたら、携帯電話が振動して、画面には『渡邉美菜』の表示――渡邉さんだ。
『久し振りー。主代さん、元気だった?』
彼女の声を聞くのは本当に久し振りだった。一学期の終業式以来だ。
懐かしさを覚えるその声に、私も思わず笑って応じた。
「うん、すごく元気。渡邉さんは?」
『元気っつか持て余してる。まだ宿題終わってないけどね』
「えっ、だ、大丈夫?」
『何とかなるっしょ。残り三日でぱぱっとやるって』
残り三日で宿題を片づけられるなんてすごい。私は密かに感嘆していた。
一方、渡邉さんはあっさり話題を変えた。
『主代さんこそ、旅行楽しかった?』
「うん。お土産買ってきたよ」
『マジで? ありがとう!』
ニースの旅行については、渡邉さんには詳細を話していない。
ただ両親と旅行に行くこと、その間は連絡が取れそうにないことは伝えておいた。行き先は父の実家ということにした。嘘だけど、本当のことは言いづらかった。
『実は私も旅行してきて、お土産あるんだ』
私の嘘なんて知らず、渡邉さんは朗らかに続ける。
『よかったら始業式前に一回会わない? 随分会ってないしさ』
「わ、私と?」
思わず声が裏返る。
それがおかしかったのか、渡邉さんが屈託のない笑い声を上げた。
『いや、主代さん以外にいないじゃん! 何それ天然ボケ?』
「違うけど……」
お友達からの、遊びのお誘い。
実を言えば初めてだった。
いや、厳密に言うなら初めてではない。小さな頃、お友達のお誕生会に招かれたことならあった。皆で子供用のドレスを着て、手土産にお菓子を持っていくようなパーティだった。楽しかったのかな、その辺りはあまり覚えていない。
高校生になってからは初めてだ。
お友達と学校の外で会う。すごく高校生っぽい!
「行くとしたら、例えばどこ?」
私が勢い込んだせいで、渡邉さんは一瞬詰まっていた。
『えっ……まあ、どこでもいいけど。お茶でもする?』
「いいね! 素敵!」
『いや、普通のお茶だよ? 主代さん、どんな店想像してんの?』
「ファストフードとか、そういうのかなって」
ハンバーガーのお店なら、庸介と一度だけ行った。あの時のシェイク、とても美味しかった。
『主代さんそういうの平気なんだ。じゃ、その辺で』
どこか安堵した様子の渡邊さんと、その後は約束について詰めた。
ちょうど明日は午後からの予定が開いていたので、そこで会うことにした。待ち合わせ場所は学校の最寄駅前。お互いお土産を忘れないこと。
『すっごい久々だもんね。会うの楽しみにしてるよ』
渡邉さんがそう言ってくれたので、私も全力で同意する。
「私も! ちょっと日焼けしてるけど、笑わないでね」
『ああ、私も私も。すっかり真っ黒だよ』
「そっか。是非見てみたいな」
この夏を、渡邉さんはどんなふうに過ごしたのだろう。
私にはいろんなことがあった。少し寂しいことも、考えさせられることも、もちろんすごくよかったことも――それらを全ては話せないけど、こんなにも素敵なお友達に何もかも秘密では寂しいから、一部だけでも話せたらいい。
そう思っていたら、
『あとさ、徒野とは最近どう? 夏休み中に何かあった?』
いきなり庸介の名前を出されて、私はとっさに言葉に詰まる。
「ど、どうって……普通じゃないかな」
『あ、キョドってる。何かあったっぽいね! その辺も会ったらしっかり聞いちゃうからよろしくね』
どうやら、ばれてしまったみたいだ。
もっともこの件に関しても、渡邉さんにはどう伝えていいのかわからない。彼女からすれば私たちは随分前から付き合っていたことになる。だけど本当はそうではなくて、この夏にようやくちゃんと付き合えたんだってことも、嘘にしなくてはならないのが寂しい。
渡邉さんと出かけることは、もちろん庸介にも話を通した。
駅前で待ち合わせるから、行田さんには送ってもらわず、電車で行きたい。部屋に呼び出してそう告げたら、それはそれは愕然とされた。
「無理でしょう!」
「何で、無理って決めつけるかな」
むくれる私を、庸介は呆れ顔で見つめてくる。
「お嬢様はお一人で電車に乗ったことがおありでしたか?」
「ないけど……」
一度もない。前の学校でも今の学校でも、登下校は行田さんの運転だった。
一日に三本も乗り継いだのは、この間のお出かけが初めてだ。あれは楽しかった。
ともあれ、庸介は咎めるように眉を顰めた。
「なら無理です。せめて駅まで、俺に送らせてください」
「いや、渡邉さんと会うのに庸介同伴っていうのはちょっと……」
お友達からのお誘いに彼氏連れで行くのは一番駄目だって漫画で読んだ。
それでなくても、私ももう高校生だ。初めてのおつかいでもないのに心配されるのはおかしい。
「大丈夫だよ。ちゃんと一人で行けるから」
私は明るく宥めたつもりだったけど、庸介は尚も心配そうにしていた。
「こっそり、ついていってはいけませんか?」
遂にはそんなことまで言い出すから、今度はこっちが愕然とする番だった。
「SPじゃないんだから!」
「必ず見つからないようにいたします」
「そういう問題じゃなくて! 尾行なんて大変だよ?」
「俺は構いません。お嬢様の身の安全が何より大事です」
真顔で言われるとどきっとするけど――これが電車に一人で乗れるか乗れないかという話だから情けない。庸介から見た私は、そこまで頼りない彼女なのだろうか。
「信頼してよ、『彼女』でしょう」
照れつつもその単語を強調してみたら、庸介ははっとしたようだ。
私から目を逸らし、やがてゆっくりと頷いた。
「仰る通りです。俺はお嬢様を信頼していなかった……」
「信じてくれるよね?」
そう尋ねたら、庸介は私の目を見ながら答える。
「わかりました。お嬢様がお一人で電車に乗れないかもしれないという懸念については、お嬢様を信じることにいたします」
何だか回りくどい言い方だと思っていれば、庸介は更に言い募る。
「しかし、他の点が心配です。やはり俺がいなければ」
「他の点って何?」
「街には危険がいっぱいです。不純異性交遊を持ちかけてきたり、怪しい仕事への斡旋を目論む不逞の輩が、お嬢様に声をかけないとも限りません」
まるでそれらの危険を実際目にしてきたかのように、彼は語気を強めて力説した。
「ですからどうか、ついてきてもいいと仰ってください」
「庸介って、ものすごく心配性なんだね」
私は思わず笑ってしまった。さすがにそこまで考えるのは気の回しすぎだと思う。
だけど庸介はどこまでも真面目だ。私を見つめて、言い聞かせるように優しく言った。
「好きだから、大切だからですよ、お嬢様」
「……そ、そっか。嬉しい、けど」
参った。
そんなふうに言われたら、こちらも邪険にはできなくなってしまう。
「絶対、渡邉さんには気づかれないようにしてよ」
結局、譲歩したのは私の方だった。
庸介はほっとしたのか、硬かった表情を和らげる。それから私の手を両手でそっと握ってみせた。
「お約束いたします。当日は陰ながらお嬢様を見守らせていただきますので、ご安心ください」
「ありがとう。でも無理はしないでね」
温かな庸介の手を見下ろしつつ、私は昔のことを思い出す。
初めてのおつかいをした小学生の時、彼は私に気づかれて、散々文句を言われていたはずだ。
「庸介は尾行が下手だから。私に見つかるくらいだもの」
からかうつもりでそう言ったら、庸介は控えめに、だけど自信を覗かせるように微笑む。
「あの頃のようには参りません。俺も幼いままではないですから」
そうなんだろうな。私の手を包む彼の手は、あの頃よりもずっと大きくて頼もしい。
あの頃は、私に見つかって泣きそうな顔さえしてたのに。
「……最近、あの時のことをよく思い出します」
庸介もそう言って、幸せそうに目を伏せる。
「今もお傍にいられて嬉しいです、お嬢様」
思いの丈を込めて呟いてくれた彼を、私も嬉しくて、だけど恥ずかしくて、声も出せずに見つめていた。
あの頃、彼は私の『初めてのおつかい』を、どんなふうに見ていたのだろう。
私にとっては切なくて、あまりいい思い出ではなかったあの日。だけど庸介にとっては違ったのかもしれない。いつかその話も聞いてみたいと思う――恥ずかしさを乗り越えられたら、だけど。
渡邉さんとの約束の日、私は一人で家を出た。
ここから待ち合わせ先の駅までは電車で向かうことになる。今回は乗り換えもないし、乗る電車と降りる駅さえ間違えなければ大丈夫。もちろん乗るべき電車がどれかも事前にネットで調べておいた。
「……あれかな。よし」
駅に着いて、改札の上に吊るされた電光掲示板を確かめる。
ちょうど乗るべき電車が表示されていたので、私は切符を買う為に券売機へと向かう。
するとその時、電話が鳴った。
画面に記された名前は『庸介』だった。
『お嬢様、券売機では三百七十円の切符をご購入ください』
出るなりそう言われて、私は慌てた。
「えっ、急に何。って言うか見てるの?」
『陰ながら見守らせていただくと申し上げたはずです』
それにしたってピンポイントなアドバイス。
思わず辺りを見回したけど、足早に人が行き交う駅構内に、見慣れた庸介らしき姿は見当たらなかった。
「庸介、どこにいるの?」
『お傍におります。万が一に備え、普段は着ない服装をしておりますが』
一体どんな服装だろう。
見てみたかったけど、いくら周囲を窺ってみても彼を見つけることはできなかった。
仕方ないので指示通りに三百七十円の切符を購入し、改札をくぐって電車に乗り込んだ。
お昼前という時間もあってか、今日も電車の中は酷く混み合っている。座席どころか吊革さえも余っていない混雑ぶりの中、ドア近くで手すりを掴むしかなかった。
庸介はちゃんと電車に乗れただろうか。
一人で出かけることに不安はないけど、それだけはちょっと心配だった。